72話
その日の夜。
わたしがお風呂に入っていると、複数の視線を感じました。
アレクさんの修業のお陰で、気配や視線を感じ取る力が上がっていました。
もともと、男性にいやらしい目で見られることが多かったので、敏感だったのもあります。
視線を感じて、その方向を見れば――
お風呂の設置された裏庭を囲む、屋根の上。
黒い衣装を来た集団が、わたしをジッとながめていました。
わたしは、恐怖で動けませんでした。
弓さえあれば、いや、なくたって、その集団を追い散らすことはできたのでしょう。
でも、この宿に来て久しく忘れていた、男性ならではの悪意みたいなものを感じて、恐怖で動けなくなってしまいました。
幸いにも、その集団は、わたしと目が合うと、バッと逃げてしまいましたけれど……
わたしはしばらく震えて、ヨミさんが来るまで、お風呂の中で、体を抱いたままでした。
「のぞき、だねえ」
「…………そ、そんなことは、見ればわかるです」
「いやあ、うっかりしてたよ。まさかあんなあからさまなところからのぞく人が出るだなんて思ってなくって。大丈夫だった?」
「だ、大丈夫です。平気です。あんなの、大したこと、ないですから」
もちろん、強がりでした。
わたしは困った時、つい、強がってしまうくせがあるのです。
ひょっとしたら、ヨミさんはそんなわたしの内心を見通していたかもしれません。
「ごめんね。うちの人が宿にいれば事前に止めたんだろうけど」
「アレクさんは、どこです?」
「クーさんに会いに行ったよ。まあ、気配ぐらいは察知してるんだろうけど、ぼくもいるし大丈夫と思ってたのかも」
「く、クーさん? クーさんとは、ギルドマスターです?」
「そうだよ?」
「なんでそんなところに……」
「んー……さあ? あの人はぼくに言わないで行動すること、多いし」
ヨミさんは笑っていました。
長くこの宿にいると、わかることですが……
実は、ヨミさんは嘘がお上手です。
本当はアレクさんからつぶさに事情を聞いていたのでしょう。
それでも、わたしに気遣って、言わないでおいてくださったのだと、思います。
でも、アレクさんは嘘が苦手でした。
物事を隠し通すというのが、あまりうまくないらしいのです。
だから、そののぞきをした集団のことも、『すべてが終わったあと』聞かされました。
「人身売買組織でしたね」
「……はい?」
「あなたを狙っていた、この宿に宿泊されていた男性客と、その方が所属していた集団は、人間以外の種族を専門に取り扱う、人身売買の組織でした」
「……な、なんで、そんな人たちが、わたしのお風呂をのぞいたんです?」
「品定めでしょうね。あるいは、あなたがあまりにお美しいので、我慢ができなくなったか」
「……」
またこの体のせいか、とわたしはうんざりしました。
エルフなのに、エルフらしからぬ醜い肢体。
それは人身を商品として取り扱う集団には、希少価値があるように見えたのでしょう。
「王都に来た冒険者を狙い、尾行し、信頼させ、自分たちの組織で経営する宿屋に招き、薬で眠らせて売買する、というようなのが、主なやり口だったようです。人間族もそうですが、それ以外の種族でも冒険者をやるような人は天涯孤独の身が多いですからね。足がつかないと思ったのでしょう」
「……憲兵には通報したんです?」
「そうですね。今ごろ近衛兵が捜査にあたっていると思いますよ」
「近衛兵? 憲兵ではなく?」
「集団犯罪を取り締まる憲兵第二大隊には伝手がありませんので。近衛兵からしかるべき要請が出されるとは思いますが」
「は、はあ……?」
「あなたはこの街に入った途端に目をつけられていたらしいですよ」
「なぜそんなことを知ってるんです?」
「犯人に反省を促す際にうかがいました」
「反省を促す?」
「『反省』とは『ごめんなさい以外の言葉を忘れる状態』のことです」
「……いえ、そうではなくて」
「ではどういうご質問ですか?」
「…………いえ」
聞かない方がいい、と直感しました。
なにか、アレクさんの闇の部分に手を触れようとしている気がしたのです。
もっとも、アレクさんに裏表はないのでしょう。
すべてが闇で、すべてが光で、すべてがおかしい。そんな人に、わたしには見えます。
おかしいけれど。
あなたは、わたしを救ってくれました。
わたしは、それまで抱いていた子供っぽい反発心が急に恥ずかしくなりました。
「……ごめんなさい、アレクさん。わたし、あなたの善意を、疑ってしまって……たしかに今から考えれば、紹介状をよこしたあの男の人は、おかしな感じでした」
「いえ。あなたが無事なら、それでいいんですよ」
「……それから、根拠もなく、あなたがエルフの森に行ったことを嘘だと断じてしまって、ごめんなさいです」
「おや、信じていただけるのですか?」
「……わたしの常識では、見張りに気付かれずエルフの森に入るなんて、不可能です。……でも、常識なんて、しょせんは、常識でしかないんですよね」
「と、おっしゃいますと?」
「『お前は人と違うから、お前のことは認めない』だなんて。……わたしがされていた扱いと同じです。人のことを見ずに、人の胸ばかりを見ている人と同じなんだって、気付きました」
「そうですか」
「はい。……だから、ごめんなさい。そして、数々のお気遣い、ありがとうございます。わたし、あなたのこと、もっと信じてみたいです。信じても、いいですか?」
「信じる、信じないは、お客様の自由意思にお任せしますよ。ただ、俺は嘘をつくのがとても苦手です。そして、信じてくだされば、応えられるよう全力を尽くします」
「……はい」
「『おばけ大樹』で目的を達成できるレベルまで、あなたの修業を任せていただけますか?」
「……お願いするです。あなたなら、きっと、わたしのあきらめていた目標を叶えさせてくれると思うですから」
「結構。期待にお応えしましょう」
あなたはいつでも笑っていますね。
でも、その時の微笑みは、特別なものとして、わたしの中に残っていますよ。
その後、わたしの修業は再開されました。
『三日三晩ダンジョンにこもる』
『目を閉じたまま千匹のモンスターを倒す』
『アレクさんに一撃を与える』
文字にすると、やっぱり大変さがまったく伝わりませんね。
どれもこれも簡単そうに見えてしまうでしょう。
簡単そうでしょうか?
この遺書を、もしわたしでもアレクさんでもない誰かが読んだ時は、公正な判断をお願いしたいと思います。
わたしの修業は、細かく、長く、続きました。
途中で来たロレッタさんやモリーンさんに比べれば、かなりペースが遅いでしょう。
アレクさんは、その人の事情の緊急性に応じて修業ペースを変えます。
わたしの修業の目的は、もう、時間制限がありません。
……ひょっとしたら。
アレクさんは、一度『おばけ大樹』に行ってレベルを測る際に、わたしの妹の遺骨や遺品を見つけていたりするのでしょうか。
もしそうだとしたら、わたしが修業の中で心を壊した時、どうか、その遺骨あるいは遺品を回収し、エルフの森に生えた樹の根元に埋めてください。
たぶん、骨さえなくても、妹が好んで身につけていた、黒いやじりの首飾りは、遺っているはずです。
手荷物の処理についても、記しておきます。
親友のホーさんに、わたしの持つ財産の半分を、あたえてください。
お金にできなさそうな荷物も、彼女に言えば、正しく処分してくれるでしょう。
そして、ホーさんに、あなたとお風呂に入っておしゃべりするのがとても楽しかったと、伝えてください。
残りの半分の財産はアレクさんに差し上げます。
なにやら副業をなさっている様子なので、お金には困っていないのでしょうけれど、わたしの気持ちです。
たくさん、迷惑をかけてしまって、ごめんなさい。
それから、数々のお気遣い、本当にありがとうございます。
人を、ましてや男性をここまで信頼したのなんて、生まれて初めてです。
ヨミさんや、ブランちゃん、ノワちゃんとともに末永くお幸せに。
つらつらと回想していたら、最後の最後で、ようやく遺書らしいことが書けました。
思い出深い日々でした。
たぶん、わたしの人生の中で、もっともつらく、もっとも苦しく、もっとも楽しく、もっとも幸福な期間だったでしょう。
まだ、面と向かうと、臆病で強がりで、意地っぱりな自分が出てしまいます。
だからせめて、文章では素直に。
それから。
素直な自分を見せるのは、まだ少し、恥ずかしく思います。
ですから、この遺書の存在自体が、自分自身の心を壊さないための城壁になればいいなと思いつつ、遺書を結ばせていただきます。
寒い季節の終わりに。
ソフィ・ベル




