9話
その宿屋で過ごす夜は、おどろきの連続だった。
まず、ベッドがおかしい。
寝転がったベッドは藁の感触とも、重ねた布の感触とも違った。
しっかりとした弾力があるのに、固いというわけではない。
まるで、寝た者の体に合わせ、ベッドがベッド自身の意思で形状を変化させているような。
とにかく寝心地がいい、ロレッタにとって未知の経験だった。
次に、毛布がおかしい。
このあたりの夜はとても冷える。
今の時期は特に、冷たい風が吹きすさぶので、寒いのだ。
宿屋自体は安普請なので、すきま風を覚悟していたのだが……
クッションを大きくしたような物があって、それをかけて寝ろと言われた。
そのようにしたら、まったく寒くなかった。
普通は毛布にくるまりながらそれでも寒さで震えるのが、一般的な宿屋の寝床だ。
いったいこのクッションのようなものはなんなのだと、ロレッタは戦慄した。
あとは、化粧台の鏡が地味におかしい。
近寄っても体の半分が映るほど大きなものなのに、曇りもゆがみもまったくない。
こんな鏡を普通に購入すれば、それだけで家一軒買える代物だ。
そこまで金がありあまっているにしては、建物自体は隙間が多いし、どういうことだろう。
そんなこんなで、朝は非常に快適な目覚めだった。
この宿に泊まったら、もう、他の宿に泊まるのは無理だろう。
朝。
食堂に降りたロレッタは、様々な疑問をアレクにぶつけることにする。
彼はカウンター内部で、大きなフライパンを使い、なにかおぞましい、小さな球状の、二度と口にしたくはない物体を炒りながら、答える。
「ベッドはスプリングベッドですね。コイルの形状とか設置数は俺が考えて、魔法で金属を曲げながら一個一個ハンドメイドしました。毛布は、あれ、毛布っていうか、羽毛布団です。この世界にはあんまり掛け布団っていう概念がなかったみたいなんで、自作しました。化粧台の鏡も自分で造りました。この世界の鏡どれも小さくて、なんか化粧台って感じじゃなかったんで」
「……言っていることが半分以上よくわからんが、あなたはなんでもできるのだな」
「まあ、魔法がありますからね。たぶん元いた世界で同じことしようとしたら、俺にも無理です」
……魔法はそこまで万能なものではないはずなのだが。
剣が得意な者は剣でやった方がいいことを、魔法が得意な者は魔法でやる、程度の存在だ。
それとも、魔法を六つも同時発動できるほどの魔術師にかかれば、また違うのだろうか。
まだまだアレクのことを理解はできなさそうだとロレッタはうなずく。
一人でうなずいていると。
アレクが問いかけてきた。
「ところでロレッタさん、朝食はどうします?」
「あなたがフライパンで炒っているそれ以外ならなんでも大丈夫だ」
「ああ、これは次のお客さんの修行用なんで、朝ご飯には出しません」
「……細君に、あの修行はやめるよう言われていなかったか?」
「でもアレが一番、HPの伸び率がいいんですよ」
「効率を優先するより、心に傷を残さない方法にするべきだとは思うが……まあ、あなたの店で、あなたの経営方針だ。過度な口出しはすまい」
「あ、ロレッタさん、今日はついに攻撃力を伸ばしますよ。体力勝負なんで、朝ご飯はしっかり食べておいた方がいいと思います」
「『ついに』と言われても、まだ二日目なのだが……昨日の修行の成果も、まだ実感はできていないぐらいだ」
「昨日上げた丈夫さとHPは、今日、ちゃんと効果を実感できますよ」
「そうなのか? ……まあ、食事も修行のうちとは言うし、朝食は今日の修行プランに合わせたものをお願いしようか」
「食事も修行ですよね、やっぱり。よかった。豆を食べる修行は間違ってなかったんだ」
「いや、豆を食べて窒息死する修行を正当化する言葉ではないとは思うが」
「では妻に伝えて、料理をしてもらってきますね。今、妻は奧にいますんで」
「あなたはなんでもできるようだが、料理はできないのか?」
「俺の料理より、妻の料理の方が美味しいので」
嬉しそうに言って、きびすを返す。
そして奧へ引っ込む――その、去り際に。
アレクはくるりと振り返って。
「あ、今日の修行はちょっとつらいかもしれないので、がんばってくださいね」
柔らかい笑顔で、そんなことを言って。
質問する暇も与えず、奧へ引っ込んでいった。
ロレッタはしばらく黙ったあと――
周囲にいる、他の宿泊客を見た。
彼女たちは、一様に目を逸らした。
「私はなにをやらされるのだ! 誰か! 誰か教えてくれ!」
叫ぶが、答えはない。
ただ、葬式のような暗い雰囲気だけが、ロレッタの不安を募らせていった。