白
街灯は定期的に我が姿を照らし、見逃してゆく。
今回のバイトは結構長く続いた方であろうと自分を慰めると同時に褒めながら俺は道を歩く。
バイト先には気になっている娘がいた。少し暗めな娘だったが、長く伸ばした前髪に隠れ気味なその顔はよく見ると可愛らしく、大人しさといい、気遣いのできるところといい、なにかえらく惹かれるものがあった。だから俺はその娘を恋人にし、今回こそは童貞を捨てるぞと息巻いていた。
そうしてやってきたバレンタインデーなる冴えぬ男を苦しめるばかりの行事。彼女はバイト先のみんなに自分で作ったチョコクッキーを配ってくれた。実に四年ぶりに貰ったバレンタインのお菓子に舞い上がっていたのだが、ふと目をやると彼女が先輩であるチャラついたバンドマンの男にもお菓子が入っているであろう袋を手渡していた。俺はその袋が他の物よりも少し大きいことに瞬時に気づいた。
「もしかしてそいつが好きなのか?でもそんなに喋ったりしてるところは見たことないけどなあ」なぞとまたお得意の不安症と確認症のループを心中にて繰り返したのち、ひたすらに「そいつはやめておけ、バイト中いつもぐちぐち言ってやがるぞ。え?どれくらいぐちぐち言ってるかって?うーん...そうだな、俺くらいぐちぐち言ってやがるぞ。だからそいつはやめておけ。俺にしておけ」とテレパシーを送っていた。
しかしそれも虚しく翌日には早くも彼女とその男は付き合っていた。だからバイトを辞めた。
「それだけ?」なんて言ってくるような奴がおれば、俺は俺のためにも胸を張って「それだけだ!」と言ってやろうと決心したが、我が周りに「それだけ?」なぞと言ってくれるような人間がいないことを思い出し、肩を落とした。
金なし、友なし、女なし、夢なし、職なし、希望なしの間違いなく人類の底辺が今、道を歩いている。白い息は我が視界に少々の邪魔をしたのち、謝罪もなく消え去ってゆく。
そうして警察から職務質問を受けなかったのが不思議なくらい暗い顔をしたまま我が愛しのボロアパートに辿り着いた。しかしそこで事件は起きた。
我が部屋の玄関ドアの前に、この季節にはいるはずのない恐ろしき強敵、蜘蛛の姿があったのだ。しかも中々に憎い大きさ。俺が黒具足虫と肩を並べるほど嫌っているそいつは、俺が折り畳み傘を伸ばし、持ち手の方で何度も威嚇するもビクともせず、堂々とそこに陣取っていた。もしや死んでいるのではと思って近くで見てみると奴は少し体の角度を変えてこちらを睨んできやがったので俺はそれに驚き冷たく硬い地面に尻餅をついた。
そうしてどうすることもできないまま数十分が経ち、体を寒さに震わせながら頭を抱えていたのだが、ふと隣室の玄関前を見るとそこには殺虫剤があるではないか。確か隣人は俺より少し年下の男子大学生だ。さすがは現役で勉学に励む者、こういう時のために備えているのであろう。
俺は彼の玄関ドアに向かって合掌したのちその殺虫剤を手に取ってそれを憎き蜘蛛に噴射した。
戦いには無事勝利した。いやはや中々に手強い相手であった。
そうして六畳間の中で己の勇ましき様に見惚れ褒め称えていたのだが、今日は先程の格闘を含め、色々と疲れてしまっていたのであろう。俺はコートを脱ぎ捨て、そのまま倒れ込むように布団に沈んだ。
あの娘の夢を見た。彼女はやはりあの校舎の端で、その綺麗なショートヘアを風に靡かせていた。
目が覚めると窓はまだ色を変えておらず、まもなく夜が明ける頃であった。体を起こし、猫背で俯く。
我が高校時代の思い出の中でいつまでも我が隣に居続ける、まるでパッと消えていってしまいそうだったあの娘は、今頃何処でどのように生きているのだろうか。夜を嫌わずにあの可愛らしい顔で笑っているだろうか。幸せな笑顔に囲まれて生きているだろうか。そんなことを思っていた。思うだけ思って、虚しくなって、寂しくなって、それを紛らわせるために携帯を開きあの娘と真逆の爆乳黒ギャルが乱れる桃色映像にて我が愛しの恥ずかしがり屋な息子を激しく慰めた。戦を終えた我が息子のその元気のない様はまるで猫背で俯く今の己とそっくりであった。その頃にはもうティッシュの中も部屋の窓もすっかり白く染まっていた。
晴れて昨日から俺も所謂ニートである。無論早く次のバイトを探さねば餓死にて孤独死待ったなしだが、まあここは焦ることなくしばらくゆっくりとこの誰にも咎められることのない穏やかな時を過ごそうと思う。
そうして再び寝転びながらいつもの携帯ゲームをしては上手くいかなさに独り虚空に怒鳴り、携帯を投げ捨てた。再び今度は体を起こし、窓前に置かれたカラーボックスを横にしただけの文机もどきにふと目をやる。その上にはあのバレンタインチョコクッキーが入った紙袋があった。貰ったその日に半分程食べたのち、もう半分は大事に時間をかけて食べていこうと置いていたのだが、その翌日にはあの憎き事件が起こり、捨ててやろうとも思ったがやはり捨てきれず依然そこに置いたままだったのだ。
再び捨ててやりたい衝動に駆られるも腹が「食い物をくれえ」なぞと情けなく泣くものだから俺は仕方なく紙袋の中に手を突っ込み、残りのクッキーを一気に頬張った。あの日食べた時には美味しく感じたが、今冷静になって食ってみると大して上手くもなく、俺は鼻で笑った。しかしその鼻を通ってゆくクッキーの深い香りにはなにか懐かしさがあり、首を傾げたのち、その正体に気づき、丁度四年前の、あの冬のことを思い出した。
休憩時間、卒業をもうそこに控えた俺とあの娘は、相変わらず校舎の端のいつもの場所にいた。
少々の期待を胸に隠していた俺に彼女は「はいこれ」と言って少し微笑み、クマのキャラクターが描かれた紙袋を手渡してきた。礼を言って受け取りそばに置いていると彼女は「今食べてみてよ、味の感想知りたいから」とまた違う微笑みを見せる。それに従って紙袋を開けるとそこには小さなハート型のクッキーがいくつも入っており、その一つを口に入れた。その深い香りとほろ苦い味はなにか“大人”といった雰囲気で、十八歳の俺になにか“この青春の終わり”を感じさせた。
素直に「美味しい」と言うと彼女はその白く綺麗な顔で、満開の桜のように綺麗で可愛らしく微笑んだ。春はもうすぐそこで、でもその春を迎える前に彼女とはお別れなのだ。
六畳間の押入れを漁る。そうして手にしたあのクマのキャラクターが描かれた紙袋。未だそれを捨てずに持っている自分を気持ち悪く思った。
紙袋の中を覗き、そのなにも入っていない紙袋の中を少し嗅ぐ。もうあのクッキーの香りは無く、小さく溜め息を吐いた。
あの娘は今頃誰と笑っているのだろうか。誰かと笑えているのだろうか。今年のバレンタインデーは誰かにクッキーやらをあげたのだろうか。また無意味なことを考えていた。
暖房もつけていない六畳間では部屋の中でも息が白く濁る。体はどんどん冷えてゆくものだから、その紙袋をもう一度押入れの中に戻し、布団に包まった。そうしていつの間にか再び眠ってしまい、またあの娘の夢を見た。