51話
「ホーさん、それで、そろそろあなたがこの宿に来た当初のことを教えてはもらえないか? 私も風呂好きではあるが、さすがにのぼせそうだ」
――ホーは、意識を現在に引き戻す。
『銀の狐亭』の風呂だ。
のぼせかけているのだろう、一緒に入っているロレッタの手は、赤くなっている。
ホーは自分が彼女の膝の上にいることを思い出す。
そして、立ち上がった。
「悪いなロレッタ。もう上がっていいぞ」
「……はあ。しかしだな、あなたが『回想するから時間をくれ』と言ってからずっと待っていたのだ。少しぐらいは、あなたが宿に来た当初のことを教えてほしいものだが」
「……いや、その、どう語っても凄惨なオチにしかならねーと思ったんだよ」
「それはそうだろう。アレクさんの修行の話なのだから」
「嫌な信頼感だな……」
「まあしかしだ。あなたが思い出した結果、語るべきでないと思ったのであれば、私はその判断を尊重しよう。興味はもちろんものすごくあるが、あなたの意思を曲げてまで話を引き出したいとは思わないのでな」
「あんたは相変わらず、素直でいい子だな」
「子供扱いはやめていただこうか。つい先日、成人した」
「そうなのか? そういうことは言えよ。祝ってやるのに」
「……言ったら遠回しに祝うことを強要しているような気がして、言えなかったのだ」
「あんたらしいねえ。わかったよ。あたしの意思で、祝ってやる。強要じゃなくてな」
「……結局、強要したかのようになってしまった」
「してねーって言ってんだろ。……あんたが上がらねーなら、あたしが先に上がるぞ」
ホーは湯船を歩き、風呂の縁にたどりつく。
そして、手足と髪の毛を使って、風呂から出た。
その背中に。
ザバァ、という音と、ロレッタの声がとどく。
「ホーさん!」
「なんだ。大声出して」
「一つだけ教えてくれないか? 以前、あなたとアレクさんが、普通に会話しているのを聞いたのだ」
「……あの男と普通に会話……?」
「アレクさんが敬語ではなかったという意味だ」
「ああ、なるほど。それで?」
「珍しいと思ってな。なので、あなたとアレクさんの関係をおたずねしたかった。それだけでも教えてはいただけないか?」
「それはな。アレクさんは、あたしのおじさんにあたるんだ。つまり――家族だよ。だから、クソ丁寧な口調はやめてくれって頼んだ。そんだけだ」
「……なるほど、そういうことか。いや、なにかの精神修行かと思って、心配だったのだ」
「せいしんしゅぎょう、やだあ、やだあ……」
「ホーさん?」
「あ、ああ。いや、なんでもねーよ。ロレッタも早めに風呂上がれよ。いい加減ぶっ倒れるぞ」
ホーは風呂をあとにする。
宿屋のカウンターと風呂のあいだにある狭い空間で服を着る。
ゆるすぎる、ワンピースのようなもの。
そのまま歩いて、一階食堂に来た。
カウンター内部にはアレクとヨミが並んでいる。
他の客と話しているようだった。
でも。
アレクは接近するホーに視線を向けて、言う。
「おや、ホー。お風呂は終わったのかな?」
「ああ。ところでロレッタが長風呂しすぎてっから、まだ上がってこないようだったら様子を見てやんな」
「わかった。ヨミ、頼んだよ」
呼びかけられたヨミは、苦笑しつつうなずいた。
ホーは空いている席に着いて、アレクに話しかける。
「ロレッタにな、あたしがこの宿屋に来た当初のことを聞かれたよ」
「へえ。どう答えたんだい?」
「答えられなかった」
「……まあ、そうだね。家族間のすれ違いの話だ。あまり人に聞かせるものでもない」
「いやそうじゃねーよ。凄惨で話すのをためらったんだよ」
「たしかに、ロレッタさんは家族のことで苦労をしているからね。ある意味で凄惨な話になるのかもしれない」
「ある意味もなにもど真ん中で凄惨な話なんだが……まあ、あんたにはわからねーだろうな。それより明日は早めに起こしてくれ。早朝にダンジョンに行く用事があるんだ」
「助かるよ」
「結局あんたも同行するんだから、助かるってことはねーだろ」
「いや。やっぱり新しい基準を作るのには、多くの意見が必要だからね。……『ダンジョンの構造物の危険度』は、構造物自体が危険なダンジョンそのものが少ない。同じダンジョンで複数人が意見を出せるっていうのは、重要なことだ」
新しい基準。
それは、『ダンジョンの構造物の危険度』だ。
五十年前、現在のギルドマスターが定めた基準だけでは評価しようのないダンジョンも、近年、ぽつぽつ発見されつつある。
だからホーは、今、主に『ダンジョンの構造物の危険度』を決めるための基準作りを、仕事にしている。
ギルドマスターの孫という影は、未だにつきまとっているけれど。
……それはもう、仕方がないと、受け入れていた。
だからせめて、同じ分野で祖母を越えてやろうと、ホーはそう思うようにしていた。
苦労はあまりにも多いけれど。
「……ハッ。だといいがな。ったく、気が遠くなる話だよ。ババアはよくも一生で三つもの明確な基準を作ったもんだ。たった一つの新しい基準を設けようってだけで、途方もねーのに」
「でも、その苦労のお陰で、今、冒険者の死亡率は下がっている。それはとても素晴らしいことだと俺は思う。人は死んだらおしまいだからね」
「あんたに言われると薄っぺらい言葉だなあ……」
「それで、ホーは、どうかな。前は向けたかい?」
前を向く。
つきまとう影ばかりを見ずに、自分の未来を見る。
この宿に来て長い時間が経って。
それでも、まだ。
「できねーな。ママが失踪した理由も、色々思うところは増えたが……結局わかんねーままだ」
「……そうか」
「でもな、冒険者としてのあたしの目標は決まったよ」
「どんな?」
「『ダンジョンの構造物の危険度』を定める基準を設ける。あとは、ママを捜すことだ。死んでても、生きててもな」
「……生きてるとは信じたいんだけどなあ」
「あたしはアレクさんやババアみてーに夢見がちじゃねーよ。……まだあたしは、下を見てる。足元をしっかり見て、地面を見て、歩いてる。受け入れなきゃならねー現実は、たぶんまだまだこの先転がってるからな」
「……」
「前を向くのは、それからだ。長い人生になるとは思うが、ドライアドの寿命は長いし、あたしはまだ子供だから未来がある。なあ、そうだろ、おじさん?」
「そうだね。姪っ子」
アレクは笑う。
ホーも笑い返した。
ギルドマスターの孫。
母の失踪。
父の不在。
つきまとう、過去という影。
ホーはそれらと向き合うことを決めた。
どこまでもついてくる影ならば。
きっとそこから、差し込む光の方向だって、わかるだろう。




