夢の国から永遠に
「本当に、ここで良かったのか?ほら、せっかくだから、ネズミのランドとか…」
ペンキが剥げ、ところどころ錆びた鉄柵に、申し訳程度の「立ち入り禁止」の表示。
「…それも楽しそうだけど、やっぱりここがいいの」
妹の夏那はそう言うと、かつて入場口だったゲートを指差した。
「さあ、入ろう、お兄ちゃん」
裏野ドリームランド、僕と夏那が歩くこの遊園地は昭和の頃から存在した古い施設で、地元の子供たちは必ず一度は行ったことがあるという、そんな場所だった。しかし、少し大きくなった子供たちは、昭和の記録フィルムから抜け出してきたようなその雰囲気や、田舎町のさらに郊外にあるという不便さを嫌がるようになり、さらには娯楽の多様化という時代の流れもあり、この時代から取り残された古臭い遊園地のことを気にかけることは無くなっていく。
僕が閉園を知ったのも、随分経ってからのことだった。
「暑いな、夏那」
8月の午後の強い日差しと湿気の中で、僕は呟く。
白いワンピースを着て、大きな帽子をかぶった妹の夏那が、微笑みを浮かべて言う。
「大丈夫だよ、お兄ちゃん。今日はゾゾーっとして、怖い怖〜い体験が待っている、はずだから」
僕はポケットからスマホを取り出し、ブラウザを起動させる。圏外でない事に少し驚く。
『裏野ドリームランドの7不思議!廃園した遊園地に潜む怪異!』
それは他愛もない都市伝説の類で、僕1人なら気にもかけなかっただろう。しかし…
「『死のジェットコースター』にする?それとも『光るメリーゴーランド』はどうかな?でもでも、『地下拷問室」も捨てがたい…」
僕の手の中のスマホを覗き込み、勝手に操作しながら、楽しそうに夏那が言う。
「なかなかいい趣味だな、夏那…」
僕がそう言うと、夏那は口を尖らせた。
「だって、やっとあの退屈な病室から出られたんだもん、はしゃぎたくもなるよ。とりあえず、歩いてみようよ…」
白い天井、白い壁。リノリウムの床と白いパイプのベッドが夏那の世界の大半だった。体調が良くなると家に帰り、悪くなってはまた入院する。傍らにはいつも本があり、仕事が忙しくてあまり見舞いに来られない父が買い与えた液晶タブレットがあった。僕が見舞いに行くと、夏那が見聞きしたもの、特に怖い話や不思議な話について夢中になって話し、そういうのはあまり得意でない僕が戸惑いながらも相槌を打つ、というのがお決まりの光景だった。
「どこに向かっているの、夏那?」
「ふふっ、良いところ」
夏那は僕の手を掴み、ずんずんと歩を進めて行く。
「場所が変わっても、ほら、病室が遊園地になっても、僕たちあまり変わらないね」
僕がそう言うと、夏那がキョトンとした表情で立ち止まる。
「ん?どういうこと?私は今とても楽しいけど」
「なら良かった。…なんか、いつも夏那が僕を引っ張って行くというか、そんな感じで、僕は…」
言いかけた言葉を押し戻すように、夏那の指先が僕の唇を塞ぐ。
「しーっ、…辛気臭いのは無しよ。いいじゃない、頼り無いお兄ちゃんでも」
そう言うと、また僕の手を取り、歩き出す。
「でも、お兄ちゃんが変わりたいというなら、これから行くところは、ピッタリかも」
心なしか、夏那の手に力が入ったような気がした。
「『魔のミラーハウス!戻って来た彼は、まるで別人のように!』…っていうのがコレみたい」
おそらく、この遊園地におけるお化け屋敷的な存在だったのだろう。建物全体が黒っぽく、おどろおどろしい雰囲気をまとっている。
「あそこから入れそう」
夏那の視線の先に、入り口があった。営業していた頃は係の人が入場の管理をしていたらしき名残があり、現在では中への進入を妨げるものは何も無かった。
「行こう、お兄ちゃん。…って、もしかして、怖いの?」
「べ、別に…ただ、ちょっと不気味ではあるかな」
建物のまわりを蔦が覆っている。入り口付近の床はところどころ壊れ、そこから雑草が飛び出している。
「ボーボーで、元気だこと。まるで朝のお兄ちゃんみたい」
夏那が、上目遣いで僕を見つめる。
「ば、馬鹿っ、何言ってるんだよ…」
夏那はクスッと笑い、目を細めたまま言った。
「寝ぐせ、髪の毛のことだよ、お兄ちゃん?何のことだと思ったの…」
照明などもちろん機能しておらず、僕はスマホのアプリで足元を照らしながら、慎重に進む。
「ち、ちょっと、夏那。くっつきすぎ…」
「だって、暗いし、足元が…」
夏那は僕の片腕を掴み、身体をすり寄せるように密着している。確かにこのミラーハウスの内部は、少し危険かもしれない。ところどころで鏡が壁から脱落していて、その破片が床に散乱している。
「しょうがないな、ほら」
そう言って僕が腰をかがめると、夏那が首をかしげる。
「えっと、何?いきなりしゃがみこんで」
「おぶってやるよ、足元が危ないし…」
かかとの高いサンダルが、割れた鏡をシャリシャリと鳴らす。
「ちょ、私、子供じゃないんだよ!?もう15歳だし…」
明かりを当てると、夏那の顔が赤い。夏那のこういう表情は珍しく、僕は少し愉快になって続けた。
「いくつになっても、お前は僕の妹に変わりないだろ?…それに、本当に怪我するかもしれないし」
「もう、しょうがないお兄ちゃん…」
渋々、といった感じで夏那が身体を預けてくる。手足がすらっとしていて決して小柄ではない夏那の、意外な軽さに少し戸惑う。
「重くない?お兄ちゃん」
「ああ、平気だ。…大丈夫」
太ももを抱え、腰を入れて持ち上げると、僕の首筋を抱え込む夏那の手にギュッと力がこもる。
「軽いけど、胸はけっこうあるんだよ」
背中に柔らかなものが触れ、僕は少しうろたえる。
「ば、馬鹿っ…そんなことよりこれ…」
照明代わりのスマホを夏那に手渡し、その光を頼りに暗い廊下を奥へと進む。
不意に、広い場所に出る。夏那がぐるりとスマホで照らすと、そこは壁が無数の鏡で覆われた小さな部屋だった。ところどころ鏡が剥がれているのは通路と同じだが、ある程度の広さがあるために足元は比較的安全のようだ。
「とりあえず、降ろすよ、夏那」
僕は腰を落とし、夏那の足が床に届くようしゃがみこんだ。だが、反応が無い。僕は振り向いて夏那の様子を確かめようとする。
「夏那?どうかした…?」
振り向きざまに僕の顔に柔らかいものが押し当てられ、言葉はそこで遮られた。夏那が、僕の頭を抱えこんでいる。
「んん、んー」
僕は息苦しさを感じ、顔の角度を変える。口元に空気が触れるのを感じると、夏那に向けて言葉を吐いた。
「な、何だよ、いきなり」
「胸をね、押し付けてるんだよ、お兄ちゃん」
僕の顔を挟み込むように押し付けながら、夏那がいたずらっぽく言う。
「お返しだよ、お兄ちゃん。よくも私を子供扱いしたね」
「お、お前なあ…」
夏那の手が僕の頭に触れる。
「…ふふっ、冗談だよ。それにしても、この部屋は…」
夏那の腕から解放され、僕はゆっくりと周囲を見渡す。四方の壁が鏡で覆われており、鏡同士が写し合うことで万華鏡の中にいるような奇妙な感覚を覚えさせる。
「合わせ鏡はね、悪魔を呼び出すの。縁起でもない部屋ね」
夏那が部屋の中を散策しながら呟く。以前は何らかの仕掛けがあったのだろう。だが、それらをすべて失ったぼろぼろの小部屋が、かえって予期せぬ不吉な出来事を連想させ、僕は居心地の悪さを感じた。
「夏那、あまり離れるなよ…?」
入り口付近にいる僕とは対照的に、夏那は部屋の一番奥に居た。ほんの数メートル先だが、唯一の照明であるスマホを彼女が持っているため、僕の周囲は真っ暗だった。
「夏那、おーい」
呼びかけるが返事がない。
「おい、冗談はよせよ、夏那…」
手さぐりで何とか夏那に近づこうとする。足元を探りながら一歩一歩慎重に…そしてようやく指先が触れた瞬間、不意に夏那が声をあげる。
「お、にいちゃん…」
呻くような声。
「夏那、どうした?」
その尋常ではない様子に肝を冷やしつつも、それを振り切るように、勢いよく夏那の顔を覗き込む。
「夏那、うあああああああ!」
目にしたのは、血に染まりどす黒く変色した顔だった。
色褪せたプラスティックのコーヒーカップ、かつては人を乗せてグルグルと回っていたそれに腰掛けて、僕は弾む息を整えていた。太陽に熱せられて、触れるもの全てが熱かった。
「ご、ごめんってば、お兄ちゃん」
妹の夏那は座らず、僕の周りをうろうろとしながら、僕の様子を気にしている。
「べ、別に怒ってはいないけど…」
カップの中央にはハンドルがあり、その上には血まみれの生首がちょこんと置いてある。
「あんな暗がりで、コレは驚いたかな。まだ心臓がバクバクいってるよ」
陽の光の中ではむしろ滑稽にさえ見える作り物の生首。僕はこいつのせいで鏡の部屋からの逃避行を余儀なくされたのだった。
「こんなに驚くとは思わなかったから…ちょっと待って」
夏那はそう言いながら身をかがめ、僕の頰に自分の頰を重ねてきた。
「ちょ、夏那…?」
「静かに…こうすると、すごく落ち着くんだよ」
夏那が僕の背中にそっと手を回す。妹と抱き合うような格好で、真夏の空の下、僕はある冬の日のことを思い出していた。
〈数年前の冬の日〉
週末、あるいは冬休みだったのだろうか?その区別が曖昧なのは、多忙な父が家に居ないことはいつも通りだったからだ。僕たちはその時何歳くらいだったのだろう?すでに母はこの世におらず、妹と2人で過ごす時間が多かった。それに、これも珍しいことでは無かったが、その日も夏那が熱を出して寝込んでいた。
「大丈夫か、夏那?」
部屋のベッドに横たわる夏那に声をかける。
「うん、平気…だよ」
色白な夏那の顔が赤い。うっすらと潤んだ目が、虚ろに僕を見返す。
「今、父さんに連絡するから…あれ?」
『オカケニナッタデンワハ…』
僕は戸惑い、再度繰り返すが、結果は同じ。
「だ、大丈夫だからな、夏那…」
朝は平気だったのに夕方ごろになって熱が出る、というのはよくあることであり、その場合仕事中の父に連絡するのが僕の役目だった。いつもなら、連絡を受けて仕事を早目に切り上げた父が夏那の面倒を見るのだが、今日は父の電話につながらない。
「だ、大丈夫だよ、お兄ちゃんが何とかするから…」
内心僕は焦っていた。父に連絡すれば、あとは何とかなる。そう信じ込んでいた僕は、それがうまくいかなかった時の事は思ってもみなかったため、軽いパニックを起こしていた。
「携帯がダメなら会社に…いや、それとも病院に…119番だっけ…救急車…」
受話器を手に落ち着きなく部屋をうろうろしていると、夏那がか細い声で言った。
「お兄ちゃん、ちょっとこっちに来てくれる?」
「ど、どうした、夏那」
急いで夏那の側に駆けつける。
「耳を貸して、お兄ちゃん」
言われるがままに顔と顔を近づける。すると突然、夏那が僕の頰に自分の頰を重ねてきた。
「夏那…?」
「お兄ちゃん、そんなに心配しないで」
「でも…」
熱のせいか、頰が熱い。
「ふふっ、お兄ちゃん、ひんやりする」
夏那の口の動きが、重ねた頰に伝わる。首すじにかかる息が熱い。
「救急車は、ちょっと大げさ、だと思う。おばさんに連絡して、それから…」
もっと強くならないと、と思った。
〈現在、8月の午後〉
「今日は、熱くないんだな」
頰を重ねたまま、僕は口を開く。
「うん、平気だよ。お兄ちゃんは?」
どれくらい時間がたったのだろう?気が付けば、呼吸が落ち着いている。
「ああ、大丈夫だ。…ありがとう」
「ふふっ、頼りないお兄ちゃん」
顔を離しながら、夏那が笑う。
「私を抱えて走り出した時は、驚いたけど、ふふふ」
火事場のクソ力とでもいうのだろうか?咄嗟に夏那を抱き上げて走っていた。どんなに必死だったのだろう?…考えると顔から火が出そうだった。
「1人で逃げればよかったかな?」
僕は苦し紛れに憎まれ口を叩く。だが夏那はそれを気に留める様子もなく、僕の手を引いて言った。
「さあ、まだ7不思議は残ってるよ。コンプするんだから…」
動かない乗り物、干上がった池。拷問部屋はどこにあるのだろう?だが、夏那は少しも退屈そうではなかった。
「なあ、夏那、その…面白いか?」
僕がそう言うと、夏那はピタリと歩を止めた。
「ふふっ、とても楽しいけど。お兄ちゃんは退屈?」
この何もない遊園地は、お世辞にも楽しい所とは言い難かったが、夏那といるのは楽しかった。ただそれをそのまま伝えるのは、さすがに気恥ずかしかった。
「いや、そういうわけじゃないんだ。ただ、書いてあったような不思議なことも特にないし」
「『怪異!走る高校生男子』が見れたけど、私は。『うあああああああ』とか言って」
「おいおい、蒸し返すなよ」
顔が熱くなるのを感じる。
「それは冗談として、お兄ちゃん。想像するんだよ」
夏那は少し得意げに言う。
「書いてあることを、私だって信じてるわけじゃないんだよ。でも、楽しいじゃない?普段目に映らない世界があって、そこで私は…私とお兄ちゃんは、どうするんだろうって想像するの」
それはきっと、あの無味乾燥な病室の中で、退屈の中で生まれた想像力なのだろう。
「今日は本当に楽しいよ、お兄ちゃん。少しも退屈なんてしてない」
〈その日の夕方〉
どれくらい歩き回っただろう?夏の午後の太陽はすっかり傾き、打ち捨てられた巨大な遊具の残骸、その間を抜けてオレンジ色の西日がぼろぼろの石畳に長い影を落としている。
「メリーゴーランドが光ってるように、…見えなくもない?」
夏那は眩しい太陽の光に、手でひさしを作る仕草をしながらそう言った。(帽子をかぶっているのに)
「『想像力』っていうか、こじつけっぽいような…」
「よし、これで5個目クリアだよ、お兄ちゃん」
彼女の中では、これで7不思議のうちの5個をクリアしたことになるようだ。そこに何もなかったとは、僕も思わないけれど。
「次は、お兄ちゃんの出番だよ」
どういうことだろう?突然の指名に戸惑う僕に、夏那が続けて言った。
「だって、約束したから」
7不思議の6個目、それは観覧車だった。
「『出して…』っていう小さい声が聞こえてくるらしいの、お兄ちゃん」
ところどころ塗装が剥げ、サビが目立つことを除けば、これといった特徴も無い観覧車。
「それがもし本当なら、僕はさっさと逃げたい気持ちだよ」
「あーっ、開き直った!お兄ちゃんのへたれ!」
「…で、僕の出番というのは?」
扉をこじ開けて中に入る?それとも鉄骨を登って、高い所に…
「多分、全然違うこと考えてると思うけど、お兄ちゃん」
僕の思考を遮ぎるように、夏那が顔を覗き込む。
「想像するの。そう、こんな夕暮れどきの観覧車…遠くまで見えるんだよ、あの上って…そして、出してっていう声が、観覧車の壁越しに、小さく…」
僕は不意に、ある事に思い当たる。ああ、聞こえるよ、夏那。だって、「出して」と言って泣いている小さな声、それは幼い頃の僕の声だったから…
〈10年前の夏、夕方〉
「出して、出してよ!」
観覧車が終わったら、1日が終わる。楽しい時間が終わってしまうのが寂しくて、僕は抵抗していた。
「こらっ、わがまま言わないの、お兄ちゃん。夏那を見なさい」
母は身を屈め、幼い僕と目を合わせる。夏那は父の膝の上で、窓の外に釘付けになっていた。
「すごい、とおくまでみえるよ」
「ああ、そうだな」
父が相槌を打つ。
「とおくてちっちゃい」
僕は、その楽しそうな姿に、さっきまでの意固地さなど忘れて、吸い寄せられて行った。
「あ、おにいちゃん、きたの?」
夏那の側で、僕も窓を覗き込む。
「うん…すごいきれいだな」
「うん、キラキラしてるの」
観覧車は頂上に達し、そしてゆっくり下がりだす。
「ああ、終わっちゃう、夏那」
僕はまた寂しくなっていた。
「ねえ、おにいちゃん?」
夏那が僕の服の裾を引っ張りながら言う。
「なに?夏那」
「またくるの!」
「うん、来よう」
もう4人で来る事は無いかもしれない、ぼくにはそれが何となく分かっていたけれど、それは口にはしなかった。
「やくそくだよ」
「うん」
約束、守れるかな?そう思った僕は、不安な表情を見せたのかもしれない。夏那が僕の手を取る。
「かながつれてくるから、ぜったいに!ゆびきり!」
指切りをする2人。父と母は、その時どんな顔をしていたのだろう?
〈現在、夕暮れ〉
「よーし、7不思議コンプ!王手!」
園の入り口近くの広場、朽ちかけた木のベンチに並んで座る。
「そんなにこだわるようなものかな、それ」
僕は素朴な疑問を投げかける。
「大事だよ。解釈次第ではウソじゃ無いって、作者自ら検証するのは」
一瞬理解が追い付かず、僕は聞き返す。
「作者自らって…?」
夏那は得意げに、身振りを交えて話す。
「『裏野ドリームランドの7不思議』は、私の創作だよ、お兄ちゃん。面白かった?」
正直、驚いていた。聡明だが病弱で、狭い世界でおとなしく生きてきた妹が、創作、それも現実を巻き込んだ都市伝説を発信し、それなりに読まれている。
「面白かったし、それにちょっと嬉しいかな」
「ふふーん、面白かった?そうでしょう、そうでしょう…」
ニヤニヤと、それでいてはにかんだような顔。それは初めて見る表情だった。
「けっこう楽しんでたんだな」
「辛いことだけじゃなかったよ」
日は暮れようとしていた。暴力的な暑さは鳴りを潜め、風が優しく頰を撫でる。
「…辛気臭いのは無しだよ、お兄ちゃん。7不思議の仕上げに入らなくちゃ」
夏那がゆっくりと立ち上がる。
「お兄ちゃん、今日は付き合ってくれてありがとう」
帽子を脱ぎ、ペコリと頭を下げる。
「よそよそしいよ、夏那」
「ううん、伝えたかったの。いつも一緒にいてくれてありがとうって」
「兄妹だから」
僕は必死に声を絞り出す。気を張っていないと…
そっと、夏那の顔が近づく。触れ合う頰と頰。
「お兄ちゃん、私、行かなくちゃ」
「分かってる、でも」
夏那の細い腰を抱き寄せる。離さない、絶対に…
「さよなら、お兄ちゃん」
抱き留めた腰の、合わせた胸の、そして触れ合う頰の感触が、少しの余韻だけを残して消えていく。頰を伝うのは、誰の涙だったのだろう…
〈夜の始まり〉
どれくらい時間が経ったのだろう?気が付けば辺りは暗く、蝉とカエルの鳴き声がする。帰ろう、終電が出る前に。何の感慨もなくただ現実的に、僕は僕の居場所に帰ろう。我を忘れて仕事に打ち込む父のように、そして…
突然、何者かが後ろから抱きつく。
「うあああああああ」
無人の廃墟に、絶叫が響く。
「やーい、引っかかった!」
その声の主は…
後ろから抱きつかれる感触。背中に柔らかいものが当たる。
「な、なあ、振り向いてもいいか?」
「ダメ、前を見て。前だけ。それに…これで本当に最後みたい」
「でもこれじゃ、お前が見えない」
「想像して」
「離れたくない」
僕はあの頃から何も変わっていなかった。楽しい時間の終わりが寂しくて、駄々をこねている子供。
「お兄ちゃんを1人ぼっちにはしないよ」
「だけど、お前は行くんだろう?」
情けない声を出す僕に、あやすような口調の夏那。
「目を閉じて、想像して。そうすれば、いつでもそこに私がいるから。…いてもいいよね?」
「当然だ、むしろお願いするよ」
「ふふっ、最後まで頼りないお兄ちゃん…」
気が付くと、僕はベンチに仰向けになっていた。ゆっくりと目を開ける。満天の星空、蝉とカエル。立ち上がってのびをする。
「さあ、行かなくちゃ、夏那」
お前のいない世界で、僕は…ぼくと夏那はどうするんだろう?それを一緒に見に行こう、夏那。
月の明かりを頼りに、僕は1人、出口へと向かった。