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となりのクマと

となりのクマと


 よくあることだ。バターを塗ったトーストは、塗った面から落下する。洗車したら雨が降る。バターじゃなくて安いマーガリンで、自動車じゃなくて自転車だけど(原動機付自転車ですらない)。

 ともあれ、だから、期待しすぎてはいけないのだ。


 私は、アパートの隣人の玄関にある呼び鈴を鳴らした。

 チリンチリン。

 二度の音で、はあい、とくぐもった声が返ってくる。

 ドアを開けて、「あっお隣さんだ。こんばんは」と隣人は声音をほころばせた。

 隣人は、頭に、デフォルメされたクマのぬいぐるみを被っている。自分の姿が外に出ているのが、耐えられないのだ、と以前聞いた。私は隣人を、ひそかにクマと呼んでいる。見たまま。

「今日はどうしたんですか? 散歩するには、暗すぎるけど」

 人に見られたがらないのに、クマは、外が明るいうちにしか散歩しない。普段は何か在宅仕事を受けているようだ。

 私は手元の籠を見せる。

「あの。これ。どうかなと思って」

「あっ、こないだおっしゃっていたアレですか?」

 待ってくださいねと、クマは部屋に引っ込んだ。ばたん、とドアは勝手に閉まり、私はしばらく、玄関先の門灯がじーじー鳴くのを聞いていた。そろそろLEDになったのではなかったのか。LEDも鳴くのか。

「ばーん!」

 クマが飛び出してきた。手には薄い透明袋。何枚切りか分からない、山型の食パンが入っている。キャベツの千切りやマヨネーズなども、別の透明なプラ容器に詰められていた。

「さあ行きましょう!」

 小さな懐中電灯の光で、輪っかを描いて歩いていく。目当ては、すぐ近くの公園。そろそろ、桜のつぼみが膨らんでいる。開花してしまえば、ここは昼夜なく人々が集まり、騒がしくなるはずだった。

 公園の桜の枝を見て回り、一輪、二輪、咲きかけたところを見つけて、持ってきたお茶やパンを食べる(クマの持参した物品は、無理矢理その場でサンドイッチにした)。

 あらかたお腹が膨れてから、私は籠を開けて、中身を取り出す。

 白い塊。小さなプロジェクターだ。これを使って、近くの建物の白い壁に映像を映す。残念ながら、思ったよりもぼやけてしまった。何が映っているのか、よく分からない。

 先日、クマと話していて、映写機に憧れていると聞いたから、すぐにできそうな、こんな遊びを思いついたのだけれど。

 がっかりされただろうか、と見やったら、素顔は見えないけれど、クマはにこにこしていた。

「えっ、あれっ? がっかりしてない?」

「してませんよ。これがっかりする流れだったんですか?」

「しない?」

「しないよ。何やっても楽しいから」

 楽しもうと思って誘ってくれたんでしょう、と、クマはにこにこと続ける。

「ああ、でも」

 ほら、来た。私は緊張する。さあ何が来る。後ろ向きに前向きなので、何が来ても大丈夫だ。

「ここで見るのも楽しいけれど。これだったら、うちで一緒に見るのもいいなあ」

 クマは、見た目は奇抜だけれど、やっぱりいいひとだ。

 期待や予測は良い方に舵を切られ、私はクマとともにアパートに帰る。

「ただいま」

「お帰り」

 二人で呟いて同じ部屋にあがる。別々の入り口から。

 このアパートには、玄関と勝手口が別にある。私は勝手口から、クマは玄関から。

 私たちは隣人であり、同居しているけれど、クマは昼間しか外へ出ず、私は夜ばかり外へ出る。

 私がクマの素顔を知らなくても、多分クマは私の素顔を知っている。

「大丈夫だよ」

 私のことを受け止める隣人、もしかしたら貴方は、

「大丈夫、考えすぎなくていい」

 クマの声は私自身にとても似ていることを、私は知っている。知っていることを、静かにねじ伏せる。


 クマが本当にいてもいなくても、私たちは隣人なのだ。


#ヘキライ 第66回お題「意表を突く」

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