俳句少年 短歌少女
百人一首アンソロジー「さくやこのはな」参加作品です。
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〇四二(清原元輔)
契りきな かたみに袖を しぼりつつ 末の松山 波こさじとは
俳句少年 短歌少女
従兄弟が、しばらくうちに住むという。
「いいけど別に」
音質そこそこのヘッドフォンで耳を塞ぎながら言うと、
「こらっ! 敦、ちゃんと聞きなさいよ」
「母さんうるさい」
薄いグレーのブレザーを掴まれ、ヘッドフォンもむしり取られた。横暴な母親の後ろから、
「すまんなー! うちの親はこれから出張だし、こっちの方が学校に近いからって、朝っぱらから押しかけて」
「いーのよ順次くん。いーのよ」
敦は見上げる。順次は筋肉のたっぷりついた、壁みたいな従兄弟だった。目の前に立っているだけで、むわっ、とした匂いと熱を感じる。暑苦しい。
でも、悪気のない大声と言動は、まるで大型犬みたいで、別にきらいではない。
「ごめんな、敦」
「別に。それより部活は? 朝練あるんじゃないの」
「ある!」
叫んで、修学旅行みたいなサブバッグを敦の母親に預けてから、順次が外に出る。学校指定の鞄を通学用の自転車のカゴに突っ込んで、半身で振り返った。
「乗るか?」
「いい。朝練ないから歩いてく」
順次はそうか、と応えて、一気にペダルを踏み込んだ。自転車の踏み込みの、一歩が、重い、のが見ていてわかる。
猫の額みたいな狭い庭で、メジロが鳴く。枝の先、葉が茂った隙間から、ちらちらと姿が見えている。
深呼吸して、敦も、一歩を踏み出した。
授業と休み時間のサンドイッチを繰り返し(昼飯も挟んで)放課後になる。
敦はざわつく廊下をぼんやりと歩いた。上履きの底が、床の汚れ具合によって滑りやすかったり突っかかったりする。
旧校舎の廊下は、割れかけたプラスチックみたいな四角いパネルを敷き詰められていて、ひときわよく足が突っかかった。
軽音部と吹奏楽部の派手な音合わせに顔をしかめ、ヘッドフォンで耳を隠す。騒音を相殺する機能など、この安物にはついていないが、気持ちはずいぶん和らいだ。
がらっ、と音を立てて、引き戸を開ける。重たくてよくレールに引っかかるのだが、今日はうまく開けられた。
「よお! 敦」
分厚いレンズ越しに、先客がこっちを見た。机一台と棚が一つ。狭い室内に、パイプイスが三つ、スポンジのへたった丸イスが一つ。丸イスのスポンジはオレンジ色で、けれどかなりいたんで、ともすれば土まみれの大根にも見えた。
「ちわ」
と、敦は、こんにちはの最後だけ、申し訳程度に口に出した。先にいた先輩は、うむ、と頷いて、また手元の本に目を落とした。
敦も鞄から文庫本を取り出す。古びてはいるがあまりくたびれていない本。顧問がくれた、歳時記の簡易版だ。集まってくる男子生徒たちにときおり挨拶しながら、敦の目は歳時記を撫でていた。
俳句、を、読むのは好きだった。
特に入りたい部活もなく、文芸部はきゃっきゃした女子ばかりで気後れし、古文の教師にくずし字を読むならここがよいだろうと歴史研究会を紹介されて今に至る。
歴史研究会では喧々囂々、男子生徒が額をつきあわせて何か騒いでいるが、敦はあまり深く話したことはない。部活では、土日に泊まりがけで城跡にのぼったりすることがあるが、敦も気が向けば一緒にのぼった。話さないけれど、そういう生き物だと思われているらしくて、特にいじられたりもしない。たまに、イチ推しの何かを宣伝されるが(刀とか兜とか城主とか家系図とか)、適当に相槌を打っていれば勧誘だけで終わる。
はまっているものは、特にない。
去年の誕生日に父親にヘッドフォンを買ってもらうまでは、音楽もほとんど聞かなかった。ヘッドフォンがあっても、ほとんどは無音だ。
隙間からもれ聞こえる、外の風の音を聞きたい。言ったらものすごいかっこわるくて恥ずかしい気がして言えないけれど、でも、多分、順次や、歴史研究会の奴らは、否定はしないような気がした。
居心地のよさに甘えている。
部活時間が終わって、帰ろうとしたら、端末に着信があった。親からの連絡だ。迷子にならないように順次くんと一緒に帰ってきなさいよ。
順次が一人で自転車で行った学校だ、一人でうちに帰れて当たり前ではないのか。
そうは思ったけれど、逆らうのも面倒で、初日だけ順次に聞いてみよう、と、部活をやっている辺りに移動した。
校庭は夕日が眩しくて明るい。
水飲み場にたむろしていた運動部員たちをよけて、敦は校庭脇の通路を歩いていく。
「何部だったかな……」
覚えていない。高校は同じだが、クラスが同じになったことがないのだ。まったく分からない。
しばらくの間、さまよい歩いた。校舎裏まで行きかけたとき、もう一つある水飲み場の前で大きな声が聞こえてきた。
いわく、どこそこで出会って、気づかいに惚れたとか。あまりにも大きな独り言だ。いや。独り言かと思ったが違う、相手がいる。
叫んでいる男の巨体に、隠れかけた人。
男の方は見たことがある。順次だ。
もう一人は、知らない顔だった。
順次は告げる。出会ったときのこと、自分が一緒にいたいこと、丁寧に口にして。
「俺と付き合ってください!」
勢いよく叫んで、順次は頭を下げる。
すごい。
ここまでされて、女はこいつを振りにくいかもしれない。
敦は感心しながら、何とはなしに告白現場を見つめていた。
自分は傍観者、その、はずだった。
彼女の目が、ふとこちらに届く。
敦と一瞬、目が合って。
ふ、と、笑った。
柔らかな牡丹の花びらが、外側一枚、離れていくように。
「いいよ」
あっという間に彼女の視線は順次に戻る。
「いい、よ。君」
でもね、と、気を持たせる言い方で彼女は告げる。
「私の趣味に一度合わせてみて? たとえばこういう」
喉を軽くそらせて、彼女は。
「君をおきてあだし心を我がもたば末の松山波も越えなむ」
順次がぽかんとしている。
それはそうだろう。普段、日常で、聞く言葉ではなかった。
淳は、黙って後ずさった。
今の……短歌?
国語か何かで見たことがあるような……ないような。
「これにね、返すための歌をちょうだい。そうしたら、考える」
彼女はことさらにゆっくりと言う。
本をそれほど読まない、短歌など授業で触れる以外にないだろう順次に、これが分かるわけがなかった。これは遠回しなお断りの言葉なのかもしれない。
淳は見ていられなくて、その場を離れた。
順次は、まぁ、たぶんうまく帰ってくるだろう。
順次と一緒に帰らなかったせいで、母親をかわすのに難儀した。天ぷらのために大根をすりおろしていると、玄関が開閉して順次が帰ってきた。
見るからにしょげている。
母親が心配して話しかけるが、部活とかでうまくいかないことがあっただけですからと、順次は上手にかわしていた。
見ていたことは内緒なので、淳は軽く「元気出せよ」とだけ言う。順次は、おう、と明るく返してから、驚くほど強い目で淳を見やった。見ていたことがバレているのだろうか。淳は後ろめたくもあって、夕食後さっさと自室に駆け込むことにした。
が。
「淳、ちょっと相談なんだが!」
駆け込む途中で捕まった。順次に肩を掴まれて、淳はたたらを踏む。
「何、何だよ急に、」
怒られる……と思いながら振り向くと、順次が、泣きそうな顔で頭をさげるところだった。
「すまん、自分でやるべきだとは分かってる、でもどうやったらいいのか分からん! 助けてほしい」
「何を助けろっていうんだ、前時代的だな」
「頼む」
「お前のそういうはっきりしたとこが……」
躊躇わずに助けを求められる、そういうつよさが。苦手だと思うこともあれば、羨ましく思えることもある。
淳はドアを開けた。
「入れよ、何か分からないけど話だけ聞く」
経緯としては、淳がひっそり聞いていた、あの告白シーンのままだった。
立ち聞きに気づかれていなくて、良かったような。けれど、後ろめたい気持ちがもやもやして残って、気にさわる。
は、と、疲れたように順次が息を吐いた。
「それで、三好純さんは、短歌を、よむんだと……その趣味に、俺が答えないとならない。俺の国語の点数、普通なのは知ってるよな? お前は国語得意だろう、お前なら作れるよな?」
そうくるとは思いたくなかった。というか、あの女子は三好純というのか、と意識がそれるのを引き戻しながら、淳は机に突っ伏した。
「返歌とか無茶言うなよ。俺はそもそも作らないし。読むのだけだし、俳句しか……」
「似たようなものだろ!」
「似てるけど違う」
短歌の方が、幾分ウェットな気がするのだ。五七五と七七の間に横たわるものをうまく理解なんてできていない、けれど、淳にとっては、空に浮かぶ鳥と地面に沈む切削機くらいの違いがある。
そもそも順次は、最初に純の告げた言葉を正確には覚えていないようだが、……あれは、恋歌だ。
色恋が多い歌を、敦は、自分でよめるとは思えない。
「あーっ、どうしたらいいんだ? サッカーでも野球観戦でも一緒に出かけられるのに、何で短歌なんだ?」
何でと言われても淳も困る。
順次があんまりしょげているので、かわいそうな気持ちと面倒くさい気持ちが泥水みたいに入り混じって、ふいに沈殿した。
「……昔の、他の短歌の引用なら、できるかも」
めちゃくちゃに喜ばれたので、失敗しても許してくれと、かっこわるい言い訳を繰り返す羽目になった。
「何でこれなんだ?」
君をおきてあだし心を我がもたば 末の松山波も越えなむ
ネットで調べると、「君以外の人とくっつくなんて、高い場所の松に波がかかるくらいありえないよ」という意味らしい。
これを本歌として、「契りきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山波こさじとは」がある。こちらの方が、淳には馴染みがあった。小学生の頃、百人一首カルタを教師が子どもたちに使わせていたので。意味としては「離ればなれになっても、高い場所の松の上に波がかかるくらい、別れるなんてありえないよ」。
実際には、遠距離恋愛の彼女に振られた男が、歌で有名な父親(清少納言の父)に作ってもらって、彼女に贈った歌らしい。
波は松山にかかったし、二人は別れた後。
「やっぱり、断られてるんじゃないか」
適切な返しが思いつかない。
しばらくネットの海をただよってから、淳は布団に潜り込んだ。
「契りきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山波こさじとは」
翌朝、これで行け、と、順次に歌を授けた。
下手な小細工より、順次のまっすぐさが伝わるのではないだろうか。検索したらすぐ出てくるし。
ついていくつもりも、順次に頼まれることもなかった。ただ、たまたま昼休みに購買に寄った帰り、順次を見かけた。大きな体を、少しかがめるようにして、それから手を打って気合いを入れている。
昨日と同じ場所で、純と順次は待ち合わせていた。前と違う位置で、敦はこっそり覗き見る。いや、たまたま通りすがっただけなのだが。本当に。
順次の告白のやり直しを、純は黙って聞いている。
木々の隙間から、それが見えた。
純が視線を巡らせて、枝葉を見た。息を軽く吐いて、吸い込んで、それから、ふと、目が合った。
淳と。
純が、唇を吊り上げるようにして笑った。
「いいよ」
「そうだよなあ、俺なんか無理……」
早合点している順次の顔を覗き込んで、純が笑う。
「いいよ。私たち。付き合ってみよう」
喜びで飛び跳ねる高校生なんて、淳は久しぶりに見た。
それからは、休み時間も登下校も、順次と純は二人で並んで歩いていた。何が楽しいのか、たえずさざめくように笑いあっていて、まぁ、順次が報われたようなので良かったと淳は思う。
なぜあの短歌であったのか、分からないままなのが、少しだけトゲになって指先に残るようだったけれど。それもそのうち消えてしまう、軽い類のものだった。
ときおり、順次と純が家の近くを通り抜ける。一度家を通り過ぎ、純を送ってから引き返してくる律儀な順次とは、スーパーの夕方タイムセールに行かされたときに出くわした。
荷物は半分持ってもらって、ぼんやりと帰る。
順次は、小テストと純の話をする。部活の話、友達に借りた漫画の話。最近見た動画の話。純と、映画を観に行く話。
へえ、とか、ふうん、とか、良かったなとか、よその庭木の枝先を眺めながら相槌を打つ。
家に帰ると、自分の部屋で一人、ぽつぽつと、気になる短歌や俳句をノートの端に記録する。
乾いた俳句の音、肌に触れるような短歌の音。
部活で同級生たちに、地元の句会はどうか、とか、他校では句の選手権とかに出場しているらしいが交流試合とかやってはどうかとか、楽しげに誘われたけれど、気を遣わなくていいからとすべて断った。まだ、自分で、ぼんやりと親しんでみたかった。……自分が感じていることが的はずれだとか、そういうことを指摘されたらがっかりするかもしれないし。
がっかり?
淳は机に伏せたまま目を閉じる。うっかり眠ってしまい、深夜に起きて、水を飲んでいたら順次に出くわした。台所、低い声でぼそぼそと話をする。
近いようで遠い、お互いに敵ではないことを表明する会話、会話、会話。
その日は母親が、買い出しを淳に頼んできた。いつもより重たいものが多い。順次と二人で運ばないと難しそうだった。学校に着いてから指示を受けたので、やむなく順次に連絡を入れる。こまめな順次は、すぐにOKの返信を投げてきた。部活はそろそろある中間テストに向けて休みに入る。放課後に教室で待ち合わせた。
授業の後、教師に資料移動の手伝いをさせられて、少し遅くなってしまった。
敦はできるだけ走らないよう、けれどできるだけ急いで、順次のいる教室に向かう。
教室たちには数人の居残りがいて、女子も男子も、楽しげに喋っていた。中間テストに向けて単語帳をめくる奴はほとんどいない。
最後の教室に、順次がいた。机で突っ伏して寝ているようだ。
「悪い、遅くなっ、」
掛けようとした声が、途中で止まる。
順次の近く、女子が一人、順次のほうを向いて座っていた。
黒髪、振り向いた目が、まっすぐに敦を貫いた。
「あぁ、君が、敦くん」
「……順次の彼女さん、ですよね」
「純。順次くんから、ときどき聞いてるよ。俳句が好きな、家の手伝いとかもちゃんとする、しっかりした従兄弟くん」
あいつそんなこと言ったのか。
敦が無意識に眉間に力を入れていたのだろう、純が自分の眉間を指さして、そんな顔しないでよと微笑んだ。
「順次くん、敦くんのこと大事なんだよ」
「何かそれ変な感じがするんですけど」
「殴り合いの喧嘩とか、したことないでしょ? うちは兄がいるけど、ほんと加減しないから、ジャムの残りをどっちが多くパンに塗るかどうかですごくもめる。順次くんも敦くんも、そんなことしないんでしょ」
「そこまで激しいことはないですね」
ふうん、と、知ったように純が頷く。
「ねえ座ったら? 順次くん、私が迎えに来たときもう寝てたの。これだともうしばらく起きないんじゃないかな。朝練とかで意外と疲れてるんだと思う」
「順次が?」
順次は、すーすーと、静かに息を繰り返している。あれだけ大声で、あれだけ元気よく自転車を漕いで出かけ、部活に出て彼女と遊んで帰ってくる、力のあふれた順次が、疲れる?
「……まぁそうかも、しれませんね。俺んちに泊まってるけど、やっぱ、従兄弟んちでも、気は遣うんだろうな」
「他人行儀なんだね」
他人行儀?
何について言われたのか、分からなくて、敦は黙る。
しばらくの間、日差しが机を焼くだけで、何の変化も起こらなかった。
「ねぇ。音楽の方が、好きなんじゃないの? 部活とかじゃやらないんだ?」
淳のヘッドフォンを見やって、純が言った。
「俺、音感ないんで」
取り繕うのも面倒で、淳は音楽の成績を口に出す。純が目を丸くする。化粧気の少なく見える横顔だった。あれには手間がかかっているのだ……母親が放り出していた女性雑誌の表紙の文言から推測して、敦は理解している。
純が続ける。
「音楽、好きなのに?」
さすがに、無音のヘッドフォンをつけているとは言い出しづらい。音楽を聴いているていで答えを探す。
楽しいだけで部活を続けてる人もいるけれど、自分は、聞くのはそこそこ普通に楽しくても、それ以外の、何かしらの、理由がなかった。
音楽をやる理由がない。やらない理由ならたくさんあるのに。
ふうん、と彼女は指先で机をなぞる。
「俳句の、何がよかったの?」
「女々しくないから」
「音楽や短歌は女々しい?」
「うーん……」
傾いた日差しが、ゆっくりと教室の壁をなぞる。
順次は起きない。
ぼんやりとした順次の寝顔を見ていると、別に、黙っていなくてもいいような気がしてきた。
「俳句は、さ。中学校の教科書で見たんだけど。古池や蛙飛びこむ水の音。カエルが池に飛びこむだけなんだけど、それから池を見ると思い出す。耳の底に残ってるっていうか。あぁ、ほんとだなぁって思ったりする」
風景の、あれにも、これにも。かすかな旋律が残っている。
そんな気がする。
純がぽつりと声を落とした。
「そうなんだ……君ならよかったのに」
「え?」
「私が短歌を好きなのはね、耳に残るから。俳句より、胸の底をうがつ気がする。逢ひ見てののちの心にくらぶれば……」
言葉の選び方が、幾分奔放で、敦の思考がふわふわする。何を言われているのか、どう尋ねたら理解できるだろうか。
「あの……」
話そうとした敦から視線を振り切って、純は、机に伏せたままの彼氏の肩を叩いた。
「ねえ起きてよ、帰ろ!」
順次を揺さぶって、彼女は起こす。
絶対、起きてるし聞かれてる。敦はそう思うのに、順次は眠たそうに伸びをして、あれっ淳も来てたのか、と大きな声を出した。
逢ひ見てののちの心にくらぶれば 昔はものを思はざりけり
「参ったな……」
教科書に載った百人一首を、芯を出さないペン先でなぞる。純はあの後も、ときどき短歌を口に出して、順次と敦を翻弄した。
そのどれもが恋歌ばかりで、敦の、自分の知っている景色とは重ならない。
ペン先の銀色に、小さく、小さく、自分が映り込む。
眉根に皺を寄せた顔。
肺から息を吐き出して、机に突っ伏した。
何でこんなに、面倒くさいことばかりあるのだろう。
俺が適当だからか。順次が大らかすぎるのか。彼女が、少し変なんだろうか。
一人で考えるには、限界があった。
でも、順次に言うのも変な気がする。
部活は居心地がいいけれど、こんなことを相談するのは気がひける。
従兄弟の彼女が短歌で話しかけてくるとか。
「まぁ、いいか」
別に、敦は、純と無理に会話する必要はないのだ。彼女は順次の彼女であって、たまたま順次の従兄弟である敦に、日常会話を投げているだけ。
それで、いい。
俳句や短歌、詩の抜き書きの中から、純の呟いた短歌を消しゴムで消した。
中間テストが終わり、部活も翌日からということで、学生達はおおっぴらに遊んで帰ろうとざわついている。
賑やかな中、敦は歴史研究会の先輩に借りていた本を返そうとして、部室に向かっていた。(今回の試験範囲に出る歴史ネタの書かれた雑学本だったが、ほぼ出なかった。面白かったが)
移動途中、突然肩を掴まれる。
何事かと思って振り払うと、相手は順次だった。
ぎょっとして、敦は廊下の端に避ける。
「お前、どうしたんだよ、テスト失敗したのか? 名前間違えたとか」
「振られた」
「振られた……?」
青ざめた順次が、立ち上がって芸をしたのに餌ではなくて猟銃を投げられた熊みたいな顔をしている。
「振られた……!」
敦は壁際に追いつめられたまま、考える。
「振られたんだ……!」
何度も言わなくても、分かる。分からないのは、純があれほど順次を連れ歩いて、にやにやして見せびらかしていたのに、あっという間に素っ気なく振ってしまったことだ。あんなに熱烈な恋歌を引用したくせに。
「あぁ、でも、諦めきれないなあ。でも迷惑はかけたくない、でも、やっぱり好きなんだ……」
順次はぼろぼろと涙をこぼして、頭を抱える。
とりあえず人目を気にして、敦は、順次を空き教室に連れて行った。
順次の説明は要領を得ない。どうにかまとめると、「順次くんはいい人すぎるから別れたい」ということらしかった。
「悪い人じゃなくて、よかったな……」
他に言いようがあったのかもしれないが、敦はようやく、それだけを口に出した。
こんなに泣くほど、順次は純のことが好きなのだ。暑苦しくて重たい気持ち、でも、純は、あんなに楽しそうに、一緒にいたくせに。
……本当に?
「順次、」
言いかけたとき、後ろから軽い足音がした。
純が、いる。
「順次くん。返すね」
順次が落としていったのか、それともあげたものなのか、何かを入れた紙袋を、純がこちらに差し出した。
「ハンカチ。この間、一緒に買い物に行ったときに、急に泣いてごめんね。そのとき借りたハンカチを返すね」
じゃあ、と。泣いている順次の顔を見もしないで、純が紙袋を廊下に、直接置いて、背を翻す。
思わず、敦は彼女を追いかけた。
廊下の途中。敦は純を呼び止める。
知りたいことがあって、と、敦は聞く。ヘッドフォンは首に引っかけたまま。
「契りきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山波こさじとは」
順次に渡して、純への贈り物にした、歌。
「って順次が言ったのは、……あれで合ってた?」
「合ってたか、ってどういうこと?」
「何で、君をおきてあだし心を我がもたば末の松山波も越えなむ、だったのかなと思って。引っかかって」
ふと、純が笑った。
「やっぱり、あれは、敦くんだったんだ。順次くんに相談されたの?」
「相談は、された。絶対に思いを伝えたいって、すごい熱く語られたから、手伝っただけ」
「どのみちね、順次くんとは、見てるものが違いすぎると思ったから。もっと……出会う前に分かってもらえてたら、よかったのに」
気のないそぶりで、純が自分の指先を見ている。綺麗に整えられた爪。敦たちとは違う、磨かれた爪。柔らかな肩の稜線を、髪がゆっくりと撫でていく。
風、が、ある。
「何で、こんなことになったんだろうね」
あんまりにも、他人事みたいに、純が言うので。
「あんまりじゃないか」
思わず敦が口に出すと、純がぶたれたみたいに顔を歪めた。
それまでの、何もかも他人事みたいな顔つきが、一瞬で崩れてしまった。
身がすくんで、敦は動けない。
「あんまりって……それは、私の言いたいこと」
純が声を震わせる。
「歌を返したのは、順次くんじゃなかった」
「え、」
「知っていた、分かっていた、分かっていたけど、順次くんが優しかったから、つきあってしまった!」
あんまり大声だから、教室名のプレートがびりびりと小刻みに揺れた。
「貴方だったら良かったのに!」
純の、絶叫みたいな声は、喉で潰れた。強い光をたたえた目が、淳の視線とかち合った。
目が、焼け焦げそうで、ふわついた足が下がりかける。
「なんで私がそんなこと、言われなきゃならないの! 私は!」
「あの、」
聞けなかった、聞いてはいけない、だってそれは、
「私は……」
ぽろ、と、大粒の涙が純の頬を滑る。
こんなときどうしたらいいのか、淳は突っ立って、逃げ出せもしないで、聞いているしかなくて。
「順次くんは優しかった、すごく明るくて、私は、陰気な羽虫みたいな気持ちだった、すごく、みじめで」
純は、袖で、頬を浸した涙を拭う。
「私、ばかなのに、どうして勝手に、神格化するの。順次くんは優しかったよ、でも、順次くんは私を見てない……あぁでも、最初に私が、彼を見ていなかったから、同じことか」
それは低い、小さな囁きだった。ほとんど聞こえない、聞かないふりをしたってよかった、小さな、小さな声。
「私が好きなのは、ほかのひとだったのに」
敦は呆然と突っ立って、走り去る純を追えず、泣いたままの順次の元へも戻れなかった。
*
順次は元気よく部活に打ち込み、あまり変わった様子は見られない。ただ、敦の母親に頼まれて、敦と二人でキャベツやじゃがいもの買い出しをさせられると、何も喋らないことが多かった。
純とは、ときどき廊下ですれ違った。一瞬だけ鋭い眼差しで敦を射て、それからそっぽを向いて通り過ぎる。
このままなし崩しに「何もなかったこと」になると、何となく思っていた。
放課後、歴史研究会の前が賑やかだ。
時期はずれで、転入部員が出たという。
どんな歴史好きか、または運動部などで具合が悪くて、帰宅部になるのも届出が面倒なので幽霊部員になりに来たのか。
少し気になりながら、先輩の頭越しに、敦は見る。
知っている人だった。
「……何で?」
「いや、俺も考えたんだ。少しは、こういうのも楽しめるようになりたいって」
順次が照れ笑いをする。
「兼部だから、たまにしか来られないけど」
「いやでも、だって、」
順次の体の後ろに、もう一人、知っている人が立っている。
「何で?」
先輩が、「お、敦がそんなに驚くとこ初めて見たなあ」と楽しげに言う。
「部室が狭くなったなあ、敦少し端っこに寄れよ」
「えっ? でも何で、何で三好さんと、順次が?」
振った人間と振られた人間が、なぜ、示し合わせたように、ここにいるのだ。
「私は、先生に短歌をやりたいって言ったら、ここがいいんじゃないかと言われたので」
純が取り澄ました顔で、パイプイスに座る。
「よろしくお願いします、ね?」
うやむやにしきれなかったものが、うやむやなまま集まってきて、うまく処理しきれない。敦は静かに部室を出る。
先輩がにこにこして、敦を捕まえ、廃材でイスのようなものを作るのを手伝わせた。
彼女の本音は分からないが、あの歌の矛先がどこに向いていたのか、何となく分かりそうで、分かりたくなくて、敦は先輩に止められるまで、いくつもイスを作成し続けた。




