222話
「ねえブラン、ブランってば、どうするの? もう帰るの?」
さっきからノワがしつこい。
たぶん返事をしない自分も悪いのだろうと、ブランは思う。
それどころじゃないのだ。
頭の中で色々な情報が渦巻いている――傾向と対策。反省点と改善点。
背を向けたけれど、ブランはまったくあきらめていなかった。
なにかあるなら、それがなにか知る。
その意思に揺らぎはなく、むしろ強くなったぐらいだ。
だって、手順がようやくわかったのだ。
迂闊だった。考えなしだった。相手が秘密にしている情報を引き出すなら、なんらかの材料が必要だなんて、しっかり考えればわかるはずだった。
「ブラン、ブランってば、帰るの? 帰るなら、さっきセーブしたから――」
サクサクと昼の草原を歩いていく。
帰る。
帰る、だろうか――一度、帰るべきだろうか?
でも答えを得てもいないのにすごすご家に帰るだなんてなにか嫌だ。
交渉材料を用意したい。
なにが考えられる?
お金。――お小遣い程度しかない。そんなお駄賃で買えるような情報ではないだろう。
情報。――ブランの知識は本を読めばわかる程度のものしかない。誰でもわかる情報に価値があるとは思えない。
二つ考案しただけで、もう手詰まりだった。
情報にお金を払う。情報に情報を払う。それ以外になにが払えるんだろう?
「!? ぶ、ブラン、ブラン!」
「……なんですかさっきから! 私は今、色々考えてるんですよ!」
「逃げよう!」
「……今、逃げるようにすごすご王都に向かってる最中ですけど」
「違うの! なんか、なんか追いかけてくる!」
言われて、振り返る。
すると――異様なものが見えた。
それは躍動する巨大な筋肉だ。
猫耳を頭に生やした、黒い毛並みの老いた獣人が、すさまじい速度でせまってくる。
なんだろう、別にこれといった理由もないのだが――穏やかな表情のままこちらに全力ダッシュしてくる巨体というのは、それだけで怖い。
ひき殺される――生物として根源的な恐怖が、ブランの頭のてっぺんから尻尾の先へ駆け抜ける。
「おーい、待っとくれー」
息も切らさず、筋肉塊――先ほど自分たちに『二度と近付くな』と言ったはずの老人は、真っ直ぐこちらへ向かって来る。
ブランはノワの手を握って、
「なにのんびりしてるんですか! 走りますよ!」
「ノワがさっきからそう言ってるのに! ブランのアホー!」
姉妹は手を取り合って走り出した。
全力で走る――息を切らせて、今までこんなに必死になったことがないというぐらい、一生懸命足を動かす。
振り返る。
距離は縮まり、巨大な筋肉塊と、穏やかな、浅黒い老人の顔がどんどん近付いてくる。
「おーい、二人ともー、待っとくれー」
待てるわけがなかった。
すさまじい圧迫感だ。もう老人なのか筋肉なのかさえよくわからない。
あの筋力量はほとんどお伽噺の領域である――ファンタジーな筋肉塊。現実味のないナニカが背後から迫り来る。
ノワもブランも、足は速い。
しかしそれは同じ年代の子供たちと比較した場合だ――未だ普通の子供、未だアレク式英才教育を受けていない二人にとって、老人とはいえ筋肉塊の速度はとても振り切れるものではない。
「ぶ、ブラン、速い、速いよ!」
手をつないでいるノワが遅れ始める。
運動はブランの方が得意だった――勉強もそのはずなのだけれど、ノワは『式がわからないけど答えだけは合っている』というタイプなので、成績は結果的に同じぐらいだ。
手をつないでいる。
つながない方が、もちろん速い。
体力的にも速度的にも、ブランにとってノワは重荷だ。
それでも、
「しっかり!」
叱咤して、手を引っぱる。
でも、無理だった。
ノワの足がもつれて、バランスを崩す。
引っぱられるようにして、ブランも体勢が崩れる。
二人は絡まり合うように転んだ。
ごろごろと柔らかな草地を転がり、何度か上下を入れ替えて、止まる。
「おやおや、大丈夫かね!?」
老人の声が近い。
ブランはノワと抱き合うように草地に寝そべりながら、声の方を見る。
すぐそこに筋肉。
浅黒く巨大な手が、自分たちに差し伸べられていた。
「まったく、急に走るから転ぶんじゃよ」
仕方ないなあ、という感じに筋肉が言う。
いや、筋肉ではない――筋肉でもあるのだけれど、どちらかと言えば、老人だ。
「……なんで追いかけて来たんですか?」
近寄られて、冷静になれば、逃げる理由もなかった。
むやみに怖がってしまったことを恥じつつ、ブランは老人に問いかける。
老人は固まる。
しばしの間は、逡巡だろうか――語ろうか、語るまいか、そんな悩みが見えた。
「……やはり、君らを二人きりで放り出すのは危険だと思ったから、かのう」
なにかを隠しているような物言いだった。
たぶん、明確な理由があるのだ――はぐらかされている。ブランはそう感じて、反射的に本当の理由を問いかけそうになった。
でも、こらえる。
交渉材料がない。
この老人の口をこじ開けるだけのものが、今の自分には、ないのだ。
「儂の方の理由はともかく、二人とも、ケガはないかね?」
「ノワ、大丈夫ですか?」
抱き合った姉妹へ問いかける。
ノワは無言で首を縦に振る――大丈夫、ということだろう。
老人は。
あからさまに、心から、安堵したような息をつく。
「そうか、よかった。……おどろかせてしまったかのう」
「……いえ。まあ、その、おどろきましたけど……」
「王都まで送ろう。早く帰った方がいい」
「……?」
焦燥感――いや、それよりもっと焦ったような感じ、だろうか。
切迫しているとさえ言える心情が、隠し損ねたかのように老人の言葉の端からのぞいていた。
「さ、早く」
老人が急かす。
ブランは彼に逆らおうとは思わなかった――ただ、なかなか動けなかった。
これは悪い癖だ。
疑問があると、止まってしまう。
謎が見えると解こうとしてしまう。
……もっとも、その停止はわずかな時間でしかない。
だから仮にブランがすぐに老人の提案に従ったとして――間に合わなかっただろう。
――土煙が見えた。
老人の巨体、その背後であがる煙と、なにか速いものに踏み散らされ、舞い上がる草をブランの視界は捉える。
「……間に合わんかったか」
老人が苦々しくつぶやく。
そして、ブランとノワに背を向け――土煙の方向を、見た。
ブランは巨体の横から顔だけ出して、草を巻き上げるものの姿を捉える。
それは四足歩行の、縞柄の、大きな牙が生えた黄色い生き物――騎乗動物にまたがった、十人からなる猫獣人たちだ。
誰も彼も、武器を所持している。
ナイフにスリングショット、それから、魔法を発動するための杖。
猫獣人たちは、共通の刺繍が入ったマントを身につけていた。
それは、球体をくわえた猫の顔――猫球旅団の、旅団紋。
……そこまで確認した段階で、老人が、大きな手でブランの視界を覆う。
隠すような、動作だった。
「おい! 背にかばっているものを見せろ!」
集団の中から、灰色の毛並みの中年男性が、騎乗したまま歩み寄る。
その口調は強かったが、横柄という感じではない。
切迫感。
老人の言葉の端から漏れたものと同じぐらいに、彼もまた追い詰められているという印象。
周囲にいる他九人の猫獣人たちもまた、同じように、なにかを畏れる顔をしていた。
見ているだけで緊張感が伝わってくる――一見して尋常ならざるその様子。
「……逃げよ」
老人が小さく、ブランたちにだけ聞こえる声でつぶやく。
なぜ、と問いかけたい。
けれど、問いかけられない。
「もう一度だけ言う。背にかばっているものを見せろ」
先ほどよりも静かな口調で、追手の男性は言った。
けれど、荒さが抜けたぶんだけ、切迫感はより色濃くなっていた。
老人は動かなかった。
背にかばっているもの――ブランとノワを、見せようともしない。
「そうか」
ビシュッ、という風を切る音がした。
老人の体が、一瞬、ぐらつく。
「おじいさん?」
ノワが。
なにが起きたのか確認するためだろう、老人の体の横から、顔を出した。
その瞬間、ざわめきが起こる。
ブランが慌ててノワの体を老人の背に戻した時には、もう遅かった。
「――祟り神の双子」
集団からそんな声があがった。
なんのことかはわからない――だが、ブランの聞いた声には、先ほどまでとすら比べものにならないほどの緊張があった。
逃げるべきだ、とブランは思った。
でも、逃げ切れない、と判断した。
相手は騎乗動物に乗っているので、速度差から逃げ切れる見込みは薄い。
なんらかの奇跡が重なって王都へ逃げ切れたとして――とても、この場を逃れたらあきらめてくれるような、軽い雰囲気でもなかった。
なんとなく――明確な理由もないのに、それでもひしひしと、感じた。
「私たちは、なんなんですか?」
ブランはついに問いかけた。
知的好奇心がどうとか言っていられる状況でないのは、わかる。逃げ切れる見込みがあるならば、逃げるべきだとは、感じる。
でも、きっと無理だろう。
だって、ブランは見てしまったから――自分たちをかばった老人が、流した血を。
先ほどの風切り音は、スリングショットの弾丸が飛んだ音だ。
猫獣人の中年男性は、同じキャラバンメンバーのはずの老人を、容赦なく撃った。
こんな、王都から見えるかもしれない開けた場所で、撃ったのだ――人に見られれば憲兵を呼ばれるかもしれないのに。
老人は深く息をつく。
痛みをこらえるためなのか、それとも、他の心の動きゆえか。
重苦しく。
痛々しく。
「君らは――儂の孫じゃ。昔に追い出された娘の産んだ、孫じゃ」
老人は語る。
――どうしようもない、理不尽な物語。
不幸な偶然が重なった末の、抵抗できない運命の奔流。




