3 巣穴
アーサーは狼に気づかれないよう、息を浅くして見ている。
オリビアは子狼に耳を近づけている。そして肩掛けカバンからカチャカチャと音を立てて何かを取り出して子狼の手当をしているように見えた。
(狼と仲がいいって、どういうことだ? 母狼が家まで迎えに来て案内するって)
わからないことだらけだし、自分の目で見ていることが信じられない。
やがてオリビアは手当てが終わったらしく、子狼を抱き上げて母狼と一緒に森の中へと歩き出した。
と、黒犬ロブと母狼が同時に歩みを止めて鼻を高くし、クンクンと匂いを嗅ぎ始めた。
(しまった。風向きが変わったか?)
母狼がいきなりこちらに向かって走ってきた。アーサーは慌てて木に登る。左肩に鋭い痛みが走ったが、肩をかばって殺されるわけにはいかない。狼の後ろからはロブも駆け寄って来た。
アーサーは狼が飛びつけない高さの枝まで必死によじ登り、枝の上に立ってどうしたものかとオリビアを見た。
「アーサーさん、私をつけて来たんですか?」
オリビアの声に怒りはなく、困惑しているようだった。
母狼は鼻にシワを寄せ、牙を見せつけて唸っている。ロブは「ワンッ! ワンッ!」と吠えているが怒ってはいないようだ。オリビアは母狼の顔の高さに自分を合わせ、しゃがんで話しかけた。
「ごめんね。悪い人ではないから許してほしいの。私の群れの仲間よ。あなたの敵ではないわ。この子には絶対に触らせないから。安心して。それと、ロブ、静かに」
狼の背中の毛は逆立ったままだが、牙を見せるのはやめてくれた。ロブは「役に立ったでしょ?」と言うように尻尾を振ってオリビアを見ている。
「下りても大丈夫ですよ。狼の目を見ないでね。それと、私とこの子には近寄らないで」
「わかった。心配で様子を見に来たんだが、邪魔したようですね」
「この子が具合悪いの。今、巣穴まで連れて行くわ。あなたをこのまま置いてはいけないから、離れて付いてきて。ロブが他の獣から守ります」
「あ、ああ」
オリビアは子狼を抱いたまま、母狼の先導で森の中を進む。
しばらく歩き、斜面に生えたブナの大木にたどり着いた。ブナの木の根元に穴が掘られていて、そこが巣穴らしい。
母親の帰還に気づいた子狼が二匹、穴から顔を出した。オリビアに気づいて一度は穴に引っ込み、その代わりに母狼よりふた回りは大きな狼が姿を現した。父親か。
母狼がなんとも優しい声で「ぐうるるる」と呼びかけると、再び先を争うようにして子狼たちが巣穴から飛び出してきて母親にまとわりついた。腹に鼻先を押しつけてお乳をせがんでいる。
オリビアがそっと子狼を巣穴の前に置くと、父狼はその首の辺りを咥えて巣穴の中へと運び込んだ。
こんな近くで子育て中の狼の様子を見られることは、まずない。激しく攻撃されるのが普通だ。
アーサーはもっと見ていたかったが、オリビアはさっさと巣穴から離れた。家に戻るようだ。
二人と一匹で無言のまま夜の森を歩いた。オリビアが最初に口を開いた。
「アーサーさん、あの巣穴のことは誰にも言わないでください。子育て中に人間に狙われたら気の毒すぎますから」
「人に言う気はないですよ。それより、どういうことか教えてくれる?」
「知りたいんですか? どうして?」
「どうしてって、夜中に狼が迎えに来て、具合の悪い子狼の治療をして、巣穴の場所まで母狼が教えるなんて、普通はありえないことだから。いや、違うな、そもそも君、狼と会話してましたよね?」
アーサーの隣を歩いていたオリビアが、背の高いアーサーの顔を見上げた。オリビアの顔には悲しみ、困惑、諦め、そんなものが混ざっていた。
「私は雨に濡れて歩いているあなたが大変そうだったから雨宿りしてほしかった。おなかが空いているなら温かいものでおなかを満たしてほしかった。寝る場所に困るだろうと思ったからベッドを提供した。それと同じじゃだめなの? 人間に親切にするのは良くて、狼に親切にするときは理由を説明しなきゃならない?」
「いや、説明しろと無理強いしたいわけじゃないが」
「興味とか好奇心かしら」
「そう、そうだね。それと、君を心配した。迷惑だったようだけど」
「心配して見に来てくれたのは感謝します。ありがとうございました。でも、あの狼一家と私のことは誰にも説明する気になれないの。ごめんなさい」
「そうか。君を怒らせた?」
「怒ってはいません。私の口調がきつかったのなら謝ります。ごめんなさい」
そのあとは無言で歩いた。
家に着いて、オリビアはドアノブに手をかけて振り向いた。
「明日の朝食は七時でいいかしら?」
「手間をかけさせますね。ありがとう。では七時に。おやすみ」
「おやすみなさい」
オリビアは家の中に入り、カチリと鍵をかけた。
それを確認してからアーサーは山羊のいる離れに入った。二匹の山羊は小さい声で「メッ」「メッ」と鳴いただけで寝ていた。
はしご階段を上り、服を脱いでベッドに横たわる。
「狼に話しかけてた。狼もオリビアの言うことを理解していた。昔、あの狼を飼ってたとか? でも今ではすっかり野生の生活をしてるみたいだけど。子狼は病気?」
知りたいことが多すぎて眠れないかと思ったが、いつの間にか眠っていた。
夢の中で、オリビアは狼たちと追いかけっこをして遊んでいた。
アーサーはそれを木の上から羨ましく思いながら見ている夢だった。