8話
食事。
そして――風呂。
他の宿泊客に誘われたが、ロレッタは一人で入ることを選んだ。
大人数で風呂というのはかまわないし、自分の入浴中に誰かが入って来ても、別によかった。
しかし、久々の『体を沈められる湯船』を、最初は一人きりで楽しみたかったのだ。
他のところの『風呂』は、『湯桶にためたお湯で体を流す作業』を指すものだったし。
中庭。
先ほど、アレクと戦った時には、広い空き地と、端に家庭菜園のようなものが見えただけだ。
しかし今は、石壁でできた、十人はゆうに入れそうな湯船が設置されていた。
「……ありえん技術力だ」
体を拭く布のみを身につけた状態で、ロレッタはつぶやく。
念願の風呂だというのに、つい、足が止まってしまった。
近付いて腕を入れ、湯加減をみる。
……ちょうどいい温度だ。
他の宿泊客が入浴してからそれなりに経つのに、温度は維持されているということだろう。
……彼は本当に、まったく見ずにこの風呂の石壁やら温度やらを維持しているのだろうか?
魔法というものは、案外不便だ。
一度に発動できるのは一つだし、見ていないとコントロールはほぼ不可能と言われている。
それを六つ同時発動のうえ、見もせずに維持し続けているとは、話で聞いただけでは信じがたいものがあった。
ロレッタは周囲をうかがう。
例の『凄惨な話』を思うに、あの店主がのぞきをしているとは思えないが――
魔法維持のために、風呂を見ることのできる場所は、あった方が不自然ではない。
けれど、周囲は建物に囲まれ、裏庭を見ることのできる場所はなさそうだ。
建物の屋根までのぼれば、その限りではないかもしれないが……
こちらからも簡単に見える。
風呂にいる者に見つからずにのぞきをできる場所は、なさそうに思えた。
ロレッタはのぞかれる心配はないと判断し、身につけた布を取り去る。
手で湯をすくい、体に軽くなじませてから湯船につかる。
「おおお……」
思わず妙な声が漏れる。
少なからず感動を覚えた。
久しぶりの、湯船だ。
まさかこんな、うらぶれた宿屋で、これほどの贅沢が味わえるとは。
「環境が先進的すぎる……まるで未来に来たかのようだ」
風呂とか。
食事とか。
あとは、トイレとか。
ちょっとありえないぐらいの好環境だと、ロレッタには感じられた。
もちろん、家屋は狭いし、そこまでしっかりした造りではない。
でも、細かいところで軽く数百年先の技術を体感しているような気分になることがあった。
「……案外、アレクさんが異世界から来たというのは本当かもしれんな」
彼女はうなずく。
修行とか、修行とか、豆とか、辛いことは今日だけでもたくさんあったが――
この風呂に入れるだけで、もうすべてどうでもいい気分だ。
明日からもがんばれそう。
そんなことを思っていると。
コンコン、と風呂場の――宿から裏庭に通じるドアが、ノックされた。
「もしもしー? どなたか入ってらっしゃいますかー?」
アレクの声だ。
ロレッタは返事をする。
「ロレッタだ! 入っているが、どうした?」
「ああ、そろそろ女性の時間が終わるもので、一声おかけしました」
「む、そうだったのか……」
一人で湯船を楽しみたかったので、宿泊客と時間をずらして入ったのだが……
それがあだになったらしい。
ロレッタは言う。
「すまない、すぐに出る」
「いえ、男性は俺一人なので、入ったばかりでしたら、まだ結構ですよ」
「そ、そうか? ……であれば申し訳ないのだが、今しばらく楽しませていただきたい。久しぶりの湯船でな」
「はい、結構ですよ。出たら教えてくださいね。温度なども、ご不満ありましたら、言っていただいたら調整しますよ」
「そうか……至れり尽くせりとはこのことだな。私が経験してきた中でも、最上に分類されるサービスだ。私が家を取り戻したら、専門の風呂役として雇いたいほどだ」
「ありがとうございます」
「それで温度だが、もう少しだけ熱いとありがたい」
「わかりました。ではまたなにかございましたら、お呼びくださいね」
アレクの気配が離れていく。
すると、風呂が少し熱くなった。
……本当に見ないでやっているのだろうかと、不安になる。
それは見ていても簡単にはできないような、微細な魔法操作だった。
「……まともで、気の利く主人ではあるのだがなあ」
どうして修行になるとおかしな人になるのだろう。
そのことが、どうしてもロレッタには不思議だった。