24 ルイーズとバイロン
「ようこそいらっしゃいました。私はこの別荘の主のバイロン・ヒューズでございます」
「ルイーズ・アルシェです」
ヒューズ家の豪華な応接室で二人は向かい合っている。バイロンはルイーズの発する威圧感に圧倒されていた。
「先触れもなく悪かったわ。取り急ぎあなたに確認したいことがあったものだから」
「先触れなど不要でございます。ルイーズ様、確認したいことでございますか?」
「あなたの娘、カレンのことです」
カレンと聞いた途端、バイロンの胃がギュッと縮む。
可愛がって育てた結果、世界は自分を中心に回っていると思うようになった娘。好きな男と結婚させろと大騒ぎして顔だけの男と結婚し、相手に飽きて離婚した娘。愚かだが愛しい娘。カレンは何をやらかしたのかと手のひらがじっとり汗ばんだ。
「あなたの息子を森で助けたアーサーを護衛として雇おうとしたらしいの。でも断られたのよ。カレンは諦めきれずにアーサーの勤め先で『私に逆らうと、お客が来なくなるかもしれないわよ?』と言い放ったそうよ」
「そ、そんなことを」
(あり得る、カレンならいかにも言いそうなセリフだ。あの子にここのルールをきちんと言い聞かせなかった自分の落ち度だ。だが、ここはどう出るべきか。この女性の言いなりになれば、我が家は大損をするのではないか)
さりげなく契約書の該当するページを開いてテーブルに置くルイーズ。動揺するバイロンの様子を見ながら、次に打つべき一手を考えている。
生まれてからずっと心理戦をしているような人生だったルイーズには、苦労して財産を手に入れてきたバイロンの心の内が手に取るように読める。
「明らかな契約違反よね? 実損があるかないかは問題ではないわ。この項目がお飾りではないこと、ヘイリーは繰り返し念を押したはずですよ? ああ、安心してちょうだい。契約書をないがしろにしたのだから今すぐここから出て行け、なんて乱暴なことを言うつもりはありません」
「ご配慮、ありがたく……」
「ですが、目をつぶるつもりもありません。この土地は今は私の名義だけれど、元は王家の土地。私が神に召されれば再び王家の土地となるのです。私名義のときに『だから別荘街の建設に反対したのに』と王家に不満が向けられるわけにはいかないの」
ルイーズは「王家」という言葉を絶妙な強さで発音した。「王家」という言葉は、財を手にした人間には絶大な効果がある。歴史と王家は金銭では買えない最たるものだからだ。
そして上昇志向が強く世知に長けているバイロンのようなタイプは、王家の不興を買うようなことは絶対にしない。この国で王家に睨まれたらどんな結果を招くか、過去に十分見ているはずだからだ。
案の定、バイロンの額にはじわり、と汗が滲み始めた。
「我が娘の不始末、どうかお許しいただけないでしょうか。カレンをここに出入りさせるなとおっしゃるのなら、本日中に王都に送り帰し、この先は二度とマーレイ領に足を踏み入れないよう、きつく申しつけます。ですので、どうか、どうか、お許しを」
「バイロンさん、私、その場限りの口約束がどれほど儚いか、どれほど当てにならないか、思い知る人生でした。あなたの言葉を聞いて『はいそうですか』と帰るわけにはいかないわ」
楽しい会話をしているかのように、にこやかな顔のルイーズの言葉を聞いて、バイロンはすぐに理解した。この上品な外見の老婦人は「誓約書を書け、お前の娘がまたこの領地の住民に迷惑をかけたら、お前は何を差し出して償うつもりだ」と笑顔で詰め寄っているのだ。
「ルイーズ様、誓約書を書きます。カレンがご迷惑をかけたときには、この家を差し出しましょう。どうかそれでお許しいただけないでしょうか」
「この家、ねえ」
ルイーズは興味のなさそうな顔でぐるりと部屋を見回した。
普通の平民であれば圧倒される贅を尽くした部屋も、ルイーズから見れば金に飽かせて買い集めた高級品が多すぎる暑苦しい部屋だ。
バイロンは素早く計算していた。この別荘をさっさと売り飛ばしてしまえば損は最小で済む。別荘ならこの家を売った金で他の場所に建て直せばいいのだ。
「ですけどね、この別荘をあなたが売却したあとでカレンが舞い戻っては困るわね」
「くっ」
「あなたの娘が使ったような手は、むしろ貴族が得意なのをご存じ? じわじわと相手を追い詰めるのは、何百年も貴族が使ってきた手段ですよ。そんな手段をヒューズ家の本拠地でやられたら困るでしょう?」
「どうか、それはっ」
「私だってそんな面倒なことをしたくはないわ。ではこうしましょう。再びカレンがこの領地に戻って住民に迷惑をかけたら、事の次第を王家に報告します。それだけ。どう? 誰も損をしないわ。カレンさえ大人しく聞き入れればね」
「承知いたしましたっ!」
しばらく後、満足したルイーズを乗せた馬車は、再び『スープの森』へと向かっている。手に入れた誓約書を眺めながら、ルイーズはご機嫌だ。二十年ぶりに自分がオリビアの役に立ったことに満足している。
「報告がてら、今夜はオリビアの手料理を食べたいわね。マーガレット直伝の味を楽しもうかしら」
※・・・※・・・※
しょんぼりしているアーサーと普段通りのオリビアが二人並んで歩いている。
「ただ逃げ出すだけの不甲斐ない俺に、さぞかしがっかりしましたよね」
「いいえ。どうしてがっかりするんですか。牙を剥いて戦うのは最後の最後にするべきでしょう? アーサーさんはとても賢い選択をしたと思ってます」
二人は今、店の昼休憩を利用して森を散策している。歩きながら目ざとく薬草を見つけては籠に入れるオリビア。籠の中にはすでに何種類もの薬草が入っている。
「私、アーサーさんが思慮深い人でよかったなと思っているのに」
「そうですか」
ルイーズがアーサーを「大型犬」とうっかり口に出したのを聞いてから、オリビアはアーサーが気立てのいい大型犬に見えて仕方がない。さっきまでしおしおと下がっていた尻尾が、今は持ち上がってぶんぶんと横に振られているのを想像して笑い出しそうになってしまう。
「さて、そろそろルイーズ様が戻る頃のような気がします。店に帰りましょう。今夜は三人で一緒に夕食を食べましょう」
「オリビアさん、ルイーズ様っていったい」
「前の国王陛下の妹君で、アルシェ王国の第三王子に嫁がれた方よ。公爵家を息子さんに譲って、今はのんびりこの国で暮らしていらっしゃるの」
「国王陛下の妹? 王女様だったってこと? なんでそんなすごい人が知り合いなんですか!」
「私を育ててくれた祖母が、ルイーズ様の健康管理をしていたの。薬草に詳しいのと、病気の診断に関しては一流だったそうよ。祖母の母も祖父も、王家かかりつけの薬師だったから」
しばらく言葉が出なかったアーサーは、やがて呆れたように笑い出した。
「オリビアさんは、謎の引き出しが多すぎますよ」
「引き出しは二つだけですよ。動物とおしゃべりできることと、薬草に詳しい。それだけ」
「それとスープが上手っていう引き出しもある」
そこまで言って、アーサーはオリビアの心が漏れていることに気がついた。
オリビアの心の中の自分はなぜか、頭に三角の耳がピンと立っていて、尻にはふさふさした尻尾も生えている。
(狼? いや違う、これは犬だな。俺、オリビアさんには犬に見えてるのか?)
伺い見るオリビアの横顔は楽しそうだ。だからアーサーは(まあ、いいけど)と疑問を飲み込んだ。
予想通りルイーズが戻って来て、三人での夕食となった。
アーサーは王族と同じテーブルに着くことを辞退したが、ルイーズの「いいから、お座り」のひと言で大人しく着席した。
「お座り」の言葉と同時にまた耳と尻尾の生えた自分のイメージが流れ込んでくる。
(いや、それはどうなんだろう)とアーサーは困惑する。
「ルイーズ様、今夜はニンジンのポタージュとクルミ入りの青菜のサラダ、ハムとチーズの盛り合わせです」
「懐かしい。このスープはマーガレットのお得意だったわね」
「はい」
美味しそうに食事を始めたルイーズが、途中で話を始めた。
「おそらくあの一家はさっさと別荘を売り払ってマーレイ領から出て行くわ」
「別荘を売り払う、ですか? そこまで?」
「ええ。我が子の出来に自信がない以上、あの父親はそうするでしょうね。とにかく損をしたくない人ですもの。賭けてもいいくらいよ」
「そうなんですね。さすがです、ルイーズ様」
ルイーズは「ああ、美味しかったわ。また来るわね」と言って食事を終えると早々に帰って行った。
残されたオリビアとアーサーは今、食後のお茶を飲んでいる。沈黙が続いているが、オリビアもアーサーも心は穏やかに凪いでいた。





