86話
「ヨミ! パパはお前に会いたかったぞ! 会いたかったぞお!」
久々に帰ってきた父は、いつもの酒場跡地に入るなり、両腕を広げて私に抱きつこうとしてきました。
父は背が高いので、当時の私から見ると、両腕を広げて迫ってくる姿には、モンスターも同然の迫力がありました。
回避します。
後から思えば、抱きつくぐらいさせてあげてもよかったような気はしています。
実際、当時も回避したあと、『久しぶりだし少しかまってあげよう』みたいなことは考えていたようにも、思います。
私も娘として、父との距離感について少し考える年頃だったのです。
でも、父の背後にいたアレクの姿を見て、色々な考えが消し飛んだ気がします。
アレクの姿は、なにごとにも無関心だった私でさえ衝撃を覚えるほど、変わり果てていたのです。
衣類はボロボロで、手足は土か血で黒ずんでいました。
目つきは異様に鋭くなっており、せわしなく周囲を警戒しています。
頬はこけ、体つきは骨張っていました。
一目でわかる極限状態です。
現在、私とアレクの宿屋に来るお客さんも、たまにこれに近い状態になりますが、さすがにここまでひどい状態になった人は、見ていません。
それだけで、現在アレクがつけている修業よりも、よほど無茶な仕打ちをされたのだとわかります。
アレクは、『はいいろ』の修業を詳しく語りません。
でも、現在アレクがつけている修業を、彼自身が『ぬるい』と表現するのは、絶対に、この時『はいいろ』につけられた修業のせいだと、私はにらんでいます。
さすがに私も、このアレクを見て、無関心ではいられませんでした。
『はいいろ』に意見を求めます。
でも、父のコメントは素っ気ないものでした。
「あ、そうそう、アレクちゃん休憩だから、ちょっと面倒見てやってほしい。ご飯をあげて眠らせてやりゃ落ち着くだろ」
とてもそんな程度で済む状態には見えませんでした。
でも、父はどこかへ行ってしまいます。
今から思えば『狐』か『輝き』か、他の女性のところへ行ったのでしょう。
当時の私は、ただただ面倒事を押しつけられて置き去りにされたという心境でした。
心細いというか、面倒くさいというか、とにかく不満で、おっくうでした。
酒場跡地にいた他のクランメンバーも、かかわりたくないのか、目を逸らします。
当時、私はクランマスターの実子とはいえ特別扱いはされていなかった、というようなことを先に記しました。
でも、間違いでした。
誰もやりたがらないことは、だいたい押しつけられていた気がします。
逆に特別扱いだったのかもしれません。
いつも気楽に見える父でしたが、それでもものを頼みやすい相手と、頼みにくい相手とは、いたのでしょう。
そう考えれば、私は他のクランメンバーより信頼されていたのかもしれません。
ですが当時はただただ面倒で、あきらかに危ない状態のアレクを放っておきたい気持ちも大きかったのです。
他にやることがあったら、そちらを優先していたでしょう。
でも、当時、やることもなく、仕方がないので、アレクに食事を振る舞うことにしました。
それに、私は料理が好きでした。
様々なことに無関心で、無感情な私が唯一執心していることが、料理でした。
『輝く灰色の狐団』は貧乏なクランでした。
でも、子供や若者もそれなりの数いたので、食事は多く作らねばいけません。
安い材料で、多い量を、なるべく美味しく作る必要がありました。
私はその作業、アレク風に言うならば『ゲーム』に、夢中だったのかもしれません。
簡単にできる食べ物を用意します。
余った野菜と干し肉で、サンドイッチを作りました。
それをテーブルに並べてアレクに提供します。
でも、彼は食べようとしません。
食事に興味は示すのですが、手を伸ばしかけて、警戒するように周囲を見回し、それから手を引っ込める、みたいな行為を繰り返すだけです。
今思えば、『はいいろ』は修行中の食事禁止を明言していました。
なのでアレクが修行中、こっそり食事をとろうとした時に、なにか恐ろしい罰を与えたのでしょう。
その場に『はいいろ』がいないのを、私はわかっていました。
でも、アレクの中では監視はまだ続いていて、食事をとろうとしたら襲ってくるように思えていたのかもしれません。
という数々の想像は、今だから浮かぶものです。
当時は、私の作った料理を食べないアレクに、ただただ苛立っていました。
言葉を尽くせばよかったのかもしれません。
でも、当時の私はまだ子供でした。
アレクを蹴倒して、上に乗って、無理矢理食事を口に詰めこみます。
すごく乱暴な子供でした。
『はいいろ』の修業を終えたアレクは、疲れ果てていたのもあったのでしょう、簡単に私におさえこまれました。
私は、もし食事をはき出したら先に睡眠をとらせてやろうと、拳を振りかぶりました。
結果的に、さらなる暴力的な手段で彼を睡眠に導く必要はありませんでした。
彼は、泣きました。
あんまりにも突然に泣いたので、私は強く戸惑ったのを覚えています。
「……俺、弱いなあ」
私に話しかけたというよりは、ひとりごとみたいなものだった気がします。
当時の私は無愛想な子供だったのですが、突然泣き出した相手を放っておくほど冷たい心の持ち主でもありませんでした。
慰めようとした、気がします。
でも、結果的には、ひどい追い打ちをすることになったと思います。
「弱い。ぼくより、弱い」
「かなりキツい修業をさせられたのに、まだまだ、こんな子供より弱いのか」
「……」
「やっぱり人はそう簡単に変わらないよなあ。前世で駄目だったヤツは、生まれ変わっても駄目なまんまだ」
「?」
「……俺は、こことは違う世界から生まれ変わってここに来た。前の人生の記憶をもって、前の人生にはなかった能力まで持って……そのはずなのに、全然弱いまんまだ」
「……」
「普通に生きていくことさえできない。だから、神様に与えられた使命に従って、悪いヤツを倒そうって思ったのに、その『悪いヤツ』に鍛えられて、それでも手も足も出ない」
「……」
「俺、おかしいのかも。こんなに生きていくのに向いてないヤツ、他にいないんじゃないか」
「別に珍しくもない。『輝く灰色の狐団』はそんなのばっかり」
慰めようとしての発言ではなかったんじゃないかと思います。
実際、アレクがあんまりにも自分を特別みたいに言うので、そうでもないと否定しただけだったような気がします。
でも、彼は私の言葉を違う意味で捉えたようです。
それは優しく、前向きな解釈でした。
「……そうか。別に、おかしいってほどじゃ、ないんだな。俺はどうしようもないほど駄目な存在でも、ないのかもな」
「おかしいのは、『はいいろ』とか、『狐』とか。ぼくのパパとママは、みんなおかしい」
「その『狐』っていうのが、お前のママなのか?」
「そう。ママの一人」
「…………ママの一人?」
「ママの一人」
「そ、そうか……まあ、そういうこともあるよな」
「?」
「いや。大したことじゃないさ」
「それより、食事」
「ぶっちゃけ、腹は減ってるはずなんだけど、あんまり食欲はないっていうか、体がまだ食べ物を受け付けられる状態じゃない感じが……」
「ぼくが作ったのに。わざわざ、一人分だけ、作ったのに」
「……わかった、わかった。食べる。がんばるよ。でもこういう時はおかゆとかうどんの方がありがたいっていうのは本音かな……」
「うどん?」
「……うどんは、この世界にはないのか。おかゆは……豆がゆがあるな、そういえば」
「うどん」
「ああ、うどんな。俺の世界、っていうか国だとポピュラーな食べ物でな……もっちりとした太いパスタ? ようするに麺類だ。小麦粉と塩と水で作るらしいんだけど、詳しい作り方まではネットで調べないと……」
「それは、あまり食事を食べたくない時でも、食べられるもの?」
「そうだなあ。まあ麺だけだとキツいけど、だいたい出汁汁に入ってるもんだし……ああ、でもこの世界で鰹出汁とかは無理だよなあ……味の近いなにかはあるかもしれないけど」
「教えて」
「なにが」
「作り方を、教えて」
「……いやあ、そもそも材料が手に入るかどうか。あと、『今食べるとしたらこういうのだなあ』っていう話で……」
「興味がある。作り方を、教えて」
「……わかったよ。お前は男の子なのに料理に熱心で偉いなあ」
「…………?」
「いや、偏見か。お前があんまりにも料理ネタに食いついたから意外だったっていう話。無表情でなにを考えてるかわからない子に見えたからさ」
「料理と洗濯は、役目だから」
「ふーん。与えられた役目でも熱心になれるのは、いいことだよな」
「そう?」
「ああ。ところで、レシピを教える前に、一ついいか?」
「?」
「俺の上からどけ。お前ら親子は人に乗る趣味でもあるのか」
まだアレクを組み敷いたままでした。
料理の話題になると、色々なことが意識に入らなくなります。
この時、実は、アレクにさらりと性別を間違えられていたのですが、訂正することさえ、しませんでした。
さすがに、まだ子供でも、女の子らしい格好はしていたように思います。
後にアレクに聞いたら『異世界だしこんなにかわいい子が男の子という可能性もあると思った。なにより一人称が男のものだったし』と言い訳されました。
女の子です。
でも、他種族の性別なんか、わからない場合があるのは、わかります。
私も男女ともに見た目が美しい魔族やエルフなんかは、時々間違います。
人間のアレクからすれば、獣人の子供は見分けがつかない場合もあるのかもしれません。
ともかく、私は素直にアレクの上からどきました。
知らない料理のレシピのためなら、たいていのことはしたと思います。
他のことに興味がなかった私は、興味があることに対してだったら、かなりの勢いで突っ走る傾向にありました。
「じゃあ、うどんの作り方を一応教えるけど……無理に再現しようとしないでいいからな? 小麦以外は、この世界じゃ見ないし、そもそも俺の方の記憶があいまいだし」
「必要な材料は『はいいろ』にとってこさせる」
「……お前の父親だよな、『はいいろ』って」
「そう」
「とってこさせるっていうのもスゲーけど、父親を『はいいろ』呼びっていうのもスゲーな。どう考えてもコードネームとかそんなんだろ? ああ、それとも本名を知られないように普段からそう呼ばせてるのか? なにせ暗殺者だしな」
「……?」
「なぜそこで首をかしげる」
「『はいいろ』は、『はいいろ』が名前じゃないの?」
「いやあ……どうなのかな? この世界の一部にはそういう常識があるのかもしれないけど、俺にはよくわからないっていうか」
「……?」
「とにかく、気にするな。どうにも失言だったらしい。それよりうどんの作り方だけど」
「うん」
その時に聞いたレシピは、別冊のレシピ集に記してあります。
だいぶ改良を重ねました。
というか、アレクは前世であまり料理をしなかったらしく、当時教わった作り方は、大事な工程や材料が抜けていたり、間違っていたりとさんざんなものです。
それを彼の元いた世界と同じ味まで仕上げるのは、大変なことでした。
思い返せば、アレクとした冒険の多くは、私にとって料理の材料をそろえるためのものだったような気がします。
もちろんそればかりではありません。
でも、『輝く灰色の狐団』が終わったあとに始めた冒険者生活を思い起こすと、だいたい、食べ物の材料を仕入れたり、食べ物を作ったりという記憶ばかりです。
ともかく、当時の私は、『知らない料理の作り方を教えてもらう』という経験を経て、ようやくアレクという人物を認識した気がします。
『その他大勢』から『アレクサンダー』に昇格した感じです。
重ね重ね、とても無礼な子供でした。
「……以上がうどんのレシピだ。和風出汁は無理だけどコンソメうどんとかなら、この世界でも再現可能な気はする」
「コンソメ?」
「……いや、コンソメぐらいはあるだろ。それとも呼び方が違うのか? 野菜を煮込んで旨みを抽出したスープだと思う」
「知ってる、かもしれない」
「ああ、俺の料理知識を盲信するなよ。間違いだらけだと思うし」
「それはわかる」
「……まあ、こんな曖昧知識でいいなら、暇な時に教えてやるよ」
「嬉しい」
「だったら嬉しそうにしろ……無表情で言われてもなあ」
「『はいいろ』にあんまり笑うなって言われてる」
「なんでだ? 子供に意地悪するようなおっさんには見えないけど」
「笑うと誘拐されるからって。ぼくはかわいいから」
「…………お前のステータスだと、一般的な誘拐犯は返り討ちに遭うから大丈夫だ」
「すてーたす?」
「俺の世界の言葉だよ。人の強さっていうか、俺には、人を見るだけで、その人がどんな能力を持っていて、どのぐらい強いかがわかるんだ」
「じゃあなんで『はいいろ』に挑んだの? アレクは『はいいろ』より明らかに弱いのに」
「…………偶然、倒せるかもしれないと思ったのと……あとは、婉曲な自殺かな」
「?」
「この世界でも駄目なヤツな俺は、行き場も働き口もないし、ここらで誕生時に神様からもらった使命を果たそうかって一念発起しただけ。まあ、死ぬのが怖くてけっきょくセーブして挑んだわけだが」
「せーぶ?」
「……もう『はいいろ』には聞き出されちまったし、いいか」
アレクのあきらめきったような表情が、印象的でした。
彼はその時、初めて私に『セーブポイント』を見せてくれました。
ふよふよ漂う、ほのかに発光する球体。
そのある種幻想的な美しさに、私は強烈に興味を惹かれたのを覚えています。
「これに向けて『セーブする』って宣言すると、死んでもやり直せるんだ。実際やり直しによるダンジョン攻略とかも試したんだけど……まあ、駄目だな。俺の弱さだと何度やったって駄目駄目。だから食い詰めて、最後の手段で勇者業でも始めようかなって……」
「……」
「お前の、父親を……殺そうとしたんだけど」
「…………」
「……あのおっさんにも、家族がいるんだよな。お前の母親が何人かいて、お前がいて」
「うん」
「なあ、もし、俺がお前の父親を殺したら、お前はどう思う?」
この質問には、答えられなかったのを覚えています。
考えたこともありませんでした。
そもそも『はいいろ』が殺される姿を想像できなかったのです。
私の中の『はいいろ』は無敵でした。
あの人が死ぬならば、それ以外の人類は死に絶えているだろう、ぐらいの存在です。
後にアレクに聞いた話だと、当時の『はいいろ』は、冒険者レベルに換算して八十ぐらいの強さだったようです。
レベル八十というのは、かなりの強さでした。
きっと、現在の王都のまともな冒険者にだっていないぐらいだと思います。
もっとも、これは『冒険者ギルドでレベル検定を受けている人』に限定した話です。
うちの宿屋のお客さんは、もちろん除きます。
それに、『はいいろ』みたいな検定を受けていない強者だっていると、私は思っています。
ともかく、私は沈黙していました。
アレクの方が気遣ってくれます。
「……答えにくい質問だったな」
「……」
「子供に聞くようなことじゃなかった。なんだ。……だからさ、俺は、『はいいろ』に恨みがあるとかじゃないんだよ。もちろんキツい修業つけられて『殺してやる』って何度も思ったけど、その……うまく言えないけど、大丈夫だ」
「なにが」
「……お前に比べればまだまだ弱いけど、それでも、『はいいろ』の修業で強くなってる実感はある。やっぱりRPGの醍醐味だよな。レベルアップすることで、直前まで苦戦してたモンスターが雑魚になる爽快感っていうの?」
「?」
「あー、その、とにかく大丈夫だ。俺は『はいいろ』を殺さないと思う。たとえ殺せるぐらい強くなったって、お前の父さんを奪ったりはしないから、安心してくれって言いたかった」
私は首をかしげるだけでした。
安心もなにも、私の中で『はいいろ』は絶対に死なない存在でした。
でも、アレクはわかっていたのでしょう。
強さは、いつか追いつく。
それは、彼が『経験』という概念を、私たちこの世界の人とは違うような捉え方をしているから、わかるのでしょう。
『はいいろ』には数々の伝説があります。
誰も歯が立たないぐらい強いモンスターを一人で倒したこともありました。
強いモンスターを倒すなんていう経験は、なかなかできないものです。
その経験は、弱いモンスターを何匹倒したって、比べられないはずです。
でも、アレクは『強いモンスターを一匹倒した経験』と、『弱いモンスターを数多く倒した経験』を、同列に考えることができました。
経験を数値化する、『経験値』という概念です。
だから彼は、修業の中でいつか自分が『はいいろ』に追いつくとわかっていたのでしょう。
実際に、すぐに彼は『はいいろ』と同列になります。
でも、その前に、『はいいろ』のとんでもない思いつきが彼を襲うことになります。
それは、しばらく経ったある日のことです。
『狐』が仕事を終えて、根城の酒場跡地に戻ってきました。




