かたつむり夫人
2017-02-18 の#ヘキライ 再録です。
第14回お題「北向き」用ですが、
人外注意です…
かたつむり夫人
とある町に、小さな家屋敷が何軒か並んでいた。中でも、大学というところでひとに物を教える男が住まう屋敷には、美しいけれど敷地から滅多に出かけない、家事仕事などしたこともない妻がいた。
妻はいつも日がな北向きの部屋で庭を見るか、庭に出て、葉っぱをむしって暮らしている。
家のものは揶揄して、彼女のことを北の方、と呼んでいた。
あるいはかたつむり夫人と。
あんな北向きの狭いお部屋、ジメジメして、かたつむりにはお似合いですわ。と、雇われた屋敷の使用人からはひどい言われようであったけれど、当人はあまり気にしていなかった。
夫は、北の方に対してたいそう優しかった。君はかたつむりなんかじゃない。あんなものとは違う。君は美しい、なめくじなんだよ。
かたつむりとなめくじの違いは持ち家があるかどうかなので、確かに、持ち家のない北の方は単なるなめくじである。
その後はいつまでも夫がネンキンの話をしてやかましいので、北の方は黙って畳のへりを這っている。
たまに、好物のきゃべつなるものを貰うと嬉しいけれど、なかなか夫には言い出せない。それでも夫は分かっているようで、頬を染めて、うん、うん、と呟きながら、晩酌しつつ、きゃべつを食む北の方をじっと見ている。
ところで最近、屋敷に書生が通ってくるようになった。はじめは住み込みを願い出たが主人に断られ、たびたび早朝からやってきては、口上を述べ、屋敷の手伝いをして、また帰って行く。主人のしている研究の手伝いをしたいというのが目的だという。なんでも妹がいて、これがかたつむりであるというから、書生は人間とかたつむりの眷属であるようだ。妹にネンキンが取りついているので、これを取ってやりたいのだという。
このことには、北の方も心を動かされた。山際の村で、延々と葉野菜をかじって暮らしていた親兄弟と別れ、屋敷神として屋敷の主人の妻となったけれど、妻として何ができるでもなし、少し気にしていたところである。
あの、もし。妹様がかたつむりであると伺いましたけれど。障子のかげから、書生にこっそり話しかけたところ、書生はきょろきょろしてから、ああ、と北の方を目に留めた。
妹の話となると、書生は大変よく喋った。それで、良い日を選んで、こっそりと妹を連れて来ましょうということになった。小さな籠に入れてしまえば、簡単に持ち運べる。かたつむりなので、場所は取らない。
そうして訪ねてきた年下のかたつむりと、北の方は面会した。北向きの部屋は、相変わらずじめじめとして、戸を締め切るとやたら暗い。
ひっそりと現れたかたつむりと、北の方は会釈をしあった。
なんということもない天気の話、かたつむりの兄の話、北の方の夫の話、好物の話、などなど。
日が暮れる頃に、書生がかたつむりを回収した。
また今度、と、かたつむりたちは言い交わした。
それから何度か、会うことを繰り返した。
北の方の、かたつむりであることを気に病んでいる話には、かたつむりは笑って取り合わなかった。
まあまあ奥方様。わたくしたちはかたつぶり夫人と呼ばれて昔はたいそう可愛がられたそうですわ。ですから、人間が羨ましがりこそすれ、逆はないのです。
そうかしら。
書生と妹かたつむりが帰った後、決まって、ぽっかりとした気持ちになった。
かたつむりのように殻がない北の方は、違和感やかなしみを殻の中に背負っては歩けない。腹に抱えて、のたりのたりと畳を這った。
そうかしら。そうなのかしら。私たち。
夫が、どうしたんだいと首を傾げる。お友達が来ていたのだけれど、と、北の方は言いさして、その場を回る。北の方の足跡を、夫の指が丁寧になぞる。
まぁあまり気に病まないことだよ。夫は優しく、北の方の背中を撫でる。北の方が軽く笑うと、本当に美しいねえ、と、夫は北の方に口づけをした。
さて、そうしていろいろな事どもがあったけれど、くるくると日を変えて暮らしていたある日のこと。
北の方が庭に出て紫陽花の大きな葉っぱを散策していたところ、さっとにわかに空がかげった。
北の方が顔を上げると、黒いものが飛び降りてくるところである。
悲鳴をあげる間も無く、北の方は空を飛んでいた。
立派なくちばしに掴まれて、北の方はようよう、相手を確かめた。相手は、黒くつやつやとした羽毛の、カラスである。
山をいくつか飛び越えて、カラスは水べりに北の方をそっとおろした。
泥だらけになりながら、北の方は地面を歩く。
どういうことでしょう、と問えば、カラスはお辞儀をして語り始めた。
いわく、ひとに頼まれて、北の方を攫ったことであると。
ひとに恨まれたことは今までにない。北の方は青ざめて、どなたに、とカラスに問うた。
それは言えないが、かたつむりに嫌気のさした連中だ、と、カラスは答えた。かたつむりはよく似ているから、他のかたつむりとすり替えてしまおうという輩もいるし。そうしたら、かたつむりと暮らしていたひとは、他へかたつむりを押しつけて、逃げられるだろう?
身近なかたつむりの顔を思い浮かべる。
書生の妹。我がままを言って書生を振り回してもいた、可愛らしいかたつむり。
もし、書生が、カラスに北の方を捨てさせて、奥方の地位に妹をつけたならば……。
大変。北の方は震えてしまった。あのかたつむりが、大変なことになってしまう、きっと、殻をむしられてしまう。あの子はかたつむりで、私はなめくじだから……私の代わりにするのならば、殻が邪魔になってしまう。けれど殻を失ったかたつむりが、長く生きられるものだろうか。
気の良い青年の顔を思い出しながら、北の方はカラスに言った。
私をここへ捨てるのは、もう、仕事は済んだでしょう。だったら、私に雇われてくださらない? 帰りの便を頼みたいの。
行きの用事は済ませたので、問題ない、と、カラスは柔軟に頷いた。
北の方が屋敷に帰ると、小さな籠にかたつむりが入れられていた。しくしくと泣いている。書生が、病の治らない妹を、安全なここに置いて、他の治療法を探しに旅立ったという。
まさか、まさか、奥方様に手出しをするなんて。それに、私、ひとのお妾になりたくなんて、ありません、いやです。
かたつむりがあんまり泣いて、全身が水分不足で縮みはじめたので、嘘でもなかろうと、いったんこの日は審議を中断し、眠ることとなった。
夫は念入りに妻の体を洗い、点検して、うん、やはりうちの妻がいちばん美しい、と、満足げに頷いた。
あのかたつむり、第二夫人にされたりは、するのではなくて?
北の方の質問は、夫に簡単に笑い飛ばされた。
君がいちばん、美しい。




