後編
その年私は夢中でピアノを弾きこんだ。「悲愴」を自分で弾きたくて、かなりの時間を練習に費やした。先生に訊いてみたところ、「悲愴」はベートーベンのソナタの中では弾きやすい部類に入るという。楽譜も買った。幾つもの音が重なる和音に苦戦しながら、恐る恐る譜読みを進めた。はじめは何の曲を弾いているのか自分でも分からなかったが、だんだんと旋律が浮き上がってきた。タッチミスも減っていった。そのうちに第一楽章の譜読みを終え、第二楽章、第三楽章へと進んだ。ようやく全楽章が人に聞かせられるレベルにまで達したのはそのまた次の年だった。
その年は受験の年だった。学校から帰ってすぐにピアノの前に座っては、あっという間に練習を切り上げて予備校の授業に出かけた。満足に弾けない日々が続いた。鬱屈した気持ちがピアノにも影響し、音色は濁っていった。
予備校の授業の入っていない日には、これ以上弾いたら逆に後退してしまう、というところまで弾きに弾いた。そんな私の熱の入れ方を、母は快く思っていないようだった。練習中にノックもせずに部屋のドアを開けては、何も言わずに閉めることが頻繁にあった。私はそんな母を無視してひたすらベートーベンを弾き続けた。
ピアノを夜に弾くことはできない。私は自分の奏でるピアノの音が近所迷惑にならないよう細心の注意を払っていた。夜には勉強で遅れた分を取り戻そうと机に向かった。音楽はかけなかった。少ないお小遣いを費やしてあんなに沢山のCDを集めたのに、その頃にはもう聴くことはごくまれになってしまっていた。
私は調律の日を心待ちにしていた。一年間の練習の成果を松村さんに聞いて欲しかった。よく考えると、今回も松村さんが来るかどうかはわからなかったし、母が土曜に来てくれと頼むかどうかも分からなかったのだが、とにかく私は松村さんの前であの「悲愴」を弾くことばかりを考えていた。
五月の連休を過ぎたある日、ピアノの先生から演奏会に出てみないかと誘われた。
「あなた最近は随分熱心に練習しているものね。私の知り合いの講師が教室の生徒を集めて演奏会を開くんだけどね、なかなか人数が合わなくて時間が余ってしまいそうなんですって。ねぇ、『悲愴』で出てみない? 演奏レベルもぴったりだし、人前で弾くと上達するわよ」
私はそれまできちんとした演奏会に出たことはなかった。受験のこともあり、かなり迷った。母の目も気になった。だが、「人前で弾くと上手くなる」の言葉につられた。松村さんの前で弾く前に、大勢の前で弾いて感覚を慣らしておきたかった。私は出演を決めた。
八月の演奏会までは、前にも増してあらゆる暇を切り詰め練習時間にあてた。学校の終わったあとは快速の電車に間に合うよう駅まで走り、制服を脱ぐのももどかしくピアノの前に座った。そして予備校の時間ぎりぎりまで弾いていた。予備校のない日は夕食の時間までひたすら弾きこんだ。母の眉間の皺は深くなるいっぽうだった。
あっという間に演奏会の日はやってきた。会場は都内の小さなホールだったが、私はフルコンサート用の身の丈の長いピアノに触るのが初めてで、想像以上に緊張した。
客用の正面口とは別の裏口から建物に入り、業務用のエスカレーターを使って控え室に上がった。途中で花束を持って歩く先生の姿が見えたが、気づかないふりをした。のろのろとドレスに着替えて髪を結い、モニターにうつる他の出演者の演奏を眺めて出番を待った。
控え室で待つ他の演奏者たちはみな私よりも年下のようだった。中高生が殆どだったが、中には小学生くらいの女の子もいた。こんなに小さな子どもと同じ列に並ぶのかと思うと気が滅入った。隣に座る女の子は中学生と高校生の境目のような雰囲気で、私の知らない曲の楽譜を見て指を動かしていた。楽譜は真っ黒だった。音符が細かすぎるのだ。おしゃべりをする人はいなかった。同じ門下の生徒たちのはずだが、確かに、個人レッスンでは他の門下生と知り合う機会はあまりない。
私も他の人にならい、楽譜を見たり指の運動をしたりして時間を潰した。誰もモニターに映る本番中の演奏などは真剣に聴かなかった。私は気になってしょうがなかったのだが。
進行係に促されるままに私は舞台袖に上がった。既に何人かの演奏者が待機していた。男の子もいた。男の子の弾くピアノは華麗で力強かった。私の直前の男の子が演奏を終えた。鍵盤から指を離してもなお余韻が響いていた。男の子は舞台の中央へゆっくりと歩み、正面を向いて姿勢を正してからお辞儀をする。拍手が起こった。ショパンのバラードの一番。私は彼の演奏を聴いている余裕がほとんど無かった。
放送係が私の名前を呼んだ。心臓が飛び跳ねた。舞台中央に歩いていき、胸元を押さえてお辞儀をする。頭を上げるときに、客席の一番奥の出口のすぐ脇に見知った影があるのを見た。まさかと思った。よく見ようとしたが、体は勝手にピアノへと向かった。椅子の高さを調整し、座る。深呼吸をする。
あの人の姿が気になったが、かえって心は落ち着いていた。
鍵盤の上に手を載せる。よく指のフォームを整えて最初の和音を奏でる。深い音色がホールを満たした。広い空間で音が揺れている。その波の最後までをよく聴きとおして次の音につなげる。二音目を弾くことにより音にリズムが生じる。三音目、四音目と重なっていく和音の変化が美しい。そのまま序盤を弾きとおし、転げ落ちるような半音階を駆け抜けて、第二主題に入る。激しい旋律に身を任せていると手がひとりでに音楽を奏でてくれる。余分な力をためないよう脱力状態を保ち、展開部に入る。うなるようなハーモニーを経て、再び主題に戻り、激しい感情を湛えたまま第一楽章を終えた。充分呼吸をおいてからゆったりとした第二楽章へうつる。祈りを思わせる優しく穏やかなメロディが流れる。松村さんは第二楽章以降を弾いてはくれなかった。私は祈りの中から自分自身の力で救いを見つけ出すつもりで歌い続けた。終始静かな曲調のままで演奏を終えた。最後の第三楽章は高速の章だった。同じ主題を何度も何度も繰り返すロンド。それはまるで後悔の波だった。悲痛な叫びを思い出させる音階を駆け下りて曲は終わった。
椅子から立ち上がるか立ち上がらないかというところから既に拍手が聞こえ始めた。その拍手を後にして私は舞台袖に戻った。しかし控室へは向かわずに、衣装を着たままロビーの入り口まで走った。例の人はまさに自動ドアを開けるところだった。
「お父さん!」
私は呼んだ。父はゆっくり振り返った。
私の息は上がっていた。舞台の上での緊張が今になって噴出したようだった。
父はスーツを着て黄土色のネクタイをしめていた。仕事中に立ち寄ったのだろう。三年ぶりに会う父は想像よりもぐっと老け込んでいた。そして柔和な顔をしていた。
息を整えてから私は父に言った。
「どうしてここが分かったの? 案内状も出してないのに」
「お母さんが教えてくれたんだよ」
「お母さんとまだ連絡を取っているの?」
「ごくたまに」
「どうして」
「どうしてってそりゃ……」
「どうして私には何も言わなかったの」
父は目を泳がせて、それから私の目に焦点を定めた。
「お父さんが君と会ったら、お母さんが悲しむだろう」
私は混乱した。父は私が高校に入る直前から単身赴任をしていたが、一度も家に帰ってこなかった。しばらく経ってから、おかしいと思った。高校に入ってすぐ、ちょうど松村さんがうちに来るようになる少し前、いちどだけ母に尋ねてみたが、「お父さんは仕事が忙しいらしい」の一点張りだった。それで私は家では父の話題を出してはならないのだと学んだ。
「どうして別居したの」
父は、今度は私をまっすぐに見た。
「わかって欲しいのは、決して君らを嫌いになったから離れたわけじゃないって事だ。お父さんは今でもふたりのことが大好きだよ。でも、好きなだけじゃ駄目なんだ。お父さんが家にいたり、君に会ったりすると、お母さんのペースをひどく乱してしまう。でもお母さんだって好きこのんでヒステリックになっているわけじゃない。これはしょうがないことなんだ」
私はしばらく考えこんだ。
「お母さんは一生懸命『お母さん』をやっているよ」
「そうだろうね」
「離婚するの?」
「お母さんがしたいと言えば」
「私、お母さんのそばを離れるわけにはいかない」
「それはそうだね」
私たちは黙って見つめあった。
「良い演奏だったよ。まだピアノを続けていたんだね」
父は私の頭にぽんと手を載せた。
「また会える?」
「今日みたいな偶然があればね」
「私、お母さんのそばにいるのが時々つらい」
「そんなことを言ってはいけない……君のお母さんなんだから」
父は私の頭に載せた手を離した。
「音楽は奏でたそばから消えていくのが綺麗だね。これからもできる限り続けて欲しいよ」
そう言って父はホールを後にし、仕事に戻っていった。私は衣装を着たままいつまでもそこに立ち尽くしていた。
松村さんが調律にやって来たのはそのすぐ後だった。
松村さんは、今年は車に乗ってやってきた。念願の自動車をやっと手に入れたようだ。もう汗をかいてはいなかった。
母が松村さんを部屋へ案内し、扉を閉めた。私と母は居間でどら焼きを食べた。調律作業が半ばにさしかかったころ、母は麦茶を出しに行った。どら焼きを食べ終えてから、私は予備校のテキストを開いた。母は雑誌を読んでいた。
調律はあっという間に終わった。
居間で松村さんにどら焼きをふるまった。松村さんはやはりとても美味しそうに平らげた。母はやけに機嫌がよく、松村さんに色々な質問をしていた。私はその会話を聞くともなしに、さっき読んでいた予備校のテキストの内容を思い返していた。
十分ほどおしゃべりをしてから、松村さんは帰っていった。今年はピアノを弾いてくれなかった。少し残念だったが、そのときにはもうベートーベンを聞いて欲しいという気は失せていた。あれだけ熱心に練習して、母と対立して、松村さんに焦がれていたのが嘘のようだった。
その年を最後に松村さんは来なくなってしまった。きっと別の販売店にうつったか、販売店から独立したのだろう。
私はなんとか志望大学に合格し、卒業もできた。音大受験という言葉もちらりと頭をかすめたが、私の中途半端な腕では無理だと分かりきっていた。調律師の専門学校に行きたいと思ったこともあった。でも母は、私が当然大学に行くものと考えていた。その期待を裏切ることはできなかった。
両親は相変わらず別居を続けていた。私が大学に入ってから一、二年も経つと、次第に母の状態は落ち着いていった。社会人となった今では、母は父からのメールを見せてくれるようになった。
働きだしてからは、ピアノを弾く機会は自然と減っていった。カレンダー通りの勤務ではあっても、学生時代のようにひたすら弾きまくるというようなことはできない。休日、ピアノを弾く以外にするべきことは山ほどある。
そんな今でも「悲愴」を弾くことはある。ベートーベンの曲は他にも随分弾いたが、それで分かったのは、「悲愴」が若い曲だということだった。この曲の中で語られる悲愴感は若者が感じる感傷のような悲しみだ。そしてベートーベンの曲は、演奏者よりも寧ろ聴いている者の心の状態を鮮明に映し出してくれる。そう考え付いたとき、鮮やかに終末のイメージが頭をよぎり、そして消えた。あのとき、私の演奏を聞いて父はどう思っただろうか。
ショパンを弾くこともある。中でも「雨だれ」はよく弾く。ベートーベンが聴くものの心に敏感であるのに対して、ショパンは演奏者の心に敏感だ。特にごくシンプルな「雨だれ」は弾くたびにまったく違う音楽になる。あれきり父とは会っていない。もしこのさき機会を作れるとしたら、今度は父の前でショパンを弾いてみたい。
<了>