忘れる前に
出る、と曰く付きの会議室だった。配布資料を抱えて、最初に入室する。いたって普通の、十数人用の会議室だ。スムーズに資料を机に並べ終えた。
参加者を待つが、誰も来ない。
携帯端末から連絡も取れない。圏外でもないのに、SNSにも接続しない。
「どうしよう」
掠れた声を、聞いたようにドアが開いた。
会議の参加者ではなさそうな男性が、革製のジャケットの肩をすくめる。
「失礼、間違えました」
「あっ! 携帯端末をお借りしてもいいですか?」
「事情をお伺いしても?」
とっさに呼びとめて、経緯と部屋の噂を説明してしまったのは、さっきまで心細かったから。言ううちに、バカバカしいことで煩わせた恥ずかしさがこみあげてきた。
そんな、冗談半分だったのに、男性は、面白そうに笑みを浮かべる。
「なるほど、確かに、問題はあるようです」
「えっ何がです?」
「怪異が、なければよいですか?」
「何かいるんですか?」
「さて、どうしたものか」
何がいいかなと、気楽げに呟いて、男性は窓際を眺めやる。息を、吐いて。表情を改めると、
「かけまくもかしこきみおやよ」
言葉が、室内をぴりりと支配した。所々しか聞き取れない、一音ずつを長く読み上げる声は、知らず聞き惚れてしまう。語りかけるような、どこか遠いような。
やがて一節が終わると、男性が咳払いして、こちらに向いた。
「どうも、長く会議で待たされているうちに、なぜなのか忘れてしまって、待っている、ということだけが独り歩きを始めたようです。しばらくは解散しているでしょうが、たまには雑談で息抜きしないと、会議の参加者からまた溢れ出る」
「はあ」
よく分からないまま相づちを打つと、またドアが開いた。今度は、会議の参加者だった。さっきから、この部屋が見つからなくて、別の階を行ったり来たりしていたという。
はたと気づいて携帯端末を見やると、さっきまでなかったはずの、会議室の場所や開始時間の問い合わせ連絡がいくつも入っていた。
男性と目が合う。男性はにこりとして、
「いや、礼は結構ですから」
「えっ、あの、差し上げられるものはこれくらいしか」
会議用に持ち込んだ、未開封の飲料水を渡そうとしたが、
「全然来ないと思ったらこんなところで油を売って!」
廊下を歩いてきた誰かが、男性を引っ立てて連れ去ってしまった。
名前も分からない相手だったし、何があったのかも分からない。
ただ一つ、たぶん助けられたということだけは、きっと確かなことだった。
そのため、出来るだけ雑談を盛り上げることを心がけてしまった。
第六十回のお題「祝う」#Twitter300字ss @Tw300ss ……と思ったら長くなったので、別途公開します。




