242話
その話はモリーンにとって降って湧いたような幸運で、とても現実とは思えなかった。
「そろそろ宿屋を始めてみてはいかがでしょう?」
アレクにそう言われたのだ。
本当に唐突だった――真っ昼間の『銀の狐亭』厨房。
料理を作り終え一休みしているところ、急にそんな話をされたのだった。
モリーンは思わず近くにあった大きなフライパンを落としそうになる。
慌てて魔法で落ちかけたフライパンを元の位置に戻し――
「ど、どういうことですの!? わたくしの修行は終わりましたの!?」
「いえ、修行に終わりはないですよ。一生が修行です」
アレクは言う。
モリーンも大いに同意するところだった――きっと自分の修行には一生かかるものだろうと思っている。だって宿屋を経営するということは、アレクぐらい強くなるということなのだから。
だから、突然言われて、困惑した。
意味もなく髪を手で梳いたり、白い頬に手を当てたりしてから――
「では、なぜ……その、わたくしはまだまだ未熟ですので、宿屋経営はまだ早いかなと思っていたのですけれど」
「いえ、というか俺としてはですね、モリーンさんはすでにお金もたまり、一通り仕事も覚えていらっしゃるので、どのタイミングでそちらから切り出してくるのか待っていたぐらいなのですが……」
「わたくしが切り出すべきでしたの!?」
「俺はそう思っていました。ですが、認識の違いがあったようですね」
アレクが微笑を浮かべる。
モリーンはなんとなく彼の顔を見ることができず――というかいつも別に顔を直視はしていないが――彼の背後にあるテーブルを見つめながら、
「しかし……わたくしなんかが、経営者になるなど、いいのでしょうか?」
「不安はあるかと思いますが、いつかは踏ん切らないといけないですからね。使われる身の方が気持ちは楽ですし、ウチで働き続けていただけるのは嬉しいことですが――あなたの目的は子供たちの居場所を作ることでは? そろそろ次の段階にいってもいいでしょう」
「しかし、宿屋経営者にとって必要なものを、まだわたくしはそろえておりませんわ」
「資金はありますよね? 土地と建物はお金があれば買える。資格はまあ、建物を用意してからでも、あなたならとれるでしょう。従業員が必要なら俺が斡旋しましょう。食材などの仕入れルートも同様です。あとは……家具などもまあ、どうにでもなりますし、あと必要なものってなんでしょう?」
「強さが足りませんわ」
「宿屋経営に強さは必要ないですよ」
「………………」
モリーンは『そんな馬鹿な』と思った。
だって、実際、アレクは強いではないか――宿屋経営者のアレクが強い。ならば宿屋経営には強さが必要で……
必要で……
……必要?
「…………本当ですわ!? 必要ない!?」
「逆になぜ必要と思ったのか俺にはわかりかねますが……とにかくあなたは必須要素をそろえていると思いますよ。資格の取得に時間がかかりそうであれば、俺の宿屋の支店というかたちにして、資格がとれてから独立したらいい」
「まあ、なにからなにまで……けれどアレク様、わたくし、そういうことでしたら、まずは一人で色々とやってみようと思いますわ」
「そうですか」
「従業員の方も、アンロージー様のお屋敷にいる姉妹の中に、興味を持っている子がいますのよ。まあその、少々強さの方に不安がありますので、アレク様に修行をつけていただくかもしれませんが……」
「モリーンさん、宿屋従業員にも強さは必要ないですよ」
「…………ハッ!? 必要ない!?」
「なぜ強さ最優先でメンバーをそろえようとしているのか、俺にはわかりかねますが……まあ修行ということでしたら、いつでもご依頼ください。ただ、普通に宿屋経営をしたいならば、俺の宿よりもいい修行場所があるんですがね……」
「まあ、そうでしたの」
「お風呂沸かしとかはウチでないと教えられませんが、普通の経営および仕事であれば、俺より適任の師匠がいたんですよ。あなたがなぜか強さを求めておいでなので、俺が引き続き修行をつけてきましたが……」
「……強くなくてもいいんですのね……」
「宿屋主人がみんな強かったら、王都の平均戦力は高そうですねえ」
アレクは笑った。
モリーンは大きな胸に手をあてて、
「ああ、でも、本当に経営が始まりますのね……わたくしなんだか、不安で死にそうですわ」
「セーブなさいますか?」
「いちおうしておくべきですかしら? あら、あらあら……なんだか、なにをしたらいいかよくわからなくなってきましたわ……とりあえず、これが夢ではないかどうかの確認が最優先ですわね。アレク様、ちょっとわたくしの頭を殴ってみてくださいませんこと?」
「セーブした方がいいでしょうね」
「やっぱり別な方にお願いしますわ」
「その方がいいでしょう。お客さんの中だと、一番手加減が得意なのは――ホーかな」
「ホーさん……ホーさんはダメですわ。ソフィさんのお嫁さんなので……」
「混乱していらっしゃいますね?」
「そうかもしれません。アレク様、わたくし、お部屋で日記を書いてきてもよろしいでしょうか? どうにも毎日のことを記しておかないと、今が夢なのか現実なのか、自信が持てず」
「そうですか。お昼も終わりですし、どうぞ休憩なさってください」
「ありがとうございます」
モリーンは礼を述べて――
ふと、気付いた。
「そういえば、ヨミ様とブランちゃんやノワちゃんがいらっしゃいませんが、わたくしまで抜けて大丈夫なのでしょうか?」
「まあ、もともとみんな出ている時は、俺が一人でやっていましたので。最近は修行のお客様も多くて、俺が宿屋の仕事をやることも少なかったのですが――一通りはできますよ。新しい来客もなさそうですからね」
「そうですか。ちなみに、みなさんどちらへ向かわれたのでしょう?」
「知り合いが来るということで、王都西門あたりまで迎えに。まあ迎えは『ついで』で、食材の買い出しがメインだとか言っていましたが。……実際『ついで』っぽいですね。大人数で行ったあたり、特に……」
「まあ、そうだったのですか。けれど材料は充分にあるようにお見受けいたしますが……」
「ヨミはね、新しい料理を思いつくとすぐに作りたがる。その材料がないとすぐに買いたがるんですよ。俺が修行で出ることが多かった時期はだいぶ我慢していたようだし、暇なうちはあいつの自由にさせてやりたいと思いましてね」
「お二人はいい関係でいらっしゃいますわね。わたくしもいずれ、誰かの伴侶となるのでしょうか……」
「DV男とかには捕まらないでくださいね。なんとなく不安です」
「でぃーぶいおとこというのはなんなのですか?」
「悪い男に引っかからないように。なにかあれば――誰にでも相談できるでしょう? あなたはもう、一人で抱え込むことはしなくていいはずだ」
「そうですわね」
たしかに、そうだ。
過去の自分は一人だった。
責任感が強いとか、恩に報いるために必死だとか、そういう理由を本気で掲げていたけれど――けっきょくのところ、他人が怖かったから、一人で全部やろうとしていただけだ。
今は、違う。
相談相手はいるのだ――いや、この宿に来て『一人で盗賊を捕まえる』と息巻いていたころだって、相談相手ぐらいは見繕うことができた。
だから、仲間ができたというよりも。
信頼を覚えたと――自分や他人を信頼することを覚えたのだと、そういうことなのだろう。
「……ああ、そうでしたわね」
「なにがです?」
「いえ……わたくしが『宿屋経営に強さが必要』と思いこんでいた理由に、思いいたりましたのよ」
「理由があったんですか」
「ええ。……わたくしが求めてるものは『困った時に頼れる居場所』で、宿屋はその一つのかたちにすぎなかったのです。『困った時に頼れる居場所』というのはようするに――頼れる人がいる場所と、そういうことなのですわ」
「なるほど」
「……わたくしはきっと、誰かに頼られる人物になりたかったのです。修行の中でいびつにまざってしまいましたが、志を思い出せましたわ。ありがとうございます」
「なんだかわかりませんが、あなたが満足できたなら、よかった」
「……やっぱり、修行は続くんですのね。今のわたくしでは、わたくしの姉妹たちはともかくとして、アレク様が困っていた時に助けられませんもの。まだまだ、強くならねば」
「……」
「経営しつつ、強くなり、賢くなり、満足できる自分を目指し続けますわ。でもきっと満足することはないのでしょうね。……一生修行というのはようするにそういうことなのだと、わたくしは解釈いたします。違いますか?」
「俺の発言に含蓄を期待しないでください。俺は思うまま、思う通りに言うだけですよ」
「そういうことにしておきますわ」
「本当にそうなんだけどなあ……」
アレクが頬を掻く。
モリーンはそれを見て、笑った。




