2 真夜中の訪問客
昼近くになって雨が上がった。それからやっと最初の客が入ってきた。五十代の男性。『スープの森』の常連客だ。
「いらっしゃいませ、ジョシュアさん」
「よく降ったね。オリビアの天気予報のおかげで、出先で降られずに済んだよ」
「当たってよかったです」
「日替わりスープとパン一枚、それとソーセージ一本」
「かしこまりました」
ジョシュアは壁の黒板の「本日のスープ 三種の豆とベーコン」を見て注文し、オリビアは台所に引っ込んだ。
ジョシュアが隅の席に座るアーサーに気づいた。
丈の足りないシャツとズボンに目を留めて(ジェンキンズさんの服か)と胸の内でつぶやいた。
「お待たせしました。日替わりの豆とベーコンのスープとパン、ソーセージです」
「おお、旨そうだ」
そのうち次々と客が入ってきた。
行商人、近所の農民、肉の配達に来て食べて帰る人、わざわざ馬車に乗って町から訪れた客。四人がけのテーブルが五つだけの店内は賑わっている。
最後の客が帰ったのは午後の二時だった。
「アーサーさん、お昼はいかが? おなかすいてませんか? お代は心配しないで。私が呼び込んだのですから」
「では本日のスープがまだ残っているならもう一度。朝の分と一緒に支払いをします。そのほうが気が楽です」
「そう? では、遠慮なくいただきますね」
先に支払いを済ませてから、アーサーはテーブルに着いた。
スープだけと言われたが、働いていたオリビアは空腹だったのでソーセージを一本ずつと薄切りパン一枚ずつも一緒に並べた。さっと茹でたアスパラガスも添えられている。
食べ始めて少ししてからアーサーが「確かに」と言う。「ん?」とオリビアが小首をかしげる。
「朝の作りたてのスープも旨かったけど、こうしてよく煮込まれたのもいい。ベーコンの味が豆に染み込んで味がまた違う。オリビアさんは塩加減が上手ですね」
「ありがとうございます」
「ひとつ尋ねたいんですが」
「なんでしょう」
「今日来たお客たちが、みんな『あなたの天気予報のおかげ』って言ってたけど?」
「ああ、それは、私は雨が降る前に、なんとなくわかるんですよ。祖母は『お前は野の生き物みたいに雨の気配に敏感ね』って言ってました」
「そうでしたか」
アーサーは食事を再開しながら考え込んだ。
客の全員がオリビアの天気予報の話をしていた。(よほどこの女性の予報は当たるらしい)と思う。
台所の隅で寝ていたロブが、オリビアの足元にやってきて「クゥン」と鳴いた。オリビアは「ちょっと待ってね」と言いながら席を立ち、台所から茹でた鶏肉の小さな肉片を手に戻った。
「ひと口だけね」
ロブはそれを丸飲みして、尻尾を振りながらまた寝床に戻る。その姿を見るオリビアの目が優しい。
アーサーは洗濯物の様子を見に裏庭に出た。
雨がやんだ時に裏庭に干し直したのだが、外は朝の雨のせいで湿度が高い。午後になってもアーサーの服は乾かず、夕方に湿った服を着ようとしていたら、オリビアがおずおずと声をかけた。
「あの、余計なお世話かもしれないけど、もう少ししたらまた雨が降るわ。おそらく朝と同じくらいの雨。街まで歩きで行くなら明日にしませんか。この家には泊めてあげられないけど、ヤギと一緒でよければ、小屋がありますよ」
「これから雨?」
「ええ」
オリビアの言葉が信じられず、アーサーはわざわざ店の外に出て空を眺めた。
雲は多いものの青空も見えて、もう少しで強い雨が降るとは思えなかった。オリビアは少し困ったような顔でそんなアーサーを見ている。
「もう少しここにいてもいいかな。君の予想が当たるかどうか確かめたいんだけど」
「ええ。どうぞ。そのほうがいいわ」
一時間が過ぎたあたりで本当に雨が降り始めた。結構な雨脚の強さだ。
「ええと、参考までに尋ねるんだけど。この雨はいつ止むかもわかる?」
「私の勘では今夜の真夜中くらいには。傘をお貸ししたいけど、うちには一本しかないの」
「では厚かましいけど、ヤギ小屋をお借りしたい。宿代も払うし決してこの家には入り込まないと誓います」
「宿代なんて不要ですし、ロブは私が命じれば熊にだって飛びかかる子ですので心配もしてません」
「心強い用心棒だね。あの小屋にヤギがいるんですか。気がつかなかったな」
「あの子達は雨が大嫌いだから、今日は大人しいんです。真っ暗になる前に中をご案内しますね」
一本の傘に二人で入り、雨の中を裏庭の隅にあるヤギ小屋に向かった。
「これがヤギ小屋? 離れだとばかり」
「昔は離れだったんです。祖父が面倒見のいい人で、困ってる旅人をよく泊めてました。下は土間だからヤギの住まいになってますが、ロフトは人間用のままです。アーサーさんが先に登ってください」
スカートを指さしてそう言うオリビアに促され、アーサーが急なはしご状の階段を登る。右手だけを使い、左腕は動かさない。オリビアはその様子を後ろから眺めていたが、自分も後ろからはしご階段を登った。
「へえ。これは居心地が良さそうな」
「でしょう? 今、準備をしますから」
そう言ってオリビアはベッドを含めて全ての家具に掛けてある埃避けの布をそっと外した。
「ベッドのマットは定期的に日に当ててますので、ご安心を。毛布を後で持ってきますね」
「それは自分がやります」
「そう? ランプはここ。何か足りない物があったら遠慮なく言ってください」
その夜、夕食も共に食べ、早々とヤギ小屋の二階のベッドに横になったアーサーは、なかなか眠れずにいた。雨で身体を冷やしたのが悪かったのか、戦争で傷めた左肩が疼いている。
気がつくと雨がやんでいた。
(本当に夜中に降り止んだ。オリビアさんは預言者か魔法使いみたいだな)と感心する。
痛みで眠れないので、眠るのを諦め、身体を起こして窓の外を見た。
見ているうちに母屋に灯りがついた。(どうしたんだろう)と思いながらぼーっと眺めていたら、店の玄関のドアベルの音が小さく鳴った。
「こんな夜中に?」
驚いて見ていると、オリビアがランプを片手に歩いていく。あの黒犬ロブも一緒だ。
そして、ランプの灯りが届くか届かないかの位置で、彼女を案内するように前を歩いている大きな黒い姿。アーサーは思わず何度も目を瞬いて凝視した。
「まさか」
四本脚で歩いている大きな黒い影は、どう見ても狼だった。
飛び起きたアーサーは湿り気の残る自分の服に大急ぎで着替えた。腰の左右のホルダーにリュックから取り出したショートソードと諸刃のダガーを装着し、はしご階段を急いで下りる。
オリビアの持つランプはだいぶ先に進んでいて、どんどん森に入っていく。
「なんて無謀な」
アーサーは狼とオリビアの組み合わせの意味がわからない。
迷った結果、一定の距離を置いて後をつけることにした。追跡は得意だ。音を立てず、静かに後をつけ続けた。
二十分ほど歩いただろうか。
前方の灯りが止まった。様子をよく見るためにアーサーは静かに近寄る。
オリビアがオイルランプを木の枝に引っ掛けて、かがみ込んだ。彼女の視線の先にはぐったりと横たわる子狼がいた。