第35話・失う恐怖
「こっちだ!」
課長が再び私の手を引っ張り、かろうじて炎の隙間に走り出そうとした時、ドーン!と二階の床が落ちてきて、二人の行く手を阻んだ。
『アン!急いで!』
「杏奈!早く出てこい!杏奈ぁ~!」
燃え盛る炎の音とは別に、外から微かにベッキーや拓海の叫び声が聞こえてくる。
「鶴崎の声か……公安も来ているのか。」
「ええ……」
「松浦、鶴崎とは付き合っているのか?」
「は、はい……」
河猪課長は、こんな時に何故そんな事を聞いてくるのだろう……
不思議に思っていると、課長は突然、階段脇の壁を叩き始めた。
「課長?!逃げないと!」
「確かこの辺りの筈なんだ!」
ドン!ドン!と数回壁を叩くと、パカッ!と壁が綺麗に開き、地下へ降りる階段が出てきた。
「松浦、ここを降りたらテイラー教授が作ったシェルターがある!そこなら火事もやり過ごせる筈だ!」
「分かりました!降りましょう!」
ふと、手を掴まれていた力が離れた。振り返ると、課長は階段を一歩も降りていない。
「課長……?」
「俺はどうやってでも脱出できる。だが、可愛い元部下は、無傷で恋人の元へ帰さなきゃな。」
「何を言っているのですか!この火の海は危険過ぎます!課長も一緒にシェルターへ逃げましょう!」
「上司らしい事をするのはこれが最後だ。お前はお前の正義を貫けよ。」
河猪課長は微笑みながら軽く手を挙げると、コートのフードを頭からすっぽりと被り、ダッ!と踵を返して業火の中へ飛び込んで行った!
「課長!課長!」
課長を呼ぶ私の声は燃え盛る炎の音に掻き消され、課長の背中が見えなくなっていった。
その間にも、次々と二階の床が崩れ落ちてくる。
私も逃げなきゃ!
「くっ!」
ダッシュで地下へ続く階段を降り、重厚な扉を開けてシェルターの中へ飛び込む!
「はぁ……助かった……」
内側から閉めた扉を背に、ずるずるとしゃがみ込んだ。
「課長……」
何て不条理なの……誰よりも正義感が強かった為に、悪への道を選んでしまうなんて……
私が課長の立場で、数々の圧力を受けたとすると、上手くかわせるかしら……出来ないかもしれない……犯罪に手を染めた課長を責める事が出来ない……かと言って、賛同も出来ない……
「私は私の正義を貫く……」
何が正しくて、何が間違っているのか、いつか私にもそんな壁にぶち当たる日がやってくるのかもしれない……その時私は自分の信念を貫く事が出来るのかしら……
いや、自分の信念よりも、常に最良の選択をすれば自ずと答えは出る筈……
シェルターの中へ入ってから、1時間位が経過した。シェルターの中はスマホが通じないので、外への連絡が出来ない。
「拓海、心配しているわよね……そろそろ外へ出ても大丈夫かしら……」
ゆっくりと立ち上がって、扉を開けてみる。
「うわっ!」
扉の隙間からドドッ!と黒い水が流れ込み、あっという間にシェルターの中は私の膝の高さまで水に浸かった。
「階段に水が貯まっていたのね……ってか、冷たいっ!」
私、絶対に水難の相が出ている気がするわ……
冷たい水から逃れるように階段を上ると、焼け落ちた瓦礫が途中を塞いでいた。助けを呼ぼうと息を吸い込んだ時、私を呼ぶ声が聞こえてきた。
「杏奈!杏奈!」
『ケン!もう諦めろ!お前の恋人は……』
『煩い!お互い絶対一人にしないって約束したんだ!必ず生きている!必ず連れて帰る!』
『ケン……』
拓海だ!拓海が探してくれている!
「私はここよ!無事よ!」
「……杏奈?杏奈の声が聞こえる!何処だ!」
「こっちよ!瓦礫の下にいるの!」
「杏奈!返事をしろ!」
段々と拓海の声が近付いてくる。
「ここに居るわ!」
「ここ?まさか地下か?!」
「そうよ!隠し地下室があったのよ!」
姿は見えないものの、すぐ近くで拓海の声が聞こえるようになった。
「すぐに助ける!待ってろ!」
ガラッ!ドサッ!
拓海が瓦礫を退かす音が聞こえる。
『俺達も手伝うよ!』
『頼む!』
更に数人が手伝ってくれたのか、急速に光が階段へ射し込んでくる。
そのうち、人がくぐり抜けられる隙間がうまれた。
「杏奈!手を伸ばせ!」
拓海が隙間から手を伸ばしてくる。
ガシッ!とお互いの腕を固く握りあい、不安定な瓦礫に足を掛けながら、地上へと這い出た。
「はぁ……やっと出られた……」
しゃがみ込んだまま盛大な溜め息をつくと、人目もはばからずガバッ!と拓海が力強く抱き締めてきた。
「杏奈!よかった……本当によかった……」
「く、苦しいわよ!それにみんなが見ているわ!」
「このくらい我慢しろよ……どれだけ心配させたと思ってるんだ……」
私の肩に顔を埋める拓海は微かに震えて、泣いているようだった。どれ程心配してくれていたかが、痛いほど伝わってくる。
「心配かけてごめんね……」
拓海の肩越しには、市警のみんなや学生達が安堵の表情を浮かべながら、暖かい目で私達を見ているのがわかった。ベッキーは涙声だ。
『アン……言葉にならないわ……』
『ベッキーにも、心配かけたわね。』
『本当よ……オイスターバーで奢ってもらわなきゃ、割りに合わないわ。』
『ふふ!私が居ない短時間で、ヘルシー嗜好になったのね!』
『今日はボーイフレンドに譲ってあげるから、安心して♪』
テイラー教授は救急車で運ばれ、予断を許さない状況らしい。市警のみんなには、たまたま地下室を見つけたから、そこへ逃げ込んだと説明した。
帰りは公安の小野さんが運転する車の後部座席へ、拓海と乗り込んだ。
アパルトメントまで送ってもらう車中、公安には河猪課長と出会った本当の事を説明する。その間拓海はずっと私の手を握って離さなかった。
アパルトメントの部屋へ入るとすぐに、拓海が抱き締めてきた。
「杏奈……本当によかった……」
「心配かけたわね……」
「炎で崩れ落ちていく家を見ながら、どれだけ自分の無力さを感じたか……燃え盛る炎の中に杏奈が取り残されていると考えただけで……杏奈を失うかもしれないと考えただけで、どれほどの恐怖を感じたか……」
安全な場所へ逃げ込んでいた私には計り知れない不安と恐怖が、拓海にはあったのだろう……
だけど、心配かけた事を申し訳なく思う反面、どうしても嬉しくも思う自分がいる。拓海が恐怖を感じてしまう程、私の事を大事に思っていてくれていたのが分かったからだ。
そう思うと、拓海を一層愛しく感じてくる。
「杏奈……」
「なぁに?」
「今日はずっと杏奈に触れていたい……」
「……うん。」
「俺から離れるな……ずっと傍にいろ……」
「離れないわ……ずっと拓海の傍にいるから……」
少し身体を離すと、どちらからともなく目を閉じて顔を傾ける。柔らかい唇が触れるとすぐに、お互いの存在を確めあうように、深く吐息を絡ませた……
「ん……」
いつ、何が起ころうとも悔いの無いように、拓海を愛していたい……今この時を大事にしたい……
拓海を求めるよう首に両手を回すと、そのままシャワールームへなだれ込んだ。
……ん……何時かしら……
シャワーを浴びてベッドルームで過ごした甘いひとときの火照りも冷めた頃、時間を確認しようと少し身体を起き上がらせる。
すると、後ろから拓海の腕が伸びてきて、私をシーツの間へ引き戻してきた。
「杏奈……駄目だ……俺から離れるな……」
「時間を確認するだけよ。」
「それでもだ……」
拓海の方へ顔を向けると、余裕のない性急なキスが落とされる。
「ん……もう……」
「もっとだ……もっと杏奈を感じたい……」
「もっとって、さっきも……んんっ!」
反論を許さないとばかりに深いキスで塞がれ、逃がさないとばかりに指を絡ませてシーツに縫い止められる……
「杏奈……杏奈……」
私の名前を呼び続ける切なさを含んだ声に、拓海の頭を掻き抱いて応える……
身体のラインをなぞるよう滑り落ちていく口付けは、止まることなく甘い刺激を与え続け、身体の奥から沸き上がる甘い疼きに溺れていく……
この夜、拓海は私の存在を確かめるよう、空が薄っすらと明るくなるまで、何度も何度も求め続けた……
「た~く~み~ぃ~!!」
甘く濃厚な一夜を過ごしたにも関わらず、翌朝、私の怒りは頂点に達している。
「ん?杏奈、なぁに♪」
「何はこっちのセリフよっ!!」
「悪い、悪い!手加減出来なかったんだ。」
拓海は、うつぶせのままベッドから動けない私を見て、終止苦笑いだ。
ってか、腰がだるくて起き上がれないなんて、人生初よっ!
「杏奈は今日も休みだろ?朝だけど、もう1ラウンド追加するか?」
「はぃ?!人の不幸を、二日酔いの迎え酒と同じ扱いにしないでくれる?夜まで立てなくなったら、ど~してくれるのよっ!!」
「俺としては一糸も纏わない杏奈がベッドで待ってくれてると思っただけで、すぐに仕事を片付けて帰って来るけどな♪」
「本気で反省の色が無いわね……」
「ただの願望だ。気にするな。」
寝不足の私と比べて、気のせいか拓海の肌がツヤツヤな気がする……
拓海は、チュッ!と、リップノイズをたてて私のこめかみに軽いキスを落とし、悪びれた様子も無い笑顔で仕事へ出掛けていった。
「し、暫く拒否してやるぅ~!!」
ささやかな反抗を心に誓った……




