101 祝福
(金色の鹿が来ている)と気づいたアーサーが振り返ると、オリビアもすでに窓の外を見ていた。
「きっとデイジーを見に来てくれたんだわ。『子が生まれたら見せに来い』って言っていたもの」
オリビアは台所に戻り、ベビーベッドからデイジーを抱き上げ、分厚い布で包んでから外に出た。アーサーはオリビアのすぐ後ろを歩く。
子守りをしていたアレックスも気配に気づいたらしい。ルーカスと手をつないで外に出てきて、目を丸くしている。
(オリビアさんの友達ってこと? なんて美しい鹿だろう。金色だ!)
金色の鹿は何段にも枝分かれした大きく美しいツノを頭に載せて、夕方の森の端に立っている。
アレックスが驚いている中、オリビアはデイジーを抱いて金色の鹿に近寄った。
「久しぶりね。会いたかったわ」
『子』
「ええ。私とアーサーの子よ。女の子。デイジーっていうの」
オリビアが金色の鹿にデイジーを見せると、金色の鹿は首を伸ばしてデイジーの匂いを嗅ぐ。
『匂い 覚えた』
鹿がデイジーに顔を近づけるのを見て少しだけ落ち着かなくなっているアーサーの心、驚いているアレックスの心、何が起きているのかわからずワクワクしているルーカスの心が辺りに流れ出している。
背後の三人の感情を全部拾いながら、オリビアは久しぶりに親友に会えた嬉しさで心がはち切れそうだ。
金色の鹿がオリビアの瞳を覗き込む。鹿の表情は変わらないが、なぜかオリビアは金色の鹿が笑ったような気がした。
(今、笑った?)
オリビアが能力を全て開放すると、金色の鹿の楽し気な心が間違いなく次々と伝わってくる。
(金色の鹿がこんなに楽しそうなのは、一緒に川遊びをしたとき以来だわ)
金色の鹿は眠っているデイジーの額に触れるか触れないかまで顔を近づけた。
『賢く 生きろ 長く 生きろ 歩く 森に 来い』
まるで祈りの言葉のようにつぶやいて、金色の鹿はデイジーから離れた。
『子 守ろう』
「あなたがデイジーを守ってくれるの?」
『そうだ』
「嬉しい。心強いわ。ありがとう」
金色の鹿は「フルルル」と小さく鼻を鳴らしてからアレックスを見た。
『来い』
「えっと、僕ですか?」
『来い』
もう一度言われて、アレックスは恐る恐る金色の鹿に近寄った。金色の鹿はアレックスの身体の周囲の空気を確かめるように、顔を動かして匂いを嗅ぐ。
『怖がる 食われる』
「食われ……。何にですか?」
『お前 強い』
鹿の言葉の意味がわからないアレックスは、困った顔でオリビアを振り返った。
「あなたが怖がると、それを感じ取った相手に攻撃される。だから怖がるのをやめなさいって。あなたは強いのだからって」
「強い? 僕が? いえ、僕は強くなんか……」
すると金色の鹿はアレックスの顔を覗き込むようにしてもう一度繰り返す。
『怖がる 食われる』
「は、はい」
そこまで言って金色の鹿は一歩後ろに下がった。オリビアの顔を見つめ、また笑ったようにオリビアは感じる。
「来てくれてありがとう。とても嬉しかった。また会える?」
『また 会う』
金色の鹿は最後にアーサーを見たあと、くるりと向きを変えて森の中へと消えた。すぐに美しい姿は見えなくなる。冬の夕方はもう暗くなりつつあり、空気はどんどん冷えてきた。
全員で店に戻り、暖炉の前に腰を下ろした。ずっと口を閉じていたアーサーが待ちきれないようにオリビアに尋ねた。
「あの鹿、なんて言っていたんだい?」
「『デイジーの匂いを覚えた』って。それからデイジーに向かって『賢く生きろ、長く生きろ、歩いて森に来い』って。まるで祝福の言葉みたいだった。それから、『デイジーを守る』って言ってくれたの」
「彼は……森の神みたいだな」
「本当にね。私、今までも彼は森の一部なんじゃないかと思うことが何度もあったけれど」
アレックスは今、うっとりした顔で窓の外の、金色の鹿が去って行ったほうを見ている。
「アレックス、どうした?」
「アーサーさん、あの鹿が僕を強いって。怖がるなって。あの鹿が僕の心を読んでいるのを感じました。僕のことをいろいろ知った上で、僕を……僕を……強いって」
アレックスが目を潤ませているのを見て、オリビアが優しい顔で話しかけた。
「あの金色の鹿は、お世辞を言わないし、嘘も言わないわ。あなたは強い人なのよ。怖がらずにいればいいんだよって、教えてくれたんだと思う」
「そうなんですね」
二人のやり取りを聞いているアーサーは、オリビアの表情がさっきまでとは別人のように明るくなっていることに気づいた。デイジーを抱いている姿にも活力が感じられる。
(あの鹿は、オリビアが弱っていることを感じ取ったのだろうか。以前、彼女が流行り風邪で寝込んでいる時、毎晩のように庭に鹿の足跡があったとララが言っていたな)
動物の心が読めるオリビアと森の動物たちの間に、アーサーには理解しえない繋がりがあるのは知っている。
(だがあの金色の鹿だけは他の動物たちとは絆の強さが違う。デイジーにも特別な興味を持っているような気がしたが)
オリビアが抱いているデイジーを見る。デイジーはずっと眠ったままだ。アーサーにはあの鹿がオリビアを心配してやって来ただけでなく、デイジーに祝福を授けに来てくれたように思えてならない。
オリビアがデイジーの頬をそっと指先で触りながらぽつりとつぶやいた。
「なんだか私、急に気が楽になったわ」
「俺の目にも元気になったように見えるよ」
「今まで『この子をちゃんと育てられるのかしら』と不安だったけど、金色の鹿が『守る』って言ってくれたら、肩に入っていた力が抜けたような……」
そう言ってオリビアが笑う。彼女の晴れ晴れとした笑顔を見るのは久しぶりで、ずっと気を張っていたアーサーも安堵した。
「最後にあなたを見たときにね、金色の鹿が……ふふっ」
「俺のこともなにか言ったのかい?」
「ええ。でも……ふふ」
「なんだい? 笑っていないで教えてくれよ」
アーサーは真顔だが、オリビアはしばらくクスクス笑ってから教えてくれた。
「『この人間のオスはまあまあ よくやっている』って。ふふふ」
「まあまあ……。失格と言われるよりはいいのか」
納得いかない表情のアーサーを見て、ついに我慢できなくなったオリビアが笑い出した。長いこと楽しそうに笑ってから、オリビアは(おなかが空いた)と思った。
「私、スープを作るわ。冬野菜と豆と、干したキノコもあるわね。ベーコンも食べ頃だったはず」
「大丈夫かい?」
「ええ。デイジーを産んでからずっと気力がなくて横になっていたけれど、今は力が満ちている感じなの」
「俺も手伝うよ」
「ええ、お願いね」
ロブがゆらゆらと大きな尻尾を振ってオリビアを見守っている。
スノーはデイジーのベッドに飛び乗り、デイジーの脚元で丸くなった。
ダルは窓枠に座って、暗くなってゆく庭を眺めている。たまに『ツガイ ずっと 仲良し』と繰り返している。
夫婦で台所に立ってスープを作っていたオリビアは、ダルの心の声を聞きとって微笑んだ。
(きっと大丈夫。森の動物たちのように、私もデイジーを育てられる。私にはツガイのアーサーがいるんだもの)
アレックスは皆の穏やかな感情を感じ取りながら、ルーカスの相手をしていた。ご機嫌なルーカスの笑顔を見ているうちに、アレックスは自分が進むべき道がぼんやり見えた気がした。
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