249話
静寂。
誰もいない食堂は物憂げに静まりかえってた――まったくの無音ではない。遠くで酔漢の騒ぐ声がするし、近くでは風呂場ではしゃぐ少女たちの声が響いている。
でも、片付けが済んで食器の一つもなく、椅子は位置が直され整然と並んでいるこの食堂はとても静かだった。
「長生きしたもんだねえ、ぼくも」
ヨミの声が響く。
静かな、つぶやき――だけれど隣にいるアレクには、はっきりととどいた。
「体調はどうだ?」
「最近はずっと平気だよ。お義母さんが見つかったあたりで寝こんだのが、最後じゃない? それからは特になんにもなく、自分でもびっくりするぐらい調子がいいよ」
「そうか」
「だから、心配はしないでいいんだよ」
「お前はいつもそうだな」
アレクは苦笑する。
ヨミは首をかしげた。
「いつも『そう』って?」
「『気にしないで』とか『心配しないで』とかばっかりで、全然俺に気を回させてくれない。俺はさ、そういうの、ちょっと寂しく思ってるんだよ」
「そうなの?」
「ああ。俺が気にしてるってお前が気にしないように気にしなかったり、俺が心配してるってお前が心配しないように心配しなかったり、そういうことばっかりで、逆に気疲れする」
「……そっか。そうだったんだね」
「これからは心配するよ」
「……」
「気にしないでって言われても、俺が気にしたかったら気にする。心配しないでって言われても、俺が心配したかったら、心配する。……責任を感じないでって言われても、やっぱりお前への責任は、感じたいから、感じるよ」
「だから、ずっと、ぼくと一緒にいるの? パパを殺した責任をとるために、アレクはぼくと一緒にいるの?」
「聞こえてたのか、アレックスさんとの会話」
「さあ、どうだろうね。……それで?」
「責任感じゃないさ」
首を横に振る。
そして、彼は、真っ直ぐにヨミを見た。
「責任感だけで一緒にはいないよ。責任感もまた、一緒にいる理由ってだけで。だいたい――責任なんかたまに思い出すぐらいでちょうどいい。常に気にしてたら、そんな関係、息が詰まって仕方ないだろ」
「まあそうだね」
「それにさ、責任を負ってるにしては、俺って身勝手にお前と付き合ってるだろ?」
「……まあ、そうだね」
「俺が今までずっとお前と一緒にいたのは、お前を手放す選択肢がなかったからだ」
「アレクらしからぬ言動だねえ」
「俺も思うよ。でも――振り返って考えてみると、そうとしか言えないんだ」
彼は肩をすくめる。
彼女は首をかしげた。
「ぼくは、ちゃんと、便利だったかな?」
「……お前、わざとそういう言葉を選んで使ってるだろ?」
「そうかもね。それで、どうだったの?」
「……便利だったよ。正直に言う。すごく便利だった。俺がやれないことは全部やってくれるし、そつなくなんでもこなすし、わがまま言わないし、すごく便利だったのは、否定しない」
「ならよかったよ」
「きっとお前は俺を支えることに存在意義を見出してるんだろうと思ったことも、あったよ。ちょっとだけな」
「うん」
「お前こそ――責任を感じてたんだよな」
「……」
「ポッと出の俺に全部背負わせてしまった責任。親が押しつけた責任。親を殺させてしまった責任を、ずっと感じてたんだろ?」
「……そうかもね」
「アレックスさんの存在もあって、ちょっと考えたんだ。……もし俺が俺じゃなかったら、俺がいた場所に俺以外の誰かがいたら、今の俺は俺だったのか」
「まーたややこしいことを……」
「ややこしいこと考えるの、趣味だから」
「……そうだね」
「で、その結果――常に、俺以上の適任はいただろうって思ったよ。『はいいろ』を継ぐのにふさわしいヤツは絶対にいて、『銀の狐団』を支えるのにふさわしいヤツは絶対にいて、こうして宿屋を経営して新人冒険者を支援するのに、俺以上の適任は絶対にいて――アレクサンダーの人生を送るのに、俺よりふさわしい彼だって、実際にいた」
「……」
「ゆずるべきだったかなっていう思いは、実際のところ、まったく消え去っているわけじゃないんだ。生きることに迷いは消えないし、ずっと消えないと思う」
「そうなんだ」
「うん。それでも俺は、生きていくけど」
「……」
「わがまま勝手に、嫌われてもこのまま生きていくよ。それはなぜかっていうと――やっぱり、お前を手放す選択肢がないからだ。俺は俺の人生を生きたいんじゃなくて、お前と一緒に余生を生きたいんだと思う。誰かにゆずれって言われてもさ」
「その物言いは、たしかに身勝手な感じだねえ」
彼女は苦笑した。
彼は真面目な顔でうなずく。
「身勝手でもいいと、俺はもう思ってる。本当に大事なものを守る時には、人にゆずってばかりじゃダメだって、教えられた。それでも――身勝手にやるのは、怖いよ。誰かに怒られたり責められたりは、したくない」
「まあね」
「だから、教えてくれないか?」
「……」
「お前と一緒にいたいのは、俺の身勝手か? それとも、お前もそう思っているのか? 俺に答えを聞かせてくれ。責任を取りたい。手放したくない。今さらお前のいない人生は考えられないと俺は思ってるけど――お前はどう思うのか、知りたいんだ」
「…………」
「お前さえ俺と同じ気持ちなら、世界中が俺の決定を身勝手だと責めたとしても、俺はどうにかやっていけるからさ」
彼は笑い――
彼女も、笑った。
「今さら?」
「……まあ、今さらだけどさ」
「というか今? もっとこう、タイミングとかないのかなあ……」
「ああ、そうか……しまったな。もっと綺麗な景色を見ながら言えばよかったのか……」
彼はどうやら、本気で頭を抱えているようだった。
だから、彼女は笑う。
「正直に告白すると、ぼくはね、きっと『はいいろ』を継いで、『銀の狐団』の頭目になったのがアレク以外だったら、その人を支え続けたと思うよ」
「……そんな気はするよ」
「その人の求めるまま生きてきたと思うし――どんな扱いをされても、自分から離れることはなかったと思うよ」
「……そんな気も、するよ」
「だから、ぼくが幸せなのは、相手があなただったからだよ」
「……」
「いくらでも不幸になったはずのぼくを、幸福にしたのは、あなただよ。……だから自信を持ってほしいな。あなたの身勝手に、ぼくはいつでもうなずくよ。それは、あなたに色々背負わせてしまったからっていうだけじゃなくって――ぼくがそうしたいから、そうしてるんだよ」
「……なるほど、本当に『今さら』だったんだな」
「そうだよ」
「俺でも人を幸せにできたのか」
彼はつぶやく。
彼女は――やっぱり、笑うしか、なかった。
重ねるべき言葉はいくらか思いつく。
語るべき物語も数多く思いついた。
宿泊客たちを例に出してもいい。
彼女たちはあなたの無茶に救われたんだと、そういうことも、言える。
それ以外の人のことを告げたっていいだろう。
娘たちの祖父は、彼に力尽くで救われた――それ以外にだって、彼の人生にたずさわって、人生を変えられた者は多い。
幸福だったよ、と重ねて言うこともできただろう。
それらしい理屈をつけて重ね重ね言うことはもちろん可能だった。
でも――そんなものよりももっと確実なことを、彼女の唇はできた。
口をふさぐ。
説得を放棄し、抵抗を封殺し、理論を放り出し――
いつか、自分たちの関係を『夫婦』と定義した時と同様――
無理矢理に。
彼女は彼に、幸福の味を教えた。




