70話
「『銀の狐亭』にようこそ」
アレク様。
宿に来たわたしを、あなたは微笑んで出迎えてくださいましたね。
あの笑顔には、だいぶ、安心をしたものです。
わたしは、男性という存在に恐怖を抱いておりました。
故郷であるエルフの森でも、男性にいじめられてばかり。
王都に来たあとも、荒くれの冒険者に痴漢まがいのことをされていました。
この体のせいで、生きていくのがつらいとさえ、思っていたのです。
でも、あなたは、わたしの体を見ても、いやらしい目つきをなさいませんでした。
当時、男性の視線に敏感になっていたわたしは、あなたの普通の出迎えに、いたく感動したことを覚えています。
あなたの出迎えを受けて、わたしは、この宿への宿泊を決定しました。
……実を言いますと、この宿が『死なない宿屋』ということは、知らなかったのです。
でも、わたしは素直ではありませんでした。
人に『こういうことを知っているか』と言われると、つい『当たり前でしょう。知っています』と意地をはってしまうのです。
だから。
「お客様も『死なない宿屋』をご利用ですか?」
「……死なない宿屋、です?」
「わざわざウチのような、見つけにくい場所にある宿屋にいらっしゃるお客様は、その噂を頼りに来るものと思っていたのですが……ご存じありません?」
「…………あ、当たり前です。知っています。知っていますとも。ええ、死なない宿屋ですね。実はそういうのを探していたのです。あまり馬鹿にしないでくださいますか?」
「馬鹿にはしていませんが……ということは、修業をご希望で?」
「当たり前です?」
「そうですか。わかりました」
「ええ、そうです」
わたしは、人に馬鹿にされるのを極度に恐れていたように思います。
というのもやはり、この醜い体つきのせいです。
エルフでわたしのように胸の大きい者は非常に珍しい存在でした。
なので、少しでも知恵や知識が足りないような言動をとると、『胸にばかり栄養がいっている』と馬鹿にされてしまうことが、多々ありました。
しかもこの悪しき慣習は、どうやらエルフの森だけではないのです。
人間の王都に来ても、やはり、この胸の大きさで、頭が悪そうだの、性欲が高そうだの、さんざんなことばかり言われてきました。
だから、わたしは、馬鹿にされたくない一心で、見栄をはる癖があったのです。
その結果、できないことを、できると言ってしまう。
できずに、けっきょく、馬鹿にされる。
そのような悪循環を何度も何度も繰り返してきました。
こうして文字にしたためると、冷静に、自分の人生を振り返ることができます。
わたしの人生は、失敗ばかりで。
人との衝突ばかりで。
だから、すでにこの宿にいらしたホーさんとも、だいぶ、ぶつかりました。
「おいエルフのお嬢ちゃん、悪いことは言わねーから、ここでの修業はやめとけ」
「……なんですか、あなた? わたしの行動になにか文句があるのです?」
「文句じゃねーよ。忠告だ。受付での話を聞いてた限りだと、あんた、『死なない宿屋』の話なんか、本当は知らなかっただろ? 悪いことは言わねえ。死なないっていうのは、生きるっていうことじゃねーんだ。覚悟もなしに修業を受けるもんじゃねーよ」
「……馬鹿にしないでほしいです。覚悟なら、あります。ええ、知ったうえで、覚悟をしたうえで、わたしは修業を受けると決定したのです。意地を張ったみたいに言われるのは、とても心外です」
「チッ……そうかよ。じゃあもう言わねーよ。あとで嘆いてもおせーからな」
当時は『なんて口の悪い、偉そうなおチビちゃんだ』と思っていました。
でも、彼女は優しく、思いやりのある方だったのです。
そのことに気付くまで、そう時間はかかりませんでした。
なぜならば、その日の夕方、さっそく『死なない宿屋』の修業は始まったのです。
修業内容は言語に絶するものでした。
『飛び降りる』
『豆を食べる』
文字にしてみると、なんでもないことに思えます。
なんでもない……
なんでもないでしょうか?
もうわたしには判断できません。
でも、きっと、わたしが体感した恐ろしさ、つらさの千分の一も伝わらないでしょう。
心の折れる修業ばかりでした。
それでも耐えることができたのは、きっと、持ち前の見栄っぱりのお陰もあるでしょう。
けれど、それだけで耐えられる程度の苦境ではありませんでした。
わたしには、とっくにあきらめていた目標があったのです。
あまりに困難で、途方もない強さが必要になるため、目指さないようにしていたことが、あったのです。
最初、意地だけで修業を乗り切っていた時期もありました。
けれど、修業を乗り越えるにつれ、着実に自身が強くなっていくのがわかりました。
だからきっと、欲が出てしまったのでしょう。
わたしには次第に、あるダンジョンを探索したいという思いが芽生えてきました。
『おばけ大樹』
わたしの故郷である、エルフの森にあるダンジョンです。
その難易度は王都周辺のレベル制では測りきれないであろうほど高く、近隣では攻略するなどとんでもないとされ、神格化されていました。
そこに、わたしの妹は入ってしまったのです。
……もう、十年も昔のことになります。
妹は帰ってきていません。
だからきっと、死んでいるのだと、あきらめています。
それでも、彼女の遺品、遺骨でもいいから、見つけたい。
我々エルフのあいだには、死者の魂が土に還り、木々に宿り、森を豊かにするという信仰があります。
エルフの森に、いい思い出はありません。
でも、妹の魂を安らげるために、彼女の一部でも、あるいは一部でさえなくても、土に還して弔ってあげたいと、思います。
だからわたしは、修業を続けることができました。
死者への弔い。
わたしはその目標を抱いて、彼の修業を乗り越えました。




