淋しい熱帯魚
「パパ、また帰らないの?寂しいよぉ、パパ……」
チュンチュン。朝か。おおいやだ。またこんな夢見ちゃった。パパが帰らないなんて当たり前のことじゃん。パパは私よりオシゴトがダイジなの。
パパは社長だ。社長はたくさんの社員を飼っているから気が抜けないんだって。わかってるよ。私は聞き分けのよい娘だから。聞き分けはよいが、利口ではない。寂しいの嫌い。ママはいない。ちやほやされたい。
ぐちゃぐちゃ。朝食のオムレツ、スクランブル・エッグになっちゃった。
ちやほやされたくて、私はキャバ嬢になった。うん、実際、ちやほやはされるよ。ちょっと喋るだけ、ちょっと笑うだけ、それだけでお客さん嬉しそうで私も嬉しい。
楽な仕事でもないが、大変でもない。お金はたくさん貰える。でも、それだけ。
私はパパがほしいのだ。パパみたいに、社長で、背中が広くて、私を愛する!そんなパパがほしいのだ。
「お隣、失礼しま〜す」って、一人挟んで隣りの隣りに座ったのは、サチ。源氏名はりんごちゃん。なかなかかわいい。目がでかいのは、それだけで有利だからずるい。しかも酒にめっぽう強い。私ほど飲める女は初めてだ。
おかげで、売り上げは私の次に良い。おまけに彼女は専業お水じゃないのだ。勤労学生。
「論文書きで徹夜で〜、すごく眠たい」
って言われてもね〜。でも、学校に通ってるってだけでなんかキラキラしてるよなあ。青春って感じ。私。彼女と同い年の私。残念ながら私のかわいい青春は遥か彼方。汚れたばっかりの毎日だ。
サチはなぜか私に話し掛ける。何せ私、わがまま育ち。同性に好かれるタイプからはほど遠いのは理解してる。でも、サチはなぜか私に話し掛ける。なんでだろうね。私、我ながら、ぜんぜん愛想ないし、発言も気遣いないし、付き合いにくいと思うんだけど。
今日も彼女に「貧乏人」とか言っちゃった。すごく反省。ろくでもないなあ。でも、一度言ったこと、撤回なんて無理だし、フォローもカッコわるい。どうしてこんな事言っちゃうかなあ。ポロッと出ちゃうんだ。
でもサチは「そうなの。貧乏人でね」とオモシロ貧乏エピソードを披露してくれた。ふん、いい子で羨ましいです。嫌味じゃなくてね。どうせパパからもママからも、もっと言えば親戚、近所の人、友達からも愛されてるんでしょ。そんな顔してる。
私の気持ちはわからない。このひねくれた、陰湿な気持ち、まあ、理解されたくもないけどさ。
「なんで私に話し掛けるの?」
って聞いたらきょとんとして、
「なんで?」
って疑問で返された。
「だって私、変でしょ。自覚はあるの」
「でも、着てる服とかカッコいいじゃん。どこで買ったの?」
なにが「でも」だ。答えになってないよ。まあ、私も「でも」を使わせていただくが、でも、彼女の答えは、予想よりは遥かにマシだった。てっきり「ミナは悪い子じゃないよ」とか言ってくるのかと思ったわ。まったくそんなの、虫酸、虫酸。胃が荒れちゃうわ。いい子ちゃんにそんなこと言われたって腹立つだけだもんね。「不良にもお優しい子」なんてたまらないわ。
「もっと、ミナみたいにカッコよくなりたいなあ」
「カッコよくないよ」
「カッコいいよー。自立したオンナって感じする。媚びないし、キレイだし、性格はあんまりよくないけど」
「言ってくれるね」
「悪いものを良いとは言えないでしょ」
くそう、こいつ案外、案外だぞ。正論吐き。バカ。バカ。彼女の性格が単純なので、罵倒の文句も単純になってしまって、こっちがバカみたいだ。だから言わない。
「あんたも変人だわ」
「言われたことない」
「おめでとう、初体験じゃん」
「初体験かあ」
彼女は笑った。バカ。バカ。嫌味だっつの。また口に出せない単純な罵倒ばかりが浮かんで消えた。彼女は知らん顔でこう言った。
「わたしも同じ服買いたい。どこで買ったの?一緒に行こうよ」
「誰があんたと一緒に行くのよ」
「ミナとだよ」
ふつうに言われてしまった。そうか、私か。
「似合わないわよ、あんた」
「わかんないじゃん」
「わかるの!とにかく一緒に行かないんだからね。勝手がわからないの連れてったら、こっちが恥ずかしいんだから」
するとサチは、
「うん、忙しいなら今度ね」
だって!だから、金輪際行かないんだってば!日本語通じないわけ?まったく疲れちゃう。
家に帰る。もちろん中には誰もいない。化粧も落とさず、派手な服もそのままにベッドに寝転がる。私は、熱帯魚みたいだ。派手に着飾って、水槽を泳いでいる。水槽には誰もやってこないのにね。熱帯魚は泣いてもわからない。水に棲んでいるからだ。
でも、熱帯魚はそれでも泣いて、少しは水の量を増やしてるのかもしれない。私の好きなところはバスルームだ。ひとりでも水の音がして少しはやかましいし、シャワーは涙を流してくれる。
熱帯魚が水の中に棲む理由、よくわかる。海草の代わりにシーツにくるまって眠る。
処女は尊いというのは本当だ。少なくとも私も処女であった時期があるからわかる。処女のころ、私は愛だけで男女が成立すると思っていた。揶揄されるほど純粋だった。処女を失ったころ、体なしではいられないのだと気付いた。
おそろしくいやらしい話だが、からだとこころは別物だ。こころが満たされないなら、せめてからだを満たしたい。でも、からだって、ほんと一時凌ぎ。いくら食べてもお腹ってすくでしょ。そんな感じ。
下らないって、理論では思うの。理想では思うの。恋って愛ってぐっと精神的で神聖なものだって、布団に入った時、テレビ見てる時、街中で人込みを見てる時、様々な瞬間に、ふと思ったりする。するんだけどさ。なんでだろう、そうやって生きられない。
「どうして男の人はセックスしたがるの?」
ある日サチが言った。
「愛ってセックス抜きに語れるでしょ?」
「あんた、処女なの?」
「うん」
サチは恥ずかしいことを、事も無げに言った。
「じゃあ、セックス抜きで語るの?どうやって語るの?」
「だって、言葉があるでしょ。からだが繋ぎたければ、手だって繋げる」
そう言って、サチは自分の両手を絡ませた。
「他になにがいるの?」
私はすぐには答えられない。処女……少女は尊い。こんなに理知的な生き物を他に知らない。獣らしいところがひとつもない。黒目がちの、知性に富んだ瞳。
「言葉は、ぜんぜん完璧じゃないじゃん。言葉で足らないのをからだで補うんだわ」
少し考えた、私なりの理屈。的外れではないだろう。
「でも、言葉も交わさないで、セックスなんて、虚しいだけなのにね」
瞬間、彼女のその視線が私を射抜くかと思い、すくんだ。
「なにそれ?カッコいいつもり?」
私また悪態。怖い。彼女のてらいのなさが怖い。
「ううん……ううん」
サチは二度首を振った。
「わたし……この店やめる」
「ふうん?」
いい子ちゃんは、お水が嫌になったのかな。お金できたらサヨナラか。まあ、いいんじゃない。あんた、巻いた髪もドレスも似合わない。
「ミナ」
「何よ」
「愛も言葉もないセックスなら、かえってキレイかな」
「なに言ってんの?」
「わたし……」
だめだ、ってサチは呟いて両手で顔を覆った。
「だめだだめだ。だめ。ぜんぜん。もうわからない。もうミナとは会わない。恥ずかしいもん。洋服買いたかったけど、もういらない。ずっと黒い服だけ着る」
「なに言ってんのよ……」
サチは途中から声こそ泣いていたが、顔を上げたらもう涙は見えなくなっていた。
「もう行くね」
熱帯魚の涙は見えない。水の中にいるから……
次の日からサチは、本当に姿を見せなくなった。どうしたんだろう、って、私は生まれて初めて、人の心配らしきことをした。
とはいえ、私の心配なんて、食事すりゃ忘れる程度だ。サチのことは、心のほんの片隅ずまい。
でも、片隅には、しっかり住んでいるのだ。帰りに、なんとなくあの子の欲しがってた服を買った。私は二着持ってることになるんだけどさ。別にいいや。さて、今日は社長に会う日だ。
「きみの友人も、ずいぶん大変みたいだな」
ベッドの上。ピンクの壁。たばこ。彼が言った。私はうわのそら。
「私に友人なんていたかなあ」
「ほら、同じ店だった……りんごちゃんだ」
「ああ」
私は息の代わりに煙を吐く。別に、友達なんかじゃないけど。
彼はたまに付き合ってもらう、うちの店も経営してる社長さんだ。なかなかどうして、やり手らしい。私は「社長」というだけで、パパを重ねて弱くなってしまう。でも、若いのが気に食わない。二十代半ば、まあ二枚目、妻子なし。絶好調だ。慢心がないわけない。それがときどき鼻につく。年齢を重ねて、慢心が包容力に変わるといい。パパに比べたら、まだまだ。彼が続けて言った。
「りんごちゃん、俺に、この界隈で一番稼げる職業を教えてくれって言ったぜ」
「……教えたの?」
「もちろん。かわいい子だからな。教えといたさ」
「最低」
稼げる職業なんて、決まってんじゃん。
「あの子に風俗なんて出来るわけない。しかも、高い店なら本番アリでしょ」
「しかし、辞めたとは聞かないから、まだやってるんだろ」
「うそぉ……」
あの子が?あんなに健康的で、健全だったあの子が?
「気になるか」
「ちょっとね……」
「彼女のケー番だ」
彼は数字の羅列を書いた紙を投げてよこした。
「別に……かけないよ」
「きみが人の話に反応するなんて珍しい。きっと君はあの子が好きだね」
社長はからから笑った。私不機嫌そうにたばこ。ふん、でもさ、私、実はこうやって見透かされたりするの好きなんだよ。だって子供になったみたいに甘ったれた気持ちになるじゃん。甘えるの、本当は好きだよ。態度には出さないけどさ。紙はポケットに適当にしまった。
「ほら、いつもの……」
社長はいつも金をくれる。お礼なんて言わない。だってさ、これは契約なんだもん。愛なんていらないって、彼が言うから貰うんだ。受け取らないと、なんだか変な感じ。愛が、あるみたい。
「りんごちゃんも、同じことしてるんだな」
お金を受け取った私に彼は言った。なぜかギュッとなった。私がやるのはまったく構わない。だって私ビョーキのヘンタイだって自覚あるし。でも、あの子がするのは、ちょっとおかしい気がする。卵みたいな、柔らかいあの子が、なんの他愛もなく破壊されるのは、痛々しい。いたたまれない。
家に帰って、買った洋服を取り出す。鮮やかなブルーのトップス。ショートパンツ。
(もういらない。黒い服だけ着る……)
不意にあの泣いた声が思い出されて、ズンとなった。あの子は、少なくとも処女だったあの子は死んだのだ。喪服はいつまで着るの?この鮮やかなブルーを着るのはいつ?ねえ、こころは痛まなかった?
私はなぜか、彼女のこころのほうが、私のこころより何倍も大切に思えた。だって、まだキレイだから。少なくとも、キレイに見えるから。洋服をハンガーにかけた。
パパはオシゴト人間。ではママは?ママは私が小さい時に死んだ。からだ、弱かったんだって。ときどき、ママがいたらどうなっていたかな?って考える。わかんない。漠然と、良くなっていたんじゃないかとは思うが、どう良くなっていたのかがわかんない。少なくとも私は不良品にならなかったのかな。ううん、きっと生まれながらの不良品だからダメかな。私って、小説や映画や漫画の、いわゆるフィクションにまったく興味が無い。想像力がない。だからifを考えるのがこんなにも下手だ。
フィクションより生きている人間が好き。あの生々しさがたまらない。同じことを言い続けている人もいれば、翌日には違うことを言っている人もいる。優しい人もいるし、くだらない人もいる。面白い。どんな物語よりも。だいいち、神様は人の中にいる。フィクションの中にはいない。子供は天使と言うが、あの何も考えない、心配のないのほほん顔が神聖なのだろう。神様は心配なんかしない。絶対だ。私は街中の大人にも、ときどきそんなのほほん顔を見つけては、まだこの国には神様がいるんだって思う。実際、その人には悩みがあるのかもしれないが、擦れ違うだけの私には知る由もない。
サチも神様だった。明るくって、のほほん顔してた。きっと彼氏がいて、結婚をして、子供を生むんだって思えた。私はそんな人はめったに知らない。そんなに当たり前のことが当たり前に浮かぶような人は、私の前には現れなかった。女に生まれ、好きな男と結婚して、子供を生むように、自然に逆らわないことは、私にはどんな苦行よりも尊いことと思える。
社長はああ言ったが、私がこの目で確認しないかぎり、サチはのほほんのぼんやりで尊いままだ。少しだけ泣いたあのときは、水槽の水に流してしまえ。
出勤したはいいが、具合が悪い。電車で帰るからって、早く帰してもらった。駅までが遠い。ええくそ。
「どうしたんですか?」
フラフラ歩く私に誰か声を掛ける。ううん、なに、警官?
「酔っ払いですか?」
「違うっつの。貧血……」
酔っ払いと間違われてはたまらない。貧血かどうかもわからないが、とりあえず酔っ払いよりはマシだ。
「駅まで送りますよ」
相手は親切にそう言ってくれた。どうやら女なので下心もないだろう。安心して身を任せた。
「あ……」
私はもう、足を踏み出すのに必死で、彼女の人となりなど見ている余裕がなかったが、急に彼女はそわそわし始めたようだった。
「あの、わたし、用事を思い出して……それで」
「ちょっと、放り出すつもり?」
私は具合が悪いのだ。病人だ。それを放るなんて!
「救急車を呼びましょうか」
「いいよ、ひとりで帰れるから、駅までは……」
私は初めてその人の顔を見た。
「あ……」
さっきの彼女みたいに、うっかり私もうろたえた。黒い服、短い髪。すっかり様変わりしているが……
「サチ……」
名前を呼ぶと、彼女はサッと青ざめて、体を翻そうとした。私は咄嗟に服を掴む。
「久しぶりじゃん!ねえ!」
私は具合が悪いのもどこへやら、夢中で彼女に話し掛けた。
「うん……」
ようやく、サチが口を開いた。
「久しぶりだね、ミナ」
「なんで逃げようとしてんの」
「びっくりしたから……」
「あんた今、何やってるの」
尋ねると、サチはうつむいた。長い睫毛が影を落とす。それだけで、そんな初めて見たような仕種だけで、彼女がどうやら変わってしまったのだとわかった。喪服を着て、長かった髪はバッサリ切り落としてしまった。あの日見たような、呑気さは消えてしまった。
「風俗、なの?」
「…………」
「黙ってないで、なんとか言いなよ!」
「風俗じゃないよ……」
「なんだ。やっぱりね」
「やっぱり?」
「こっちの話!」
「ミナは、相変わらずなんだね」
サチはようやく、緊張していた頬を緩めた。
「あんたは変わったね」
「きれいになった?」
「生々しくなった」
サチは意味をはかりかねたのか、首を傾げた。
「なんだか、普通の人間みたいになっちゃったってこと……」
おっと。目まいがして思い出した。私具合が悪いんだ。
「大丈夫?タクシーつかまえようか」
「そうしてくれる?」
そっかタクシーという手があった。調子が悪いと頭の巡りも悪くなっていけない。
タクシーにむりやりサチを乗り込ませて、私は家に向かった。
「ものすごいマンションだね」
私の家を見て、サチが言った。
「そう?」
「うん……芸能人とか住んでそう」
「キョロキョロしないでよ。恥ずかしいなあ。肩貸してよ」
「あ、うん」
サチは素直に肩を貸してくれた。まあ一人で歩けるけどさ、なんか、黙って二人で歩いても手持ちぶさたじゃん。みちみち、話す。
「髪、切ったんだ」
「うん」
「きれいな髪だったのにね……」
エレベーターが来た。乗り込む。
「わたしね、髪ってすごいなあって思ったの」
「は?」
「だって髪は、切られても伸びるから」
「あっそう」
当たり前のことじゃん。深くないよ、別に。
「あんたさ、いつまでその黒い服を……」
言い終わる前にエレベーターが開いちゃった。まあいいや。
「すごいね。芸能人が住んでる部屋みたい」
「あんたさっきからそればっか」
「だって、すごいとおもうんだもん」
「すごいってとこじゃなくて、芸能人が〜ってとこ」
まあいいや。どうでも。私はベッドに横になった。
「片付いてるね。ねえ、具合悪いなら何か食べて薬飲んだほうがいいよね。冷蔵庫、なんかある?」
「薬ないよ。冷蔵庫は見てみて。」
失礼します、って断ってサチは冷蔵庫を開けて、「なんだか悲しくなっちゃった」って言いながら戻ってきた。
「コーラとお酒しか入ってないよ」
「うん……だって、めったに家で食事なんてしないでしょ。卵はこの前使っちゃったし」
「するよ……」
サチは溜め息をついた。
「ミナは、いつもきれいだけど、青白くてちょっと怖い」
「幽霊みたい?」
「作り物みたい。きっともう少し太って、顔色が良くなったらずっとかわいいよ」
「誰が喜ぶのよ、そんなの。ぶさいくになるだけじゃん」
「わたしが喜ぶよ。ミナが健康になって、それでよく笑うようになったら、わたしが喜ぶ」
「なにそれ。意味ない。あんただけじゃ」
私は枕に顔を埋めた。私は、だめだ。きっと顔が赤い。こんなにまっすぐ好ましい言葉を向けられたのは初めてなんだ。
「ミナ、熱があるね。わたし、ちょっとコンビニ行ってくる」
「なんでよ」
「薬がないなら、栄養ドリンクと、レトルトのお粥買ってくる……あ」
サチは壁際の服を指差した。例の、サチが欲しがってたやつだ。
「あれ、ミナに似合ってたやつだね。また着てるとこ見たいな」
サチはそう言って、「行ってくるね。すぐ戻る」って、家を出ていった。時計の音だけになった。さっきまで騒がしかっただけに、すごく淋しく感じる。
「すぐ戻る」そう言ったサチは、その夜私のところには帰らなかった。あんなに優しい言葉を吐くかわいい唇で、こんなに簡単に嘘を言うんだ。どうせ、私を心から好きな奴なんていない。私は熱が上がってしまった。
夢を見た。海みたいなブルーの服。この服が本当に海になって、私はいろんな淋しい人に泳いでいけた。その中でサチと会った。
「あんたも、淋しいの?」
と聞くと、
「とても」。
サチの涙は海の中で見えなかった。見えないが、この海ではみんな泣いている。私も泣いている。
昔、なんとなく付き合っていた一人と別れたくなった。なんでもするから別れてよ、って言ったら彼は、じゃあ背中にLOVEって書かせて。と言った。ふん、なにそれ気持ち悪い!
でも私はとにかく別れたかったから、いいよって安請け合いした。背を向けたから気付かなかったんだ。彼が持ってきたのはマジックではなくカッターだってことに。熱い!と思って振り返ったら、血まみれのカッター持ったあいつ。
あいつは、「L」までしか書かなかった。「O」は丸いから、たくさん血が出そうで躊躇したんだって。いくじなしめ。それでも、私は十二針も縫う大怪我だ。おかげで私の背中には情けない「L」のタトゥーがある。
普段は何も考えないけどさ、ときどき、あいつが私の背中に「O」「V」「E」を書きにくるんじゃないかと思う。そして「E」は「END」の「E」かもしれない。私の命もオシマイってわけだ。別にビビってなんかないけど、ときどき自分の悲鳴で目が覚める。
熱はだらだらと一週間も続いた。ポケットに入っていた、サチのケー番を、何度も押そうとして、やめた。まるで私がサチにこだわっているみたいだ。そんなのって、なんかカッコわるい。
起き上がれるようになって鏡をのぞくと、私は肌もボロボロ、頬はこけてとてもみっともない。だから完全復活のためにその後も三日休みをもらった。
そして今日、やっと外に出られる。久々におしゃれしたら、なんだかワクワクした。やっぱり、引きこもりにはなれそうもない。エレベーターを降りる。外に出る。うう、寒い。十日もの間に冬が訪れたようだ。薄いコートを寄せて、最寄りの駅に向かう。と。
「ミナ!」
聞いたことあるような声がして振り返る。
「サチ!」
サチはなんだか至って当たり前のように近付いてきた。いったい今さらなんだというんだろう。なんでてらいもなく近寄れるわけ? 服は……あ、喪服じゃないんだ。高校の制服?あれは……××院のやつだ。由緒正しいわが母校。この寒いのにコートも着ないで、制服を誇示するみたいに立っている。なにさ、人をほっといて、ヘラヘラして。私は憤る。
「あんたいったい、何してたの!?」
「ごめん! だって、わたし、ミナの家わかんなくなっちゃったんだもん」
「は?」
「慌てて飛び出たから、住所確認するの忘れて、しかもあの辺似たようなマンションいっぱいあって、わたし……ミナの名字も知らないし、ケー番も知らないし、しょうがないからウロウロして、ミナっていう女の人の家に行きたいんですけど、って人に聞いたら警察呼ばれちゃうし……」
「何やってんのよ」
あきれた。とんだドジ。
「今もマークされてるんだよ。ほら、交番の人が見てる」
「偉そうに言わないの。もう」
なんだ。脱力。それならケータイに連絡入れてあげればよかった。サチは小さいくしゃみを二回した。
「カゼ?」
「ううん……わかんない。ここ埃っぽいから……それにしても、ミナが十日も出てこないから、もうわたしハラハラしてた。死んじゃったかと思った」
「ご覧のとおりよ。憎まれっ子世にはばかるってね」
「ミナが憎まれっ子でよかった。ね、これ栄養ドリンクとお粥」
彼女は鞄からそれを取り出した。律義に、ほんとに買ってきたんだ。
「いらない。あんた飲めば」
「ええっ。買ってきたから飲んでよお。まるで無駄足踏んじゃったみたい」
「みたいじゃなくて、無駄足踏んだんでしょ……それより」
私はサチの格好が気になって仕方ない。
「それ、××院の制服じゃない」
「わかる?似合う?」
「うん……まあ、母校だし。それによく似合ってるわよ。高校生にしか見えない」
もちろん嫌味だ。二十歳近くにもなって、古式ゆかしい、由緒お正しいセーラーとは恐れ入る。
「そう? わたしの母校なんだよ」
サチは嫌味に気付かずニコニコしている。忘れてたけど、こいつバカなんだ。ていうか同じ学校だったのか。私ほとんど行ってなかったからなあ。もし、ちゃんと行ってたら、サチとちゃんときちんとした手順で友人になってたのかな。
「それじゃ、わたし、もう行くね。会えてよかった。ミナが死んでなくてほんとによかった。また会えたらね」
そうやってサチは踵を返そうとする。私は咄嗟に彼女の腕をつかむ。
「待ってよ。どこに行くの?」
「家に帰る」
「ほんとう?」
「…………」
また黙った。都合、悪くなるとこうだ。
「帰らないんでしょ。仕事なんでしょ」
「…………うん」
あっさり頷いた。嘘がつけないんだ。こいつ。
「前、聞かなかったね。なんの仕事?」
「わかんない……」
「わかんないって何よ」
「わかんないし、ミナには関係ない……」
私は、それを聞いて無性に腹が立った。確かに、私には関係ないことだ。
「でも、知りたいの!あんたのことなら、たいていは知ってたいの!」
「……どうして?」
「あんたでしょ!先に話しかけて、私に入り込んだのはあんたのほう!」
私は、べらべらと勝手に思ったことが出るのを止められなかった。だめだ。ずっとカッコわるいって隠してた感情が、全部出る。
サチは何か言おうとして、ふいに片手で口を押さえて、咳をした。
「ちょっと、平気?」
「うん」
って答えながら、まだ咳は止まない。背中を擦った。私は、こんなことを人にするのは初めてだ。
「わ、私のがうつったのかな……ごめん」
「ううん、最近急に寒くなったからだと思う……」
やっと息を整えて、サチが言った。
「ほら、ずっとこの時間、ここで待ってたから」
「ああ、そっか。バカだな、ほんと……」
バカすぎて、なんだかかわいそうだ。私は思って、ふと、かわいそうの気持ちは愛情だって気付いた。どうでもいい奴が駅で何日待ってようとどうでもいいんだから。毎日こんな薄着だったのかな。なにかものは食べていたのかな。警察に嫌なこと言われなかったかな……首を振る。
「やっぱり栄養ドリンク、あんたが飲みなよ。ほんとにカゼひいたら困るよ……って、ひいてるのか」
「じゃあ半分こしようよ」
「半分こ?」
言ってる間にサチはドリンクを少し飲んだ。
「あとはミナにあげる」
「やだ。カゼがうつる……」
「人にうつすといいんだよ。ちゃんと飲んでね」
笑顔で渡された、冷えたドリンクが、なぜか嬉しかった。カゼくらいなら、もう一回ひいてやるって思えた。
「ねえ、ミナ、わたし本当に行かなくちゃ。人を待たせてるの。ミナも出勤でしょ?」
「……うん。でも」
腕をはなさない私に、サチが諭すように言った。
「あのね、ミナがわたしのこと好きなら、私もミナのこと好きだよ。そんなに掴まなくても、逃げないから」
「……電話する」
「番号、知ってるの?」
「うん。ちょっとね……仕事中だったら、出なくていいけど、絶対返してね」
「うん」
サチは笑って頷いた。そし私から離れた。後ろ姿を見て、なんでセーラー着てるのか、聞き忘れたって気付いた。
職場で栄養ドリンクを酒で割って飲んでみた。まずい。カゼ、うつるといいな。サチから貰えるならなんでも、ウイルスでも、いい気がした。
犬がかわいい理由がわかった。じっと駅で待っていたサチ。あんなふうにされてはかなわない。仕事終わりに電話をかける。
『もしもし……』
「サチ?」
『ミナ?今仕事終わったの?』
「うん。今帰り」
『そっか。わたしも今帰りだよ。疲れちゃった……ねえ』
「なに?」
『今日、家に泊まってもいい?』
「いいよ」
『ありがとう。またわかんなくなったら、電話するね。じゃあ、またね』
ツー、ツー、って向こう側から切れた音。私はちょっと嬉しくなって、しばらくケータイを握ってた。通話したあとって、ケータイが少しあったかくなるんだ。そうだ、たまには家で食事でもしよう。料理はよくわかんないから、鍋にするんだ。でも、鍋って……なに入れるのかな?いいや、それらしいの全部買っちゃえ。
午前を迎えたころ、サチがやってきた。制服は脱いで、また黒い服に戻っている。
「おはよー。ハーゲンダッツ買ってきたよ。贅沢しちゃった」
相変わらず、なんか呑気だ。
「おはよう。あのさあ、今ね、鍋しようとしてるんだけど、これでいいのかな?」
「鍋!?おいしそう!いいんじゃない?いい匂い」
サチは鍋を覗きこんで言った。
「深夜もやってるスーパーの店員に聞いてさ……ポン酢で食べるんだっけ」
「うん、うん。わあよかった。わたし、ご飯食べてなかったんだ」
サチは嬉しそうに、何度もおかわりした。私もつられて、何度も。美味しい。家での食事でこんなに美味しいのは、初めてだ。鶏肉も魚も白菜も春菊も、全部ごちゃまぜの、ごたごたの、美味だった。
「ごめんね」
明るい箸の合間、不意に謝られて、私はドキリとした。
「なにが?」
「いきなり泊めてなんて言って。わたしミナに甘えてるね」
「別にいいよ、ひとりじゃ広いところだし」
「淋しい?」
「え?」
「ひとりきりで……淋しい?」
「別に。わたしが電話すればみんな来てくれるんだから」
ああ、強がり、強がりばっかりだ。ほんとは淋しいくせに。鍋が煮える。テレビがニュースを流している。
「そっか。ミナは強いね。わたしは淋しい。淋しい……?ちょっと違うかも。わたしね、最近ちょっといろいろあって一人で暮らしてるんだ。ミナと違って、こんな広い家じゃないけど……」
サチは片膝立てて、そこに顔をつけて、独り言みたいに言った。
「昼間はまだ平気なのに、夜がとても怖い。夜が液化して、わたしを襲うみたい。黒い黒い気持ちになる」
「黒い気持ち?」
「なんかね、穴が開いたみたいになるの。やっぱり淋しい……のかな。上手く言えないや」
それは私にも覚えがある。夜になると、何か得体の知れないもので埋められるような、逆にぽっかりと穴が開いたような気持ちになって、自分が自分じゃないみたいになって、不安になる。隣には誰もいない。
「だから最近は、友達の家渡り歩いてたんだけどね、なんだかそれも悪くって。やっぱりわたし、変なのかな。みんなは、こんな変な気持ちにならないのかな……」
「あんたは言葉がへたなんだよ」
「言葉?」
「素直に自分の気持ちをまっすぐ言うんじゃなくて、ほんの少しまとめたら、きっとそんな変な言葉にはならない」
「そう……かな」
「そうだよ。淋しいんだ。あんたはやっぱり淋しいんだ。それだけだよ、きっと……人によって淋しいって違うけど、きっと淋しいって言葉で、間違ってないと思う」
サチはうつむいた。私はなんとなく、あ、泣くんだ。って思ってバスタオルを放ってやった。
「ボロいやつだから、いくら汚してもいいよ」
サチはそのバスタオルに顔を埋めてしばらくじっとしていた。肩がふるえている。それを見ていたら、すごくサチを抱きしめたくなった。だから、抱きしめた。
サチが泣いて、私の胸に顔を埋めていたから、よかった。私も泣いていたから。サチが柔らかくふるえているのを見たら、私もひどく切なくなってしまったのだ。
私とサチは似ている。サチは素直だけれど言葉がへたくそ。私は言葉は浮かぶけれど口に出せない。ぜんぜん似ていないが、とても似ている。
泣きやまない。あの時見た夢みたいに、私達の涙は海になって、そしてようやく現実で出会えたのかもしれない。
サチはさんざん泣いたあと熱を出した。泣いて、熱出して、赤ちゃんみたい。
「ミナ、あげた栄養ドリンク飲まなかったの? うつさなかったから、わたしカゼひいちゃった……」
「飲んだよ。酒で割ってね。まずかったなあ」
「お酒で割ったの?」
おもしろいねー、と笑うそばから咳だ。
「もう、しゃべらないで寝てなよ」
は私を見て、うん、と素直に頷いた。顔がほてっている。朝方にはもっと熱が上がるかもしれない。
病人におかしな言い草かもしれないが、サチは健やかだ。カゼひいたら、きちんとあったかくして寝るんだって、わかってる。少し甘えたりしていいんだって、知ってる。私は、そんなことも知らずに生きてきたんだ。
私は寝間着に着替えようとする。背中を晒す。醜い傷跡のこと、すっかり忘れていた。
「ミナ、それ……」
サチが息を呑んだ。そういえば、この傷について言われるのは初めてだった。誰しも、見留めてはいるが、あえて触れない。醜いものは見なかったことにしたいのだ。みんな、私のきれいなところだけ愛したがる。
「ああ、これ……」
私があの恥ずかしいエピソードを語る前に、サチの熱い指が触れて、「痛かったね……」と言われた。痛かったよ。ずっと、聞かれないから言わなかったけど。なんだかその瞬間に、傷の痛みがすうと消えた気がした。私はさっさと寝間着をはおる。なんだか、照れくさい。
「ミナ、アイス食べたい」
察したのか、サチもすぐに話を変えた。
「え?ああ、ハーゲンダッツあるよね」
サチが買ってきて、冷凍庫に入れたやつだ。
「クッキー&クリームね!」
背中で声がする。食い意地張ってら。あのぶんじゃ、すぐに回復するだろう。冷凍庫、クッキー&クリームを取り出す。もうひとつはストロベリーか。これも取り出す。結局、サチと半分ずつ食べた。どっちも美味しかった。
「同じアイス食べたから、ミナに熱うつっちゃうかな?」
「さあね。私は前に一回カゼひいたから、もう耐性ができてるんじゃないの」
「そっか、そうだといいね」
「はいはい、今度こそ寝なよね」
私は布団をぽんぽん叩いた。赤ちゃん扱いだ。サチは特に何も言わずに、もうウトウトしている。かわいいなあって自然に思える。サチは得な顔だ。かわいがられる、許される顔だ。輪郭もなんか柔らかくて幼いし、肌もきれいだ。間近の鑑賞に耐え得る。
ううん、そうじゃないや、私がサチを見ていたいのだ。
恋じゃなくて、子供をかわいがる母親みたいな心境になった。まあ、子供いないからわかんないけど、たぶん親って子供をこんな風に思っている。とにかく愛、愛だ。強く愛を感じたのだ。
見ていたい、抱きしめたい、キスがしたい、見せびらかしたい、独り占めしたい、言葉を交わしたい、近くにいたい。
愛は異性にのみ使われる言葉じゃないんだ。それどころか私は、思春期の、いわゆる青春とか情熱とかごちゃまぜの暑苦しい愛情は、異性にだって持ったことがない。それ以前の恋だってまだ使ったことがないんだ。
サチに対する愛はめちゃめちゃだ。私はいったいどのようにサチを愛したいのか?
恋人のように?私には逞しい胸も男根もないのに。
母親のように?私はサチを生んでいない。
姉妹のように?ぜんぜん違う。
友人のように?これを一番最初に思うべきだ。しかし、思わなかったのだからやはり違うのだろう。
友人みたいに、打ち解けるのは、望ましくない。友人は、サチには幾らでもいるだろう。もっと近しくなりたい。真っ先に私を頼りにしてほしい。あらゆる場面で一番に思い浮かべてほしい……
彼女の愛や視線や言葉ならなんでも欲しい。どんな愛でもいいよ、でも一番で、一番に欲しい。
愛は『愛』という言葉ではぜんぜん足りない。友愛、情愛、慈愛、親愛、恋愛……これだけ並べたって足りない。
私ははたして正しく教育されただろうか。機械的な言葉だが、情操教育という言葉がある。感情とか愛とか性とか学ぶことだ。その教育ならば、私はきっぱりと受けていないと言い切れる。
今までその無知のおかげで出せなかった愛を出そうとして、今、頭の中で暴発してるんだ。このこんがらがる愛の、愛したがる私の、どれで愛したら正しいのだろう。どれで愛したら受け入れてもらえるだろう。
サチの指に自分の指を絡めてみた。
『どうして男の人は、セックスしたがるの?』
あの日のサチの声、思い出した。
『からだが繋ぎたければ、こうして手だって繋げる』
では、サチにとってこうして指を絡めることはセックスだろうか?私はドキドキした。恥ずかしいことに、指がふるえていた。まだ少し熱い体温が、私の先端に伝わることが、それだけのことが、ひどく官能的に感じる。
「ん……」
サチの睫毛が揺れた。私ははっとしたけれど、指を離すことは思いつかなかった。彼女の、目の焦点が私に結ばれた。
「ミナ、まだ起きてたの……?」
かすれた声。
「うん」
「ずっと、看病してくれてたんだ。ありがと」
視線はまっすぐ。私はなんとなく目を逸らす。
「別にいいよ。具合は?」
「もう平気」
「まだ熱いよ」
「でも、学校行かなくちゃ」
「一日くらい休みなよ」
「やだ。学校好きだもん」
彼女の額に手を乗せる。やっぱりまだ熱い。
「ミナ、手が冷たい」
「あんたが熱いの」
「ううん、それもあるけど、きっと今日寒いから、だから冷えちゃったんだ」
まだ起きたばっかりの、舌の回らない甘えた口調でサチが言った。そして、もともと繋いでいた手の、もう片方も私の指に触れた。
「こんなに冷えてる」
サチの両手に包まれる私の手。見ていたら、ひどく喉が渇いて、唾を飲み込んだ。サチが私の指を口に含んで舐めまわすのではないかという気持ちさえした。下品な妄想だ。だって、触れた指先は熱いし、頬は上気しているし、目にたっぷり水分を含んでいる――セックスのときの顔に似ている。
「このベッド、ダブルでしょ」
声を掛けられて、夢から覚めたみたいになった。
「あ……うん」
「ミナも、一緒に寝ようよ。まだ時間あるよ」
「やだ、カゼっぴきの隣なんて」
「今さら」
サチはぐいぐい私を引っ張った。本当は特に反発する理由もなかったから、ずるずる引きずられていく。結局、サチの隣に収まった。布団はおそろしく温かい。逆にサチは私のからだが冷えていたのか、わずかに身震いをした。
「寒い?」
「大丈夫。もうあったまった」
そうして、私の腕をギュッと抱きしめた。あんまり抱き込むものだから、胸に触れる。鼓動が伝わる。病気のせいか、少し早い。私の鼓動も聞こえているだろうか。それは早くはないだろうか。
「サチ」
「なに?」
「私、だめだ……セックスがしたいよ。手を繋ぐだけなんて嫌だ。もっと全身を繋ぎたいよ」
「なに、言ってるの?」
サチは赤い顔をもっと赤くして、私の肩のあたりに顔を埋めた。
「ミナはエロなんだ……」
サチはまさか、私の対象が自分であるとは夢にも思わないだろう。私は、今とりあえずこの場では、男でなくて良かった。男であれば、手酷いことをしてしまっていただろう。
「あんたは前に言ってたね。手を繋ぐだけでもからだを繋ぐことだって」
「うん」
「今も、変わらない気持ち?」
「……やだ……聞かないで」
「どうして?」
「……わたし変なんだ。セックスくらい、当たり前だって頭ではわかるのに、ぜんぜん、よろしいと思えない。辛いばっかり……変……だよね」
「相手がへたなんだよ」
「そうかな……」
「そうだよ」
私は男のからだを持たないことが急に悔しくなった。私が男ならば、心からサチを満足させることができるはずだ。逆でもいい。サチが男でも、私はサチを満足させられたはずだ。
セックスがしたいよ!サチと、得も言われぬような、グッと官能的な、とびきり愛に満ちた、情熱的なセックスがしたいよ!
私は思うままサチにキスをした。そして突然、雷に打たれたみたいな気持ちになって、離れた。
サチは、驚いた顔でこっちを見てる。
「驚いた?」
なんとか、悪ふざけで通そうとする。
「すごく……」
サチは口許に手をやった。
だめだだめだだめだ。やっぱり、サチとセックスはしたらだめだ!
私は前に、サチの友人は嫌だと思った。サチには友人はたくさんいるからだ。そして私には友人はいないが、セックスする人は何人かいる。だめだ、セックスしたら、サチがそいつらと同列になっちゃう!それはいけない、いけないことだ。
本来、セックスは好きな人とするものだという道徳が今さら染みる。私は、どうして大切な行為を軽々しくやってきたの?
「ねえ、寝ようよ」
眠たそうなサチの声に、私は寝る覚悟を決める。もう少し、落ち着いて考えてみよう。愛をどうするの?そんな哲学はとりあえず置いておこう。
サチが隣にいるのに、例の夢を見た。背中に『L』と彫られる夢。でも、サチが触れたら、そいつは砂みたいにバラバラになっちゃった。きっともう、この夢は見ない。
その日、サチは結局大学に行かなかった。体調がよろしくないんじゃ、勉強もはかどらないよ、という私の説得に耳を貸してくれた結果だ。昼には鍋の残りで作った雑炊を食べて、薬をのんだ。
のんびりした午後は、モーツァルトでも聴きたい気分だ。サチの髪を梳きながら、私は例のことを尋ねた。
「どうしてあの時セーラーを着てたの?」
「セーラー?」
「ごまかさないでね」
「だって……」
サチは顎まで毛布に埋まった。イモムシみたい。
「あのね、話、長くなるよ」
「構わない」
サチは一回息を吐いて、それで覚悟を決めたようにキッと私を見た。唇が動き出す。……
「わたし、最近、両親をなくしたの。事故でね」
「……!」
私は、突然告げられた悲劇になにも返せなかったが、サチは更に言葉を紡ぐ。
「でね、わたしけっこうなお嬢様大学に通ってるの。パパ、医者でね。年収はそこそこあったんだと思う」
「うん」
「でも、お人好しだった。借金の保証人なんかになって、それでね……わたし、二人が死んでから知ったんだけど」
「うん」
「パパが保証人になった人、どっかに逃げちゃったんだって。葬式会場にさ、借金取りが来たんだよ。それでね、わたしの家、なくなっちゃった」
「そう……なんだ」
「そうなの。でも、おかげで借金はなくなったんだよ!貯えはないけど……それでね、さっきも言ったけど、わたしお嬢様大学に通ってるの。学費……払えなくなっちゃって。キャバクラじゃ足りなくって。それで……」
「風俗?」
「……それはしてないって前に言った」
「じゃあ、何よ」
「援交……してる。社長に儲かる店も聞いたんだけど、そっちのほうが儲かるって聞いて……セーラー着てたのは、女子高生って言ったほうが高く売れるから」
サチはぽそぽそ喋ったので、上手く聞き取れなかった。でも二度は聞けない。きっと、辛いことを言った。私は、泣くまいと必死にうつむいていた。こんなに腹が立って悔しくって、けれど怒るよりも悲しいのは初めてだった。
「だめだよ」
私はサチの手を取った。
「私のお金、全部あげるから、そんなことしたらだめ。店に戻りなよ」
「ううん。わたし、すごく甘ったれだから、きっとこれはいいチャンスなんだと思う。きちんと自分で暮らしていけるようになるチャンス」
「なに言ってんのよ……あんたまだ学生じゃない……」
痛々しくて、絵空事みたいで、見ていられない。世の中のよの字も知らない顔して、社会はおままごと程度の経験しかないような顔して。それでいいんだ。まだ、世間の荒波なんて大層なものに呑まれるのは早すぎる。
「私のパパに頼んであげる。パパ、お金持ちなんだよ」
「ミナのパパに借金するの?」
結局同じことじゃない、ってサチは言った。私はかぶりを振る。
「でも、いやなんだ!あんたがそういうことするの、わたし耐えられない!」
「どうしたの?」
サチは私に手を伸ばした。
「どうして、ミナが傷ついた顔するの?私は、痛くなんてないし、大したことないんだ。自分のためだもの。いやらしいってことはわかってるけど……」
「私……」
頬に添えられた手を取った。私、手、ふるえてる。
「私……わかんないよ。わかんない……でも、なんかいやだ。サチがそういうことするの。だったら、私がやったほうがいい……」
「どうして……?」
「どうしてって聞かないで。わかんないの……」
わかんないよ、わかんない。私はどうしてこんなに苦しいんだ。なんでこんなにいやなんだ。サチが寝ているベッドに顔を埋めた。頭を撫でられた。それから先は、別になにも喋らなかった。サチは熱のせいでまた眠ったみたい。ときどき、寝返りをうって布団をはぐのを直したりしていた。
熱、もう落ち着いたみたいだけど、晩ご飯も、なにか消化の良いものがいいよね。でも、料理ってあんまりしたことない。パソコンで料理の作り方を調べてみる。お粥が、いいのかなあ。梅干しねえ?……食べたこともないわ。漬物きらい。サチは好きかな。
こうしてみると、私はサチのこと、なんにも知らないんだって思う。おかしいな。なんだかとても違和感がある。私は、サチと赤ちゃんの頃からずっと一緒で、共にスクスク育って、お互いのことはたいてい知っていて、もちろん親友でなければならない、そんな気がするのに。
実際、私はサチのこと、ひとつも知らない。
パラレル・ワールドというものがあるらしい。今私が知っている世界とはまったく異なる世界。そこで、私たちは親友なのではないだろうか。
私たちは、もしかしたら男かもしれないし、生まれた時代もぜんぜん違っているのかもしれない。でも、きっと、ずっと一緒だ。
パソコンのデスクトップは青い海の写真。そこから、海が広がる。この広い広い海でまた、私たちは出会ったんだ。当然のように、太陽が昇るみたいに出会ったんだ。サチはこのこと、ちゃんとわかってるかな。
「お粥、つくったよ」
サチはもう起きていた。
「ありがとう!おいしそう!」
「梅干し好き?」
「うん」
「そっか。良かった」
サチがニコニコしているので、私も笑顔になる。
「これで、明日には治るね!」
「念のため、明日も休んだら……」
「ううん、平気平気。わたし、丈夫だけが取り柄だもん」
私はベッドに腰掛けて、サチに顔をぐっと近づける。
「あんた、明日も明後日も、うちにおいでよ」
「いいの?……それはすごくありがたいけど」
「いいの!この冬も、次の春も、夏も秋も、ずっといていいの」
「そんなに甘えてらんないよ……でも」
サチはちょっと笑って、私の額に額をくっつけた。熱、下がったみたい。目を閉じる。
「……ありがと。なんだかサチは、ずっと前からの友達みたい」
「当然じゃん」
サチも、同じことを思ってたんだ。やっぱり繋がってるのかな。
「ね、大好き」
「うん、わたしも」
こいつ、わかってんのかな。私は、大好きなんて言ったのはパパ以来なんだよ。大好きは、愛してるよりもずっと重たいんだよ。のんきに笑ってるけどさ。
わざわざ印刷したお粥のレシピ。これからたくさん知らなければならないサチのこと。私の、ノーマルではない思い。
――苦しい恋になる。予感がある。けれど、止められないんだ。未来のことはわからないと言うけれど、私はサチのこと、未来にも好きなはずだ。
きっと離れても、街の雑踏の中にも、空の上にも、音楽を聴いていても、子供でも大人でも男でも女でも、必ずサチを見つけるだろう。
淋しい熱帯魚は、泣いても涙は見えない。そうだ、泣くなんて馬鹿らしい。毅然と前を向いていこう。おかしくないんだって胸を張ろう。恋は始まったばかりなんだ。