山のなか
走って走って走って、息が切れて脇腹が痛くなって吐きそうになって。それでも走り続けて気がつけば山の麓だった。さっきあの人が住んでいると言ってさしたあの山。
(どうしよう)
どこかでゆっくり考えたい
違う、なにも考えたくない
この山を登って あの人にあって
熊にあうかも いっそ死んで………
ふらふらと山の中へ入り込む。道がわからない、捜す気力もない。だから、草をかき分けて、明かりもない薄暗がりの中を進む。
あの葉巻を、お守りのように握りしめて。
火をつけろと言われたけど、マッチもライターも持っていない。それに、まだ秋じゃない。春だ。
“吾郎”と呼ぶべきか、呼ばざるべきか。
誰にも会いたくないけど、一人は心細い。
いつの間にかずいぶんと入り込んだらしく、町の明かりも見えない。
(もう、帰れないかなぁ)
がさっ がさがさっ
草木をかき分ける音がする。
(まさか)
ぬっと目の前に現れたのは、熊だった。
「ひうっ」
私は固まった。相手も一瞬固まったようだったが、すぐに後ろ足で立ち上がり大きく長く吠えだした。
があああああああああぁぁぁぁう
その後どうなったのかは、覚えていない。 私は気を失ってしまったから。
「…ぃ、おい、大丈夫か?」
気がつくとあの人の顔が目の前にあった。その横には、真っ黒な熊の顔が。
「ぅ、ぁ、く、くま」
「あんた、何で俺の言った通りにしねぇんだよ。葉巻に火ぃつけて“吾郎”って呼べって言ったろう? そもそも気が早すぎるってぇの、一日もたってねぇしよぉ」
「う、ご、ごめんなさい」
「謝るんならこいつに謝ってくれ。かわいそうにすっかりびびっちまって」
そう言って指さしたのは隣の熊。
「あ、ごめんなさい」
「吾郎、許してやってくれるか?」
ぐゎう
「気にすんなってよ。お互い様だと」
「ぇ、あの、吾郎って…」
「こいつの名前」
「あ、私てっきりあなたの名前だと…」
「俺の名前なんざどうでもいいだろう? この山には人間なんて俺しかいねぇんだから」
「はぁ…」
「さて、そんじゃ行くか」
立ち上がって歩き出す。その横に吾郎が付き従う。
(私、どうしたらいいんだろう)
帰れと言うことだろうか。でも、道が……。
「早く来い、なにのろのろしてんだ」
「え?」
「来ちまったもんはしょうがねぇ、明日送っていくから今夜はうちにいろ」
「あ、はい……、あの、なんて呼べば…」
「何でも、好きなように呼べよ。あんたでも、おまえでも、おっさんでも」
「で、でも」
「ああ、もう………かなた、彼方だよ。これでいいだろ」
「彼方さん…。私は紅葉です」
「そうかそうか、じゃあ行くぞ」
ずんずんと歩いていくその後ろ姿は、心なしか照れているようだった。




