30 まだ何も起きてはいない
ライオネルを無事に店まで連れて来ると、アーサーはすぐに彼が滞在している家まで馬を走らせることにした。やはりライオネルは別荘に滞在中だという。
「君が滞在しているのは、なんていうお屋敷かな?」
「フィード商会の会長の家です。ええと、別荘街の一番奥にある一番大きな別荘だよ。最近売りに出たのを買ったらしい」
「あー……なるほど。その家ならわかるよ。すぐに迎えを呼んで来る」
アーサーは愛馬アニーに乗って走って行った。そしてすぐに馬車を引き連れて戻って来た。
「ライオネル、日の出前に出たっきり、なかなか戻ってこないから心配したのよ」
「そうだよ。領主のヘイリー卿に助けを求めるべきかと相談していたんだ。無事でよかった」
「母さん、父さん、僕、実はあんまり無事でもなかったんだ。川で流されて、溺れかかったんだよ。気を失っているところをこの二人が助けてくれたんだ」
ライオネルの言葉に彼の両親は大変に驚き、オリビアとアーサーに深く感謝した。滞在している家はフィード商会長とやらの持ち物で、貴族であるライオネル一家は招待されたらしい。王都で話題の別荘暮らしを楽しみに来たという。
「じゃ、俺は仕事に行くね」
「行ってらっしゃい、アーサー」
「息子が世話になった。ありがとう」
などと各人に声をかけられてアーサーが出かけて行った。
「父さん、母さん、この店はスープが人気の店らしいよ。さっきご馳走になった玉ねぎとアスパラガスとチーズのスープ、美味しかったんだ」
「では改めてお礼を兼ねて落ち着いたらみんなで食事に来るとしよう。今日は本当にありがとう。礼を言うよ」
「はい。お待ちしています」
両親が持って来た着替えを身につけ、しっかりした足取りのライオネルは帰っていった。見送って店内に戻ったオリビアに、静かにしていた常連客達が声をかける。開店前に野菜のおすそ分けに来てくれたものの、一連の騒ぎを静かに見守ってくれていたのだ。
「オリビア、この店もついにお貴族様が来るようになっちまったなあ」
「そうですけど、このあといらっしゃるにしても、一度きりじゃないですかね」
その時のオリビアは本気でそう思ったのだ。
三日後。
ライオネルの一家は彼の従姉という二十代後半の女性も伴って四人で店にやって来た。その従姉をひと目見て、オリビアの心臓が速い動きになる。
(あの人、私の従姉によく似てる。名前は忘れてしまったけれど、カールのきつい金髪も、あの唇の脇のホクロにも見覚えがある)
四人の注文を受けてスープと料理の用意をしながら、不愉快な記憶が湧き上がってくるのを止められない。
「ねえ、お兄様、この子頭がおかしいわ。さっき、スズメとしゃべっていたのよ」
「へえ。おい、オリビア。スズメと何をしゃべっていたんだ?」
「ええと、スズメがね、あっちに美味しい草の実があるって言ってたの」
「聞いたか? スズメがしゃべったんだってさ」
「本当だもの! 嘘はついてないもの!」
「お兄様、だったらこの子、本当は人間じゃなくてスズメなんじゃない?」
オリビアを見ながら馬鹿にしたような顔で笑い合う兄妹。困った顔でオリビアに「いい子だから、あなたはお部屋に行ってなさい」と言う母。
また別の日には、たくさんの客を迎えたお茶会らしき集まりで、大人たちに大きな声でオリビアのことを報告する従姉。
「お父様、オリビアったらね、さっき、庭の猫とおしゃべりしてたのよ。ずーっとしゃべってるの」
「ユリア、オリビアは大丈夫なのか? 医者には診せたのか?」
「ええ、お兄様。お医者様は夢見がちな子供なのだろうっておっしゃってたわ」
「もう五歳なのに、夢と現実の区別がついてもいい年だろう」
「ええ……そうね……お兄様」
来客たちの好奇心丸出しの視線。
母の悲しむ心。
たくさんの『変な子』『身内にこんなのがいたら困るわね』という客たちの心の声。
野菜を切っている手に力が入らなくなり、指を切る前に手を止めた。
「もう乗り越えたと思っていたのに。二十年も昔のことじゃない。大丈夫。あちらは私のことなんて忘れているわ」
深呼吸してまた野菜を刻む。心を落ち着かせるために、保護して愛してくれた祖父母の言葉を思い出す。
「あなたは自慢の我が子よ。動物が大好きな優しいところも、頑張り屋さんなところも、全部素晴らしい。だから何があっても自分を卑下してはだめよ」
「オリビアは私とマーガレットの宝物だよ」
祖父母はとても優しかった。ある日勇気を出して「お父さん、お母さん」と呼んだオリビアに一瞬嬉しそうな顔をしたが、すぐに「そう呼んではいけないよ」と注意した。
「私たちのことはおじいさん、おばあさんと呼びなさい」
そう言って一枚の紙を見せてくれた。
「いつか困った時に、この紙がお前を助けてくれるだろう。私たちがいつの日か神の庭に召されても、必ずこの紙を大切にしまっておくように」
(そうだ。あの紙がある。大丈夫。落ち着くのよ)
オリビアは四人連れの客に夏野菜のミルクスープとマスのフリット、こんがり焼いたガーリックトーストを運んだ。従姉は何も言わず、何も気づかないようだった。料理は好評で、ライオネルたちは全員料理に集中して食べている。
店に他の客がいなかったのもあり、オリビアは彼らの前で名前を呼ばれることはなかった。
(たまたま空いててよかった)と自分の幸運に安堵する。
やがて四人の客は帰ろうとして立ち上がり、料理の代金の他に大銀貨を五枚渡してきた。
「困った時はお互い様ですので、これは不要です。お気持ちだけいただきます」
「あら、大切な我が子を助けてくれたんですもの、遠慮はなさらないで」
「いえ、本当に、」
互いに大銀貨を相手に押し付けようとしていると、常連客が三人入って来た。常連客の三人は、壁の「本日のスープ」を見ずに声をかける。
「オリビア、本日のスープとおかずを頼むよ。パンは二枚だ」
「俺も」
「オリビア、私のパンは一枚にしてね」
「あっ、はい」
大銀貨をやや強引に相手に戻し、「失礼します」とだけ言って入って来た客たちのほうへと歩き始めたときだ。
『オリビア? あの人、オリビアっていうの? 行方不明になった従妹と同じ名前だわ』
背後から、いつになくはっきりと心の声が聞こえてくる。そして突き刺さるような視線を感じた。
オリビアはそちらに顔を向けないよう、心の動揺を悟られないよう、笑顔を作って常連たちに挨拶をし、笑顔で台所へと引っ込んだ。
「大丈夫。あの人は私の顔を覚えていなかったじゃない。大丈夫だから。落ち着きなさい」
ライオネルたちは馬車に乗って去って行った。オリビアは従姉のことを忘れようとして、忙しく働いた。ヤギの世話をし、ハリネズミに野菜くずを与え、床を磨き、夜の料理作りに没頭した。
ありがたいことに夜はいつもより忙しく、オリビアは少しの間だけ不安を忘れることができた。
「ただいま、オリビア」
「おかえりなさい、アーサー。夕食を食べる?」
「ああ。もう帰る間、ずっとミルクスープのことを考えていたよ」
店を閉めてすぐにアーサーが帰宅し、いつもの会話をしながらオリビアは手早くアーサーの夕食を用意していた。二人で台所のテーブルで夕食を食べていた時だ。
「オリビア、今日何かあったのか。君、心がざわざわしているんだね」
「そんなことないわ。今日も商売繁盛で忙しかったのよ」
「ふぅん」
いったんは引いてくれたアーサーだったが、食事を終え、お茶を飲み、そろそろいつもなら離れに行く時間になっても動かない。
「あの、アーサー。行水用のお湯なら沸かしてあるわ。どうぞ使って」
「君さ、何か隠してるよね。前に言ったはずだよ。何も知らないでいて君に何かあったら俺は苦しむって」
再び祖母の言葉が耳に聞こえる。
『オリビア、人間は愚かなことをするけれど、いいこともちゃんとするの。だから人間を信じられるといいわね』
(そうね。信じなきゃね、おばあさん)
「アーサー、実はね、今日、」
オリビアは今日来た従姉のことを話した。アーサーは最後まで黙って聞いていたが、聞き終わると考え込んでいた。
「君は両親に会いたくないの? 俺が心配しているのはそこだけだよ。君に冷たかった老人は、おそらくもういないだろう。両親と会おうと思えば会える状況だよ。君は両親に会いたい?」
アーサーが祖父のことまで知っていることに驚きながらも、オリビアは自分の心を吟味する。両親に会いたい気持ちは少しはある。
祖父の意見に従って自分を手離すとき、両親は悲しんでいた。少なくとも自分を嫌ってはいなかった。ただ、動物と話をしたり人の心を無邪気にしゃべる自分を持て余していただけだ。
だが、自分よりも祖父の意見を選んだし、自分が普通ではないことを悲しんで悩んでもいた。
「わからない。会いたい気持ちはあるけれど、会ってもいいことは何も起きないような気がするの。会ってみないとなんとも言えないわ」
「そうか」
「アーサー、言いたいことがあるなら言って」
「俺は、君にここにいてほしいと思ってるよ。君が両親と交流が持てるなら、それはいいことだけど。君がここを閉めて両親のところへ行ってしまったら、寂しいよ。それは俺の自分勝手な願いだが、俺は今の暮らしがとても大切だ。この先もここで君と一緒に暮らしていけたらと願ってる」
(なんと返事をすべき? ううん。なんと答えるべきかじゃない。私がどうしたいか、だわ)
「ありがとう。私もここの暮らしを手放したくない。安心して、私はここで平和に穏やかに暮らしたい。でも、両親は両親で私が原因で苦しんでいたんだろうと思うと、どうしたらいいのか」
二人が口を閉じて、静かな部屋には何の音もしない。やがてオリビアは気を取り直して笑顔になった。
「まだ何も起きていないわ。従姉が私のことに確信を持ったかどうかもわからないし。私の両親に報告するかどうかもわからない。両親が従姉の話を確かめに私に会いに来るかどうかは、もっとわからない。今からこんなに深刻になる必要なんてない」
「それもそうだな。行水してくるよ」
「ええ」
アーサーが台所を出て行き、オリビアは寝ているロブに近寄って頭を撫でた。ロブは目を開け、オリビアの手を舐めて尻尾を振り、また目を閉じた。
「おやすみ、ロブ。明日もまたいい日になるわ。いい夢を」





