空っぽの女
死のう。
引きこもり続けて気づけば三十路になる私が、自殺について考えたのがつい五分前の出来事だった。
長らく掃除をしてない部屋はどこかカビっぽい臭いがして陰鬱さを増させる。積まれた雑誌、ゲーム、カップ麺の器や灰皿にたまった吸殻。そのどれもが埃をかぶっているように感じられる。閉じられたカーテンは日光が入り込むことを拒絶し、汚い部屋を完全な闇に包んでなかったことにする。どことなく異臭がするのは、私の鼻がおかしいせいではないだろう。
もう何もやる気が起きない。何をやっても失敗してきた。
勉強はできない、愛想はない。運動は走りが遅い時点で論外だと決め付けたし、おまけになにかをやり通す根性だって、その片鱗を欠片ほども見せたことがなかった。
トドメがこの顔だった。お世辞にも可愛いなんていえない吐いたら、逆に罰が当たりそうである。ゴリラと岩を絶壁で割ったような。福笑いで失敗したみたいな。何と言い表せそうにもない酷い顔。
私は私が憎い。
もっと気遣いができる人間に。
もっと愛にあふれた人間に。
もっと愛される人間に。
もっと、もっと――。
綺麗に元気に、生きたかった。
でも、今更もう届かない。
今から私が自分で、この醜い人生に終止符を打つ。
私は今、どんな顔をしているのだろうか。
どうせ、泣こうが笑おうが汚く醜いのである。
とっとと死のう。
じんわり汗をかいた私。
厭な汗だ。
毛布が絡みつくように体を包んでいて鬱陶しい。
私はかぶっていた毛布を蹴飛ばすようにしてからベッドから体を起こした。机の上に一枚だけ置かれたカードに、私は手を伸ばした。
私の最期へと繋がる扉の鍵。
真っ黒なカードに。
これを使えば、楽に死ねるらしい。
『いらっしゃいませ! ようこそ自殺代行株式会社へ!
あなたは 013259 人目のお客様です。』
胡散臭い真っ黒なカードのURLをパソコンで検索すると、出てきたのがこのサイトだった。
一昔前の安っぽい個人サイトみたいなフォントが、サイトの胡散臭さを更に増させる。真っ白な背景のトップページにはポップな絵柄で、人の首を真っ二つにする死神が描かれており、シリアルナンバーを打ち込む欄がメニューの一番上にあった。
これ、株式会社なのか。いったい誰が投資しているのだろうか。
結構いるんだな、来場者。皆それだけ死にたいのか。
しかし、それはそれで妥当かな、といえる来場者の数字でもあった。
私はカードに書かれていたシリアルナンバーを打ち込んだ。
『認証番号 3077214 様の自殺補助サービスを開始いたします。携帯電話の電源をオンにした上で、電話番号をここにご記入ください。』
携帯電話の番号を教えるなりすぐに電話がかかってきた。すぐに登録した会社からの電話だと分かった。
「……もしもし」
『もしもし? 初めまして。私、本日の自殺オペレーティングを担当させて頂くことになりました、春原春雨と申します。よろしくお願いしますね』
「よ、よろしくお願いします」
聞きやすく耳にも優しい、綺麗な女の声だった。さすがはオペレーターといった所だろうか。
私は一旦ベッドにもたれるようにして絨毯の上に座った。
『では最初に、お客様の自殺についての合意、及び覚悟の確認をさせていただきます』
「え?」
『本サービスは契約の完了と同時にお客様の殺害を実行させていただきます。直接的に申し上げますと、我が社がお客様の殺害を請け負う一方でその責任は一切我々のものとはなりません。故にお客様が間違った判断をなさっていないかの判断、及びクレームの禁止やその他諸々の禁止事項、そしてお客様の自殺の意思が本当に固く、何を以ってしても本当に揺るがないものであるかを、事前に確認させて頂いております』
「は、はあ……」
『端的に申し上げますと、自殺しても大丈夫なのかを我々オペレーターとのカウンセリングなどを通して判断させていただくということです。宜しいでしょうか?』
「だ、大丈夫で、です」
私は、何を緊張しているのだろうか。いつの間にか、春雨と名乗ったオペレーターの声が、酷く気持ちの悪いものに感じられている。
『それでは最初に報酬についての説明をさせていただきます。我々がお客様の自殺に成功いたしました暁には、報酬としてお客様の持てる金品、及び臓器を全て売却させて頂き、それらの合計金額を報酬として受け取らせていただきます。宜しいでしょうか?』
「え……ちょ」
説明の内容が唐突すぎて戸惑いが隠せなかった。臓器全部売られてしまうのか、私。
だがよくよく考えてみると、私の死体がどうなったところで困る人間なんている筈もないし、大して考えに困るような問題でもないだろう。私は「はい」と答えた。
『承知いたしました。では続いてカウンセリングに移らせて頂きます。まず最初の質問ですが、お客様に未練はございますか?』
「未練……ですか」
そりゃまあ、幾らでもある。私を虐めてた連中をまとめて見返してやりたかったし、学年一カッコよくて優しい杉内くんに告白したかったし、父さんと母さんの期待にだって応えてあげたかった。でも実際には、それだけのことをするだけの〝何か〟が私には無かった。だから私はそんな現実から逃げたくて、自殺することを選んだんだ。
『つまり、現実逃避の手段として自殺を選択したと? 未練はあっても、どうせ叶わないからもうどうでもよい、と』
「まとめちゃうとそういうことですね……」
まとめられてしまう、私の死の決意。結局死ぬ理由まで、私はいい加減なままだった。私の心にまた一つ杭のような何かが刺さる。
痛い。
『悲観なさる必要はございません。人間とはその時その時の衝動にしたがって生きることを快楽とし、その衝動が達成できないことを不快に感じるのが人間ですから。その不快さが積み重なっていけば死にたくなっても不思議な事は何らありません。――それでは次の質問です、ご家族は今回のお客様の自殺志願に関してどう思っておいでですか?』
「お、親にですか!?」
『はい』
「そんなもの伝えてる訳無いじゃないですか! だって言ったら……」
言ったら……あれ?
どうなるんだ?
止められるんだろうか?
こんなボロボロで使い道も無いような娘を、両親に寄生するしか生きる術を持たない私を、それでも生きろと諭すのか?
私には完全無欠な弟がいる。そんなこともあって、私はいつだって比べられて生きてきた。常にあらゆる人間の下位互換として見られてきた。
見下されてきた。
「……両親には、今回のことは伝えていません。でも、伝えたところで言葉面でしか止めてくれないと思います。きっと」
きっと。
両親だって、弟だって、私が死んでくれれば良いと、心のどこかで思っているはずだ。
『承知いたしました。では次の質問です。お客様が今回自殺に踏み切った経緯を教えて頂けますでしょうか?』
「……えっと」
なぜ私は死にたくなったのか。嫌なことがあっても、あっても、それを回避して、見ないふりをして、無理やりにでも生きてきたのに何故〝今〟なのか。
考えれば考えるほどにドツボにはまってしまいそうな思考だった。
別に今を回避すれば、見ないふりをすれば、私は生きられるはずなのだ。
でも、敢えて今終わる。
何故だろうか?
……逆説的にいこう。何故〝そうまでして生きなくちゃいけない〟?
人に迷惑をかけることも無い。せいぜい通報してもらって死体の処理を警察にお願いするくらいだ。
願いや未練も今更叶いやしない。これ以上生きる目的も無い。
「生きる意味が無いから……です」
たった十文字の言葉。これがまた重い。
この十文字に、私の人生の全ての〝できなかった〟が詰まっている。
私はいつの間にかいっぱいいっぱいになっていた。目から血が流れている。いや、血じゃない、涙だ。
血な訳がない。
何で涙を血なんかと勘違いしたのだろうか。
訳が分からない。
もう何がなんだか分からない。
分かりたくない。
私は、狂ってきていた。
「ぅ……う、う、う、うわああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああんっ!」
私はわんわん泣いた。在りもしない人目も憚らず、知り尽くした恥も知らないで、大声で泣いた。
一人で狂ったみたいに泣いた。
狂って泣いた。
『――では、お客様に最期の質問です。』
「ふぁいっ……」
『お客様は、死んでから何をなさりたいですか?』
「死んで、から……?」
何がしたいだろう。
何ができるのだろう。
分からない。
でも、死んだら、少なくともこの現実からは開放される。
逃げることができる。
だから私は死を選んだ。
だから私は生を拒んだ。
――だから。
「生きていた時にはできなかったことが、したいです……ぐすっ」
これが、私の人生に対する結論だった。
『……承知しました』
「お願い、します……」
『申し訳ございませんが、今回の自殺代行はお受けできません』
「えっ!?」
その爆弾みたいな一言で、ぐちゃぐちゃだった頭が真っ白になった。
考えも諦めも終わりも何もかも、吹き飛ばしてしまった。
『お客様の決心には迷いと甘えが見えます。死後に関して私たちは何の保証も出来ませんし致しません。にもかかわらず貴方の〝死〟に対する考えは甘いのです。死ねば何かが変わると思っている。死ねば逃げ切れると思っている。死んだところで無くなるのと確実に証されているのはこの世から貴方の存在が無くなる事。ただこの一点です』
「で、でもっ……」
『死ぬことで解決する問題など何もございません。でもお客様は死んだ後の展望、将来まで見据えてしまっている。それでは生きることを回避しても意味はない。もしも死後にもっと酷い苦しみに遭えば貴方はどうするのですか? それでも貴方は〝自殺する〟なんて言うのですか? もう死んでいるというのに』
「――っ」
『それに、我々を頼るということは、〝我々に殺されでもしない限り自分で死ぬことが出来ない〟ということです。自分で死を選んでおいてそんな人に頼るような方法しか取れないようでは、自殺の資格は認定できません』
私は衝動的に携帯電話を投げつけた。丈夫だから壊れなかった。
どうしようもなくなって私は吠えた。
負け犬。
「……ぐちぐちぐちぐち――五月蝿いんだよ! さっさと私を殺せよ! 死にたいっつってんだよ私! あんたら自殺の代行とか言って結局理屈捏ねて手を汚そうともしないで! 何がしたいんだ矛盾してんじゃねえか! 冷やかしか? 自殺者馬鹿にしてんのか? 覚悟がなんだよ! 死後がなんだよ! 私は〝今〟が厭なんだよ!」
悔しくてたまらない。涙が止まらない。
私は死ぬことすらままならないのか。
結局死ぬことからすらも逃げるしかないのか。
悔しい。
くやしい。
『私どもは死ぬ手段の一つとして、サービスを提供しております。サービスを経験なさった方々は、皆様死ぬ覚悟がお有りでした』
「じゃあ、私は、どう、すればっ――」
『――覚悟がない限り、自分では死ねません』
生きることしかできないのです。
存分に生き恥を晒して。
寿命を果たしてください。
電話は切れ、機械的な「ツー」という音だけが闇を満たす。
真っ暗な部屋は物で溢れていた。
けれども、私には何も残されていなかった。
――我々は、生きることを強制されている。
執筆テーマ『代わり』
終
習作でございます。