10 金色の鹿
その夜、オリビアは家を出て森に入った。
ウィリアムが見た美しい鹿に心当たりがあり、心配になったのだ。
月が照らす夜の森は獣道を見つけるのが難しい。だが、勝手知ったるロブが前を歩いて道案内をしてくれるから安心だ。
しばらく歩いて少し高くなっている場所に出た。親指と人差し指を口に入れ、ピュウッと指笛を鳴らす。そして待つ。
鹿の気が向けば姿を見せるだろうし、気が向かなければ来ない。オリビアはいつだって待つだけだ。
一時間近く待っただろうか。足音を立てずにその鹿が現れた。弱い月明りでその毛皮は黄色。陽の下では輝く金の毛皮だ。
その鹿は色素が薄い。目立つから狙われやすいのに、生き延びて大きく成長した賢い鹿。その存在を猟師に知られたら、文字通り死ぬまで毛皮を狙われるだろう。
鹿はオリビアから数歩離れた場所に立っていた。
『人間 見た』
「そうみたいね。あの人は猟師ではないけど、誰かにあなたのことを話すかもしれない」
『ここ 去る』
「そう……。戻って、こないのかしら。人間に狙われるから、戻らない方がいいのかな」
『お前 悲しい』
「あなたはお友達だもの。いなくなったら悲しいわ」
『人間 鹿 食べる』
「うん。人間は鹿を食べるね」
だけどこの鹿は食用のために狙われるのではない。毛皮が綺麗で、お金持ちがその毛皮を誰かに自慢するためだけに命を狙われるのだ。
「ねえ、最後に触ってもいいかな」
『触れ』
オリビアはロブに待てと命じてから、ゆっくり鹿に近づいた。静かに鹿の背中に触れた。
鹿の毛は柔らかく、毛皮の下の筋肉から高い体温が伝わって来る。まだビロードのような皮膚に包まれている角にも触る。角はこれから急速に伸びて、夏には枝分かれした見事な角になることだろう。
もう二度とこの鹿に会えないかもしれないと思うと、切ない。
「あなたとおしゃべりするの、楽しかったのに」
『楽しい たくさん楽しい』
「私、人間は苦手だわ。私も鹿だったらよかったのに。そうしたら一緒に行けるのに。私、あなたといると、本当に幸せなのに」
『お前 人間』
「わかってる。私は人間だけど、優しくて美しくて強いあなたと一緒にいるのが好きだったわ」
月の光の中で、大柄な金色の鹿は優美で美しかった。
鹿がオリビアの顔をまじまじと見る。赤みを帯びた大きな目が優しげに細められている。
金の鹿は、自分からオリビアの顔や首に顔をこすりつける。二度、三度。
そんなことは今まで一度もなかったことで、最後のお別れの挨拶かとオリビアはまた悲しくなる。
別れの言葉はないままに鹿は歩きだした。一度だけオリビアを振り返ったが、やがて森の暗闇に消えて行った。
しゃがみ込み、「ふえっ」と声に出して泣いて、しばらく泣いてから立ち上がって歩き出した。ロブが心配そうに何度もオリビアを見上げる。
四年前、客の一人に何度も告白され、オリビアは支配欲が強いその男性が苦手だった。
店を開いているから逃げることも隠れることもできず、祖父母が亡くなったばかりで頼る人も思いつかなかった。
断り続けていたら、一方的に押し付けられた好意は憎しみに変わって終わった。自分が剥き出しの憎悪の対象になるのは初めてで、とても恐ろしかった。
勝手に近寄って来て勝手に去って行った。あの人はオリビアの都合や気持ちを微塵も思いやる気がなかった。男の理不尽さに傷ついて、ひとりで森を歩いている時に、あの鹿と出会った。
「きれい」
思わずそう声に出した。すると鹿の心が流れ込んできた。
『痛いのか』
悲しくて悲しくて沈んだ心で歩いているのを、金色の鹿は怪我か病気と思ったらしい。
「胸が痛いの」
すると鹿は何も言わずに寄り添ってくれたが、人間の匂いが移るのを嫌がって触らせてはくれなかった。
その日以降、オリビアが夜の森に入ると、いつの間にかそばに現れてしばらくの間、一緒にいてくれるようになった。
一緒に川で水遊びをした。
満開の杏の花を眺めた。
野いちごを一緒に味わった。
何も会話せずにずっと月を眺めたこともあった。
鹿は大切な友人だった。
「鹿に生まれればよかった」
何度そう思ったか。だけど自分は人間だ。人間だから人間を避けるにも限度がある。お金を稼がなければ生きていけないし、人と関わらなければお金は稼げない。
街はずれの一軒家はオリビアにとって、生きるために必要な場所だ。あの店は失いたくない。
ふと、アーサーの顔を思い出した。
「あの人、私の秘密をしゃべるだろうか」
心配になるが、彼はそんな人ではない気がする。それにもし彼が見た通りのことを誰かに話しても、信じる人はいないだろう。「そんな馬鹿な」と笑われて終わるはずだ。
たくさんの心の傷を抱えている元傭兵。心の傷の多さと大きさが、気の毒を通り越して恐ろしくさえ感じた。あんなに心の傷を抱えているのに、あの人は優しかった。
アーサーがあまりに傷ついていたから、オリビアは自分を見ているようで放っておけない。
だけど近づきすぎて、うっかり彼の心の傷に触れるようなことをしたら、きっとお店に来なくなるだろう。
「近づきすぎず、ほどほどに親しくしよう。そうしていればまたお店に来てくれる、かな」
ヤギたちの水を交換しに小屋に入る。水は気がつくたびに頻繁に交換する。ヤギは新鮮な水が好きだ。
「メッ」「メッ」
二匹は寄り添って藁の中でウトウトしていたが、それでもオリビアを歓迎して声を出してくれた。
「明日は早起きして草を食べに外に出ましょうか」
『草!』『草! 草!』
「うん。草は明日ね、今夜はもうおやすみ」
全部の窓とドアの施錠を確認してから二階に上がり、ベッドに横になった。
「私は人間に向いてない。動物に生まれたかった」
ずっとそう思って生きてきた。
スープを作り客に楽しんでもらうことだけが、唯一人間として他人と前向きに関わることだ。
「明日もお客さんに喜んでもらえるスープを作ろう」
森で助けられた日に祖母が飲ませてくれたスープの美味しさを、今でも覚えている。野菜と鶏肉のスープ。ひと口飲むごとに疲れが取れるようだった。
「身体も心も元気になれる、そんなスープを作り続けたい。それが間違って人間に生まれてしまった私にできる数少ないこと」
やがてオリビアは眠った。夢の中で、オリビアは金色の鹿と一緒に歩いていた。