1 雨と傭兵と三種の豆のスープ
『スープの森』は日替わりスープがメインの店だ。新鮮な野菜をたっぷり使った食べ応えのあるスープが多い。
朝の八時。店主のオリビアが台所に立った。明るい茶色の髪は調理の邪魔になるから後ろでひとつに結んである。
「今日は豆とベーコンのスープ、かな」
季節は春。新豆の季節だ。
昨日仕入れた豆は水に浸してある。自作のベーコンは食べ頃だ。オリビアはかまどに火をおこし、豆と水を入れた鍋を上に載せた。
開け放った窓からパタパタという小さな音が聞こえてきた。
「降ってきた」
窓の外の地面が点々と黒くなり、雨の降り始めの匂いがしてくる。緑の瞳に、庭にいた愛犬のロブが「仕方ない」という風情でドアの犬用の出入り口から店の中に入って来るのが映る。
ロブはそのまま真っ直ぐ店を縦断し、自分の寝床に向かう。階段脇の寝床でグルグル回ってから丸くなった。
雨はすぐに本降りになった。
雨樋から落ちる水が大きな水瓶に落ちるジャバジャバという音が聞こえてくる。
『スープの森』は街道沿いにある店で、近所に家は一軒もない。
オリビアは五歳からこの家で育っているので何とも思わないが、都会育ちの女性ならとても怖くて一人では住めないだろうと思う。
「あの子が居てくれるおかげね」
そう言いながらロブを見る。
ロブは体を丸くして尻尾をくるりと体に巻き付けて寝ていたが、オリビアの声を聞いて目を開けてこちらを見た。
「いい子ね、ロブ」
ロブは丸まったまま、パタパタと尻尾の先を動かした。
微笑みながらベーコンを刻む。オリビアが自分で燻製したベーコンはいい香りがする。刻み終えて、台所から何気なく外を見た。
「あら。あの人、大丈夫かしら」
街道のだいぶ先。本降りの雨の中を、一人の男性が歩いて来る。この辺りに雨宿りする場所はこの店しかない。
男性は雨宿りをする気も急ぐ様子もないらしく、顔を少し下に向けてゆったりと歩いている。
その男性が窓越しの視線に気がついたのか、顔を上げてこちらを見た。
オリビアは小走りにドアに向かい、入り口のドアを開けて手を振った。
男性がこちらに方向を変えた。それを確認して、オリビアは急いで布を取りに二階へと上がる。
布を抱えて階段を下りたところでカラン、とドアベルの音がした。ずぶ濡れの男性がドアの所に立って店内を見回している。
おそらく店内に置いてあるたくさんの背の高い鉢植え、天井からぶら下がっているシダの鉢、窓際に並べてある花の鉢に驚いているのだろう。
「少し、雨宿りをさせてもらえますか」
「はい。どうぞ好きなだけ。これ、身体を拭くのに使ってください。着替えはありますか?」
「あるけど、おそらく全部濡れてますね。火のそばに近寄ってもいいですか」
「ええ、どうぞこちらへ」
男性はぐしょ濡れのコートを脱ぎ、入り口近くの壁のコート用フックに掛けた。コートから雨水が滴り、クルミ材の床にたちまち水溜りを作り始める。
「ああ、すみません。床が」
「気にしないで。よくあることです」
笑顔で玄関の隅に置いてある木桶をコートの下に置いた。
男性は外套の下はシャツ一枚だった。
そのシャツは濡れて肌に貼り付いている。大柄な男性の身長は百八十を軽く超えていて、分厚い胸板、灰色の短い髪、日に焼けた肌。瞳は明るい茶色だ。
自分ひとりの店に見知らぬ男性。
不安や心配をあげたら一軒家で商売はできない。
オリビアは男性を調理場に案内した。
椅子をかまどの前に置いて「どうぞ」と手で示した。
「ありがとう」
「どうぞ。温まってね」
何か着替えを、と二階へ駆け上がる。
祖父の服の中でも一番ゆったりしているシャツとズボンをタンスから引っ張り出した。
階段を下りて台所を見ると、男が椅子に座ってかまどに手をかざしていた。
「あの、祖父のものですけど、着替えませんか? そのままでは風邪を引いてしまいそう」
「余計なことかもしれないけれど、不用心ですね」
「え?」
「調理場に見知らぬ男を招いて二階に上がった。包丁で襲われるかもしれませんよ?」
「ああ、そういうこと。私に危害を加えようとしたら、あの子が飛びかかって噛みつきますので」
ロブがのっそりと立ち上がり、ピタリと視線を男性に向けたままオリビアの斜め前に立った。
「ほう。よく訓練されていますね」
「ええ、私がそう躾けました。さあ、おしゃべりしてる間に身体が冷えてしまいます。あちらで着替えませんか?」
「助かります。ではお言葉に甘えさせてもらいます」
男性が店の方へ行ったので、平鍋にベーコンを放り込んだ。ベーコンがジュージューと音を立て始めてから木のヘラで転がして焼き目をつけた。
もう大丈夫かと振り返って男を見ると、シャツもズボンも全く丈が足りていない。それでも濡れた服よりは快適なはずだ。
「お世話になりついでに、服を洗ってもいいでしょうか」
「どうぞ。洗い場は階段の右手奥です。置いてある石鹸を使ってください。水は水瓶に入れてあります。井戸は外に」
「助かります」
オリビアはスープ作りに専念した。
あまり沸騰しないよう、かまどの火を加減しながら豆とベーコンのスープを煮た。
店の中にいい匂いが漂う。
雨は降り続いている。
やがて男性が木桶に入れた洗濯物を抱えて顔を出したので、「洗い場のロープに干してください」と声をかけた。
男性が戻ってきたときにはスープは出来上がり、バターでカリッと焼いた薄切りパン、スクランブルエッグも出来上がった。
「一緒にいかがです?」
「ありがとう。おなかが空いていたんです。俺はアーサー」
「オリビアです。さあ、熱いうちにいただきましょう」
オリビアが食べ始めてからアーサーも食べ始めた。スープをひと口飲んで思わず、といった感じに「旨い」と声を漏らす。
「よかった。今日の日替わりスープなんです」
「日替わり。毎日種類を変えるんですか」
「ええ。でも残ったら翌日も出したりしますけど。味が染み込むし柔らかくなるから、そっちのほうが好きというお客さんもいますね」
その後はこの店の鉢植えの多さが話題に上がった。
「あまりに鉢植えが多くて森の中みたいだから『スープの森』という名前になったんです」
「最初は違う名前だったんですか?」
「最初はジェンキンズ・ダイナーという名前でした。ジェンキンズは私の祖父の名前です」
「なるほど」
アーサーは南の街の話をぽつりぽつりと話し、オリビアはうなずきながら聞いた。アーサーの声は低くて穏やかで耳に心地よかった。
「アーサーさんは、何のお仕事なのか聞いてもいいですか?」
「俺は、傭兵だった」
「だった?」
「傭兵はもうやめたんです。十四の歳から十四年間傭兵をやってたんだけどね。歳は今年で二十八」
「そうですか。私は十歳の歳からこの祖父母のお店を手伝って、もう十五年になります」
テーブルの上のお皿は全部きれいに空になった。
「スープもスクランブルエッグもパンもとても美味しかった」
「それはよかったです。私も久しぶりに誰かと食事をしました」
そこでまたアーサーがわずかに眉を寄せた。
「やっぱり不用心だ。女性の一人暮らしを自分から初対面の男に告げるなんて」
「あら。そう言われたらそうですね。でも、怖い思いはしたことがないですよ?」
「災難は、たいてい最後にやってくるんですよ。誰しも繰り返し災難に出会うわけじゃないんです。俺は散々そんな場面を見てきました」
「気をつけます」
「ええ、気をつけてください。あなたは人が良すぎるようです」
「では、不用心ついでにおせっかいを焼かせてください。服が乾くまで、本でも読んで時間を潰しませんか。あの席ならずーっといてくださって大丈夫ですので」
その席は生前に祖父が休憩する時に座って本を読んでいた席だった。