100 デイジー
十二月の上旬、マーレイ領に二度目の雪が降った。夜明け前にオリビアが目を覚ますと、外が明るい。静かに起きてカーテンを開けると、庭が真っ白になっていた。
(暖炉に火を入れなきゃ)
温かい毛糸のガウンを羽織りながら階段を下りる。オリビアは妊娠十ヶ月に入っていて、急に胃のあたりが楽になった。オリビアが起きると同時にアーサーも起きて、すぐさま暖炉に火をおこし始める。
「アーサー、赤ちゃんがだいぶ下りてきたみたい。もう、いつ生まれてもおかしくないと思う」
「そうか。そろそろ店は休んだほうがいいんじゃないかな」
「そうねえ」
「店はまた開けばいいんだから、今は身体を優先してくれるかい? 君が無事にお産を終えることだけが俺は……」
途中で言葉をのみ込んだアーサーの広い背中に、オリビアがそっと腕を回した。
「お店はそろそろお休みにするわ。アレックスもいるし、私なら大丈夫。ミラさんもいるもの」
「そうだな。ミラさんがいてくれるのは心強いよ」
ミラは農家の自宅で何人も我が子を産み、孫も取り上げたことがあるお産のベテランだ。「いつでも呼んでおくれ。遠慮しちゃだめだよ」と言われている。
店を閉めて、オリビアは静かに過ごすことになった。あまり動けず、足元が見えないオリビアを心配したアーサーは、しばらく前に階段に手すりを取り付けている。
一方、ヤギ小屋に住み始めたアレックスことアレキサンダーは意外な才能を見せていた。
彼は掃除や皿洗いを手伝う他に、子守りを引き受けている。
ルーカスを庭で遊ばせ、本を読んでやり、おむつの交換も嫌がらずにこなす。ルーカスの食事の世話をし、昼寝するまで付き添い、夜も眠るまでお話をしてやる。
最近のルーカスは母鶏を追いかけるヒヨコのようにアレックスの後ろをついて歩いている。アレックスもルーカスの世話をするのが楽しそうだ。
「ここでは僕が『変な人』じゃないのが嬉しいんです。この家では、僕も役に立てますから」
「心から頼りにしているわよ、アレックス」
オリビアにそう言われ、アレックスが嬉しそうに笑う。そんな彼にルーカスが走って来て脚にしがみついた。
「クシュ! あしょぼ!」
「いいよ、雪だるまを作ろうか」
「うん!」
今年二度目の雪は根雪となり、『スープの森』の周囲は浅く雪が積もっている。アレックスがお手本に小さな雪だるまを作って見せると、ルーカスが大喜びした。自分でも木の実や小枝で雪だるまの顔を作り、手を真っ赤にして何個も雪だるまを作った。
「二人とも、そろそろ中に入って。昼ご飯の時間よ」
オリビアが大きくなったおなかを手で支えながら裏庭に顔を出した。
「はい。今行きます」
「ましゅ!」
アレックスとルーカスが家の中に入って、かまどの火で手を温めていると、皿を並べていたオリビアが「いたっ」とつぶやいた。
アーサーとアレックスが同時に動きを止め、オリビアを見る。アーサーがスープをかき混ぜていた手を止めて、不安そうな顔でオリビアに声をかけた。
「おなかが痛いのかい?」
「少し。痛みはもう治まったわ。予定日までまだしばらくあるし、最初のお産は遅れがちっていうのよね。でも、これはお産の前触れかも」
オリビアが自分に言い聞かせるように説明したが、少ししておなかに手を当て、声も出せずにうずくまる。アーサーはオリビアの陣痛が治まるのを待ってから「ミラさんを呼んでくる! 誰か来たら、店はしばらく休業だと伝えてくれ!」という言葉を残し、アニーに飛び乗って走り去った。
オリビアは二階の夫婦の部屋のベッドで横になり、陣痛に耐えた。
アレックスがルーカスの手を引いて部屋まで付き添っていると、オリビアは痛みを堪えながらどうにか微笑んだ。
「アレックス、あなたがいてくれてよかったわ。ルーカスのお世話を頼める?」
「もちろんです。なんでも言ってください。なんでもやりますから」
「ルーカスが不安がっているの。あなたならわかるでしょ? この子のそばにいてあげて」
「はい。ではルーカスと一緒にここにいます」
ルーカスは言葉がわからないものの怯えていた。アレックスの手を振り払い、オリビアにくっついて離れたがらない。それをアレックスが抱きあげて話しかけ、あやした。その間にもオリビアに陣痛が来る。アレックスは左手にルーカスの肩を抱き、右手でオリビアの背中をさすり続ける。
オリビアの心から不安が流れ出していた。それを感じ取れるアレックスも不安に囚われそうになる。
(僕まで怖がったらルーカスが怯える。ここは僕がしっかりしなくては。ルーカスを怯えさせないように。笑顔でいなくちゃ)
アレックスは自分を励ましつつ、ルーカスをあやした。
「今帰った! ミラさんを連れて来たよ!」
「オリビア、私が来たんだ、もう大丈夫だよ」
アーサーがミラを連れて帰宅し、ミラの指示でアレックスとルーカスは部屋を出された。
アーサーはオリビアの手を握り、陣痛の波が来ると「つらいな。もう少しだよ」と声をかけながら背中をさすり続けている。
お産は順調に進み、夜遅い時間にオリビアは小柄な赤ん坊を産んだ。
元気な産声を響かせたのは女の子。ミラが産湯に入れ、真っ赤になって泣いている赤ん坊をきれいに拭きあげてからアーサーに手渡した。
「アーサー、あんたの娘だよ」
「俺の娘……」
アーサーが小さな赤ん坊をそっと抱き、無言で見つめる。一度泣き止んだ赤ん坊が再び泣きだした。
「アーサー、その子を私の隣に寝かせて」
「オリビア、俺たちの娘だ。泣いていてもこんなに可愛い。君と同じ茶色の髪と緑の瞳だ」
「可愛いけれど、思っていたより小さい……」
初めて見る新生児の小ささに、オリビアが不安そうな顔をした。
「大丈夫だよ。少し早く生まれたから肉がついてないだけさ。この子、身長はそこそこあるよ。むしろ背が高い娘になるかもしれないね。なにしろアーサーが大柄だし、オリビアだって背が高いほうなんだから」
ミラが笑いながらオリビアを安心させる。
赤ん坊はオリビアの隣に寝かされ、アーサーが小さな手に自分の人差し指を握らせた。名前は二人でもう決めてある。
「女の子だから、デイジーだね」
「そうね。太陽に顔を向けながら咲き続けるデイジーね」
泣いている赤ん坊に添い寝をしながらオリビアが話しかける。
「デイジー、ようこそ我が家へ。私があなたのママよ。あなたが指を握っているのがパパ。あなたにはルーカスお兄ちゃんがいるの。アレックスという大きなお兄さんもいるわ」
そう言ってそっと我が子の頬を撫でると、少しうとうとしていたデイジーが再び泣き出した。
「おなかが空いているのかしら」
「この子も半日頑張ったからね。おなかも空くだろうさ。お乳が出ても出なくても、デイジーに吸わせてやるといいよ。吸わせていると出るようになるものだから」
「ええ、そうします」
「さて、私はそろそろ帰るよ。明日また来る」
疲れた顔のミラに、オリビアは感謝した。
「ルーカスのときも今日も、お世話になりっぱなしですね」
「何を言ってるんだい。お世話できる機会をくれてありがとう。こんなかわいい子を取り上げることができた。ありがとう、オリビア、アーサー」
オリビアの胸に熱いものが込み上げてきた。
「ミラさん、私ね、実の親と縁を切ったんです」
突然の話に、ミラが驚いた顔のまま黙り込んだ。
「私は、親とは共に生きられないと決めて自分から縁を切りました。私に親はいない、祖父母も旅立った。だから私はアーサーと二人きりで生きていくんだと思っていました」
ミラは何も言わず、横になっているオリビアの近くに椅子を運んで座り、話を聞いている。
「でも、ミラさんがこうして助けてくれて、私がどれだけ感謝しているか。上手に伝えられなくて悔しいぐらいです」
「うんうん。オリビアの気持ちは伝わってるよ。私を頼ってくれてありがとう。私が生きている限りは、私を頼っておくれよ。私も頼られたら嬉しいんだ」
「ミラさん、本当に……」
そこまで言ったオリビアが両手で顔を覆って「ありがとうございます」と繰り返す。ミラは「わかったよ。気が済むまで泣きなさい。私はそろそろ帰るからね」と言って目でアーサーを促す。
アーサーと一緒に階段を下りると、ミラが声を潜めて話し出した。
「子を産んだ後、母親は大なり小なり心が乱れるものなんだ。これからしばらくは赤ん坊の世話で眠れないだろうし、オリビアが落ち込んでいるようなら私に声をかけてくれるかい? それと、オリビアをあまり一人にしないほうがいいかもしれないね」
「心が乱れる、ですか」
「そうさ。子を産んでから心を病む母親が少なくないんだよ。私の娘も一人、ずっと泣いていたっけ。こじらせないように、気をつけておやり。そのうち落ち着くだろうけどね」
「ええ、気をつけます」
ミラはアーサーに送られて帰って行った。ルーカスとアレックスは、二人でベッドに入って眠っている。
その日からアーサーはオリビアに付き添った。朴訥なアーサーが、オリビアの心を守るべく精一杯気を配り続ける。
翌朝、ダル、スノー、ロブが赤ん坊を見に来た。それぞれが『こんにちは』とあいさつをして引き下がったが、眠り続ける赤ん坊に一番興味を持って飽きずに眺めているのはスノーだった。
ルーカスはデイジーを可愛いと言いながらも落ち着かない様子だ。それをアレックスが遊びに誘い、気を紛らわせるように心がけて相手をしている。オリビアは疲れた身体でルーカスに話しかけた。
「ルーカス、ママはあなたが大好きよ。しばらくママは動けないけど、また一緒に遊びましょうね」
「うん」
アレックスがやってきて、ルーカスに笑いかける。
「ルーカス、アーサーパパがそりを作ってくれたんだよ。外でそり遊びしようか」
「うん!」
しょんぼりしていたルーカスが、少し元気になる。
オリビアはデイジーの夜泣きが続けば「病気ではないか」と心配し、ルーカスが寂しがれば「なかなか遊んであげられない」と気をもむ。
オリビアは普段、温厚で物静かではあったが、くよくよすることがほとんどなかった。そんなオリビアが弱気になっていることを、アーサーはとても心配している。
慌ただしい日々が続いていたある日の夕方。
庭の外で何かの気配がした。アーサーが窓の外を見ると、薄暗い森から滲み出たかのように金色の鹿が立っていた。
スープの森は、もう少しで完結です。
それまでどうぞよろしくお付き合いくださいませ。