5話
「三回目ぐらいになるとな、痛みがわかるから、とても怖いのだ。でも、四回、五回と繰り返すうちに、慣れていく。考えてみれば、この大陸には数十万の人が暮らしているではないか。私一人の命など、取るに足らない。吹けば飛ぶ、羽毛のようなものだ。その塵芥同然の命が、ダンジョン攻略に消費されることにより、数万の人を危機から救うのだ。死ぬと思った時、自分一人の命を守ろうと逃げるのは、愚かだ。死は恐怖すべきことではない。死は多くの人の糧なのだ。だから、死の恐怖に直面した時は全力で前に出ないといけない。私はついに、そのことを理解した」
ロレッタは数十回の飛び降り自殺によって、悟りを開いた。
ここは街の南にある、断崖絶壁だ。
むき出しの岩肌に、底の見えないほど深い絶壁。
世界の果てとも言われている場所で、ここ以南は、この絶壁のせいで未開の土地になっている。
日差しがやけに厳しく感じる、昼時――
部屋に荷物を置いたロレッタは、早速、連れ出されていた。
曰く『いつも使う、自殺にちょうどいい絶壁』だそうだ。
……さらりと恐ろしいことを言う人だった。
ひょっとしたら自分はとんでもない男の宿屋に泊まってしまったのではないかと、ロレッタは思い始めていた。
アレクはにこにこ笑ったまま、地面に敷いた布の上に座っている。
膝には木で編まれたランチボックスがあった。
そして、横にはセーブポイント。
セーブポイントと逆の横には、大きな風呂敷包みがある。
大人が三人ぐらい入れそうな、現実味のない大きさの包みだ。
アレクは軽そうに背負っていた。
が、彼の腕力を知っているので、中身はまったく想像がつかない。
中身が風呂敷と同じ大きさの鉄の塊でも、アレクは表情一つ変えなさそうだ。
「いやあ、お客さん、意外と早く死ぬのに慣れましたね。飛び降りの思い切りもいい。人によっては蹴り落としたりもしてたんですよ」
「……素朴な疑問なのだが、あなたはどうして犯罪者として捕まっていないのだ?」
「え? そりゃあ、犯罪者じゃないからですけど……」
「人を殺したら犯罪なのだぞ」
「殺したらですよね。でも、死にませんから。みんなセーブしてもらってますし。お客さんだって生きてるでしょう?」
きょとんと首をかしげる。
ロレッタは、彼とのあいだに妙な隔たりを感じた。
きっと常識の壁なのだろうと思う。
あの人、頭おかしいよ。
「……ところで、私はまた飛び降りるべきか?」
「いえ、もう大丈夫でしょう。あと、喜んでください。ステータスも上がりましたよ。丈夫さが異常に伸びてます。今の数値だと、素人の振った剣ぐらいなら腕で受けて傷一つないですね」
「そんな人がいてたまるか……と言いたいが、あなたの常識だと、剣を素手で受けるぐらいなんでもないのだろうな」
「まあ、皮膚が鉄より丈夫になれば、理論上可能ですから」
「普通の人に不可能という点を除けば見事な理論展開だ」
「なにを言ってるんですか。普通の人にも可能ですよ。不可能なのは、飛び降り自殺を繰り返して短期間でその境地に達することだけです。こればっかりはセーブ&ロードができないと無理ですからね」
「いや、たとえできても、精神的に……ああ、もういい。あなたに常識を説いたところできっと無意味なのだろう……」
普通の人は、無事に済むとわかっていても、飛び降り自殺はしない。
怖くてできない。
どうにもそのあたりの常識が、彼には欠落しているようだった。
「これで修行の第二段階に移れますね」
アレクは喜ばしそうに言った。
ロレッタは死んだ目で彼を見る。
「もうなんでも来い。怖いものなど、ない」
「いい目です。じゃあ、第二段階ですけど、死ぬほど食べましょう」
「……すまない。何度も死んだせいで耳がおかしいのかもしれない。なにか今、修行らしからぬことをせよと言われた気がしたのだが」
「いえ、修行ですよ。駆け出し冒険者に必要なのは、一に丈夫さ、二に体力ですから。何度も死ねるから防御系ステータスはいらないと思われがちですけど、一番やっちゃいけないのは、強い敵にわけもわからず殺されることです。相手を観察して動きを学ばないと、何度も死ねるアドバンテージがありませんからね」
「理屈はわかるが、あなたの発言は、いちいち理屈しかわからない」
言っていることは理解できるが、お前の気持ちはわからない、というやつだった。
考えていることを素直に開示してくれているのは、いい。
だけれど、その考えに至るまでの道筋が一切理解できない。
「なぜ食べると強くなるのだ?」
「HPが上がります。あー……っと、体力というか、死ぬまでの残り時間っていうか、そういうものですね」
「食事なら、普段も普通にしているが」
「でも、食べ過ぎが原因で死んだことはないでしょう?」
「もちろん、ないが……」
死んだことがあったら、生きていられない。
当たり前すぎていちいち意識しないことだった。
「だから、食べて死にましょう」
「すまない。どれだけ説明されても、感情が理解を拒む」
「みなさんそうおっしゃいますね。でも大丈夫。理解しなくても強くなれます」
「そういう話ではないのだが、きっと、あなたにはなにを言っても無駄だろうな……」
「あ、食べて死ねば、太らないみたいなんで、そこは安心してください。変に生き残ると太りますけど……」
「そんな心配はしていない」
言われてみれば、体型の維持は心配するべき事項ではあった。
でも、そんなことを心配するほどの余裕はなかった。
「……まあいい。あなたに修行をお願いしたのは私だ。まだ効果は実感できないが……確かに精神は格段に強くなった気がする。一定の効果はあるのだろう」
「えっ? 精神の修行はこれからなんですが……」
「逃げたくなってきたぞ」
「大丈夫です、俺から逃げられる人は、たぶん存在しませんから」
「なにも大丈夫ではない……その発言だけで心が折れそうだ」
「折れたら折れたで、まあ」
「『まあ』の後に続く言葉はなんだ。頼むから言ってくれ」
「……大丈夫でしょう、たぶん」
「なにがあってもくじけないつもりでいた。そのつもりで、家を飛び出した。しかし、私はひょっとしたら人生の選択を誤ったのかもしれないと、今、思っている」
「ロードします?」
「最後にセーブしたのはすぐそこなので、意味はないな」
「あ、いえ、その、緊張をほぐす小粋なギャグのつもりだったんですけど」
「こんなに心が凍る冗談を聞いたのは、生まれて初めてだ」
ロレッタは、口の中で小さく「おかあさん」とつぶやいた。
意識してのことではなかった。
ただ、あまりの苦境に、つい、口走ってしまったのだろう。
精神修行はこれかららしいので、終わったころには、そんなつぶやきすらできない存在に改造されているかもしれない。
妙に悲しくなってくるロレッタだった。
アレクは柔らかい雰囲気で笑っている。
もう、ただ笑っているだけなのに、怖くて仕方がなかった。
でも修行を頼んだのは自分だ。
それに、どうしても『花園』を制覇しなければならない事情もある。
ロレッタは、頬を叩いて気合いを入れた。
「……よし、覚悟を決めたぞ。修行をつけてくれ」
「袋いっぱいに炒った豆が入ってますから、これをどうぞ」
「わかった。どのぐらい食べればいい?」
「ですから、これをどうぞ」
「うむ、だからな、その、大人が三人は入れそうな、非現実的な大きさの包みに入った豆から、どのぐらいを食べればいいのかと、私はたずねているのだが」
「ですから、この袋いっぱいの豆を、どうぞと、俺は申し上げているのですが」
「あなたは私の胃をなんだと思っているのだ? 自由自在に伸び縮みするとでも?」
「ははは。やだなあ、お客さん。自由自在に伸び縮みしたら死ねないじゃないですか。胃をぱんぱんにして、食道までのぼって、呼吸困難になって死んでくださいと言ってるんですよ」
「ははは。なるほどな。修行をする前に、私から一つお願いがあるのだが、よろしいかな?」
「はい、なんなりと。お聞きしますよ」
「助けて」
「なるほど。お気持ちはわかりました。さ、では、豆をどうぞ」
宿屋店主からは逃げられない。
ロレッタはもう一度「おかあさん」とつぶやいた。
今度は意識してのことだった。