22 とくとご覧あれ
「こんにちは、オリビアさん」
「こんにちは、アーサーさん。さあ、お店にどうぞ。今日は新しいお茶があるんですよ」
庭に出ていたオリビアに屈託のない笑顔で迎えられ、店に入るアーサー。「この街を出る」といつ言うべきか、悩みながら歩いてきた。会ってすぐ言うべきか、去り際に言うべきか。
今もその話をいつ切り出したらいいのか、考えている。
「青い柑橘の実の皮を薄く削いで、茶葉に混ぜてみたんです。まだお店では出していないので、アーサーさんが最初の味見係ですよ」
「楽しみです」
(あれ。オリビアさん、また少し空元気を出してる)と感じてからハッとした。
オリビアは動物や人間の感情がわかる人だ。「人間の感情はそう簡単にはわからない」と言っていたが場合によってはわかる、と言ってなかったか。
(今の俺は町を出ることで頭がいっぱいで、まさにわかる状態じゃないか?)
視線をオリビアに向けると、オリビアはアーサーに背を向けてお茶を淹れている。
「あの、オリビアさん」
「街を出るんですか? このまま?」
背中を向けたまま明るい声でオリビアが質問する。
(声が明るすぎる。つい最近、恋人と別れたばかりの彼女に、俺は「代わりでいいから一緒に月を見よう」なんて言ったのに。その舌の根も乾かないうちにこの街を出るなんて言ったら、がっかりされるか)
オリビアがお茶のカップを二つ、静かにテーブルに置いた。テーブルがほんのわずかガタついて、アーサーは(ガタつきを直したい)と思う。今はそれどころじゃないのはわかっているのに。
オリビアは静かに椅子に腰を下ろして、真っ直ぐにアーサーを見た。
「アーサーさんがこの街を出ようとしていることはわかりました。遠くからでも感じられましたから。細かい経緯を聞いてもいいですか。話したくないなら聞きませんし、そんな細かいことまでは私の力ではわかりませんから、安心してください。強い感情が流れ込んできてしまうのは仕方ないけれど、私から勝手にアーサーさんの心を覗くような失礼なことはしませんし、できません」
そこまでを一気に言葉にしたオリビアは、もう普段通りの、いや、知り合ったばかりの頃の顔だった。困っている人には親切に手を貸すが、他人とは一線を引いている顔。
「踏み込んでくれるな。その代わり自分も踏み込まない」という顔だ。
(ここできちんと説明するのが一番彼女を傷つけない。たぶん、そうだ)
「しばらく前、カレンに街で声をかけられました。彼女の家の護衛にならないかと。その場で断ったんだけど、カレンはフレディさんに圧力をかけに店まで来ました。あの手の人間は、下に見ている人間の反抗を許さない。きっとフレディさんの店が立ち行かなくなるまで嫌がらせをするだろうと思います」
「そうなんですか」
「俺がマーローの街にいればそれが続く。俺が音を上げるまでやるのが彼らの流儀ですよ。それに、カレンは君のことを気にしていた。つまり、その、俺が君とこの店を大切に思っていることに気づいているんです」
「……」
(大切にしてくれているんですね。こんな私を)
オリビアは何も言わずにお茶を飲んで、アーサーの言葉を心で繰り返す。
「もっと楽しい時に俺の気持ちを伝えたかったんですが。君はこの店をとても大切にしているし、俺もこの店を大切に思っています。この店をカレンの手下に荒らされることを想像しただけで、耐えがたい。だけど、ずっとそばにいて店や君を守るわけにいかないから。俺が街を出ることにしました」
「フレディさんはなんて?」
「フレディさん? いや、俺の引き抜きは断ってくれたようですけど、俺、その場で店を辞めて出てきたから、このことであまり話はしていません」
オリビアが身振りでお茶を勧めるので、アーサーもコクリとお茶を飲んだ。
「いい香りです。爽やかで」
「アーサーさん、マーローの街は、住民の顔ぶれがほとんど変わらない古い街なんです。ここ七、八年は別荘の人たちが次第に増えましたけど、あの人たちだってしばらく滞在するだけ。そんなに長く留まるわけじゃありません」
「だけどカレンは働いてるわけじゃないから。いつまでいるか」
オリビアは慈母のような笑顔でアーサーを見る。アーサーはなんだか(うんうん、腹が立ったわね、可哀想に)と子ども扱いされているような気分になる。最悪を想定するべきなのに、なぜこの人はこんなにのんびりしているのか。
「別荘地って、土地は借り物なんです。元は広大な牧草地帯だったあの場所を、地主さんたちが別荘地として貸し出しているんです。当時、街の人はずいぶん心配しました。お金持ちがやって来て、好き勝手するんじゃないかって」
まさにその「好き勝手」をされたアーサーは、黙って話の続きを待った。
「慌てずに様子を見ていてくれませんか。ヤギ小屋の上でよければ何日でも使ってください。そしてマーローの流儀をとくとご覧あれ」
「あなたがそう言うのなら」
「それと、アーサーさん、ひとつ誤解があるようなので訂正します。ここからいなくなった大切な友人というのは、鹿です。ウィリアムさんに姿を見られたから、他の土地に移ったんです」
「鹿?」
「鹿。美しい毛皮の大柄なオスの鹿です」
平静を装うアーサーの耳がたちまち赤くなっていく。
「俺、てっきり」
「私の話し方がいけなかったんです。祖父母が旅立った後、本音を言える相手はその鹿だけだったものだから。つい人間のことを話すような口調で説明していたんだわ。誤解させてごめんなさい」
「それは、なんというか。俺、とんでもなく間抜けでしたね」
「いいえ。嬉しかった。今度、満月を一緒に見てください。夏の野の花も」
「それは喜んで」
反射的にそう答えたものの疑問が残る。
「ですが、本当に何もしなくていいんですか? 俺がこの辺りにいる限り、ごろつきを雇ってこの店に送りこむかもしれない。俺がいるときなら俺が叩きのめせばいいですが、そうじゃなかったら」
「ごろつきがいたとしても別荘の人間に指示されて私やフレディさんに何かすることはないんです。そんなことがあれば、カレンさんの一家はここを追い出されることになります。そうなったらごろつきはお金をくれる人を失って、ついでに自分たちの居場所も失うわ」
「追い出されるって、誰にです?」
「あの土地を貸している人、あ、いえ、直接追い出すのは別の人かしら」
この街には警備隊もなかったはず。自警団があるのだろうか、いや、そんな存在を見たことがないな、とアーサーは怪訝な顔になった。