102 元気が出るスープ
二月になった。真冬の朝、オリビアは日の出と共に起きて台所に向かった。手早くかまどと暖炉に火をおこして部屋を暖める。ロブが尻尾をブンブン振って出迎えてくれる。
『おはよう! おはよう!』
「おはよう、ロブ。寒いわね」
『さむい ない ダル あったかい!』
ダルはロブと一緒に寝ている。アーサーがダル用のベッドも作ったのだが、ダルはそれをほとんど使わず、ロブとくっついて寝る。オリビアはロブの朝ごはんを人肌に温め、食器に入れた。
『だいすき! だいすき!』
飲み込むように食べているロブはご機嫌だ。大好きというのはオリビアとごはんの両方を大好きと言っているようだ。お湯が沸いたのでりんごのお茶を淹れる。ふわっと香るりんごの香りを楽しみながら立ったままお茶を飲んでいると、ダダダッと音を立ててアーサーが階段を駆け下りてきた。
「ごめん! 寝坊した!」
「おはよう、アーサー。寝坊じゃないわ。私が早く目が覚めたの。なんだかとても調子がいいのよ」
「ここを暖めるのは俺の役目なのに。悪かったな」
「それは私が疲れている頃の話だわ。もう大丈夫。デイジーの夜泣きは減ってきたし、私が先に起きたときは私が部屋を暖めるわよ」
盛大に寝癖のついているアーサーの髪をオリビアが優しく撫でると、アーサーがオリビアにそっと腕を回した。
「店を再開したばかりで、疲れていないかい?」
「当分は昼だけの営業だもの。問題ないわ」
可愛い心の声が聞こえてきた。
『ツガイ なかよし』
「あら、おはよう、ダル」
『おなか すいた! ニク たべたい!』
オリビアが笑いながらかまどに向かう。ゆでた鶏肉、柔らかく煮た麦などの猫用ごはんを器に入れると、ダルがスリリ、とオリビアの足首あたりに頭をこすりつけてくる。
「俺はヤギ一家とアニーに餌を与えてくる」
「ええ、お願いね」
『ニク! うまっ! ニク! うまっ!』
ダルは丁寧に噛んで食べる。ひと口ごとに頭をコクコクと動かして食べる様子が愛らしい。
スノーも階段を下りてきた。スノーの頭を撫でてから朝ごはんを出すと、ふんふんと匂いを嗅いでから食べ始めた。スノーはほとんど噛まずに飲みこむ。
三匹の様子を微笑ましく眺めてから昨夜の残りのスープを温めた。くつくつと煮立ったのを確かめて煮詰まらないように鍋をかまどの端に寄せる。鍋の中は鴨団子と根菜のスープだ。塩と香草だけの味つけだが、鴨から出た脂が味に深みを出している。
裏口のドアが開いて、アーサーが「外は寒いよ」と言いながら戻ってきた。同時にルーカスも後ろ向きになって両手両足をつきながら階段を下りてくる。
「ママー! はよー!」
「ルーカス、おはよう。あらあら、上着を着ないと。今セーターを持ってくるわね」
「ボクも!」
「じゃあ手をつないで。一緒にね」
ルーカスの手を引いて階段を上がり、ルーカスのパジャマを脱がせて重ね着をさせる。手編みのセーターと靴下はたくさんある。農家の奥さんたちから回してもらったお古だ。
着替えを終えたルーカスと一緒にデイジーの様子を見に行くと、デイジーはよく眠っている。台所に戻るとアーサーが店の暖炉に薪を足していた。
「デイジーは寝ていたわ。手間のかからない子ね」
「俺とオリビアだけだった頃からすると、今はすっかり賑やかだ」
「本当ね。あなたが雨宿りをする前は、私とロブだけだったのがもう、大昔みたい」
アーサーにお茶を淹れながら、一人暮らしだった頃を懐かしく思い出す。自分が声を出さない限り、家の中はシンと静かだった。祖父母が旅立ってから五年間、朝も夜も静かだった。
「アーサーが来て、人がいると音がするんだなって思ったものだわ」
「俺は騒がしかった?」
「ううん。あなたは静かな人よ。それでも足音、ドアを開け閉めする音、薪割りの音、話し声。全てが懐かしくて新鮮だった。『人がいると音がするのね』と思ったわ。生活の音は幸せな音ね」
アーサーは森のほとりの一軒家で、静かに生きていたオリビアを思い描く。アーサーの胸がチクリと痛んだ。言葉で上手に気持ちを伝えられる気がしなくて、テーブルに置かれたオリビアの左手を握った。
「毎日水仕事をしていても、君の手は荒れないんだな」
「おばあさんのハンドクリームのレシピが優秀なの」
食後に顔を洗っていたスノーがピクリと耳を動かした。スノーは『泣いてる』と言うなり階段を駆け上がって行く。アーサーが素早くスノーに続き、「ふえんふえん」と泣いているデイジーを抱きかかえて下りてきた。オリビアはデイジーを受け取り、店の暖炉の前でお乳を含ませる。
暖炉の上には画家のレジーの絵が飾られている。最初は祖父母とオリビア、アーサーの四人だけだったが、今はそこにルーカスとアレックスとデイジーが描き加えられて七人になっている。レジーの絵の中で、みんな笑っている。オリビアは、幸福感に包まれて静かに目を閉じた。
デイジーがお乳を飲み終えたころ、アレックスが起きてきた。
「くしゅ! はよー!」
「おはよう、ルーカス」
アレックスはもう少しでこの家を出る。マーローの獣医に住み込みで弟子入りすることが決まったばかりだ。「動物の心が聞こえることを生かして獣医を目指す」と決めたのだ。アレックスの能力はまだ秘密だが、オリビアは(いずれ雇い主の獣医は気づくだろう)と予想している。
だが今のアレックスは自分の能力を知られることに怯えていない。「知られてもいいんです。僕が必要だと思われるよう、全力を尽くします」と覚悟を決めていた。
「このあたりは家畜の数が多いし、馬は大切な移動手段ですから。僕の能力は必ず役に立ちます」
「そうね。私もそう思うわ」
「ここは僕にとって、二つ目の実家です。遊びに来てもいいですか?」
「当たり前じゃないの。いつだって好きなときに帰ってきて」
「俺たちはいつでも大歓迎だ」
「いきなり来て住み始めた僕なのに、とても優しくしていただいて。本当にお世話になりました。僕の進むべき道を示してくれたのは、アーサーさんとオリビアさんです。ミラさんやお店のお客さんたちも、みんな親切で……。ここに来てよかった」
アレックスが涙ぐむ。ずっと感情を押し殺して生きてきた彼は、『スープの森』で暮らすようになってから涙もろくなった。
「父と母も、僕の仕事が決まったことをとても喜んでくれました」
「最近はよく手紙のやり取りをしているものね」
「はい。今までのギクシャクした関係はなんだったんだと思うぐらい、今は気負うことなく両親に接することができます」
自分と同じ力のせいで悩んでいたアレックスが前向きになった。それがオリビアには嬉しい。
(私が苦しんだ日々は無駄ではなかった)
アレックスの幸せそうな顔を見ていると、苦しんでいたころの自分が満たされる。
「さあ、冷めないうちにスープを食べましょう。鴨肉団子の、元気が出るスープよ。パンもカリカリに焼けてる。バターとジャムはどれでも好きなだけどうぞ」
四人が一斉にスプーンを手に取り、スープを口に運ぶ。濃厚な旨味が口いっぱいに広がってゆく。オリビアは、自分が五歳で保護されたときに祖母のマーガレットが言った言葉を思い出した。
『私たちの家に行きましょう。美味しいスープを作ってあげる。飲めば元気になるスープよ』
スープを飲む手を止めて、オリビアはアレックスに話しかけた。
「アレックス、街で働き始めて、もしつらいことがあったらここに来て。夜でもいい。早朝でもいい。来たいときにいらっしゃい。美味しいスープを作ってあげる。飲めば元気になるスープよ」
アレックスの目がじんわりと赤くなった。アーサーもテーブルに視線を向けたまま、この店で雨宿りした日のことを思い出した。
「私はずっとここにいて、美味しいスープを作っている。いつでもあなたを歓迎するわ」
1年と4か月の間、『スープの森』にお付き合いいただき、ありがとうございました。
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