212話
「夜分遅く失礼いたします」
男性の声に、少女は顔をあげる。
夜は遅いが眠っていなかった。
ずっと、満足に眠れていない。
そのせいでやつれてはいるけれど――美しい少女だ。
赤い髪。
赤い瞳。
赤や桃色の髪は、貴族に多い――王家の桃色と血が近いためとされている。
着せられているのは美しいドレス。
生気もなく腰掛ける姿は、どこか人形めいている。
少女は顔の半分を仮面で隠していた。
左半分だ。……傷がある。その昔、誘拐をされた時についた傷だ。
少女は右目で男性を見た。
窓のない部屋、ドーム上の空間。
出入り口が一カ所しかないこの場所に、男性は気配も感じさせず、いつの間にか立っていた。
不可思議な見た目をしている。
獣を思わせる意匠の面を顔の横にかぶり、灰色の毛皮のマントを身につけていた。
光のない空間で、ボウッと浮かび上がって見える。
亡霊めいた無気味な雰囲気。
男性は笑顔のまま一礼する。
それから、述べた。
「俺の名前はアレクサンダーと申します。アレクでもアレックスでも、お好きなように呼んでいただければ」
「……お前、なんだ?」
誰だ、とは聞かなかった。
名前は今聞いた。種族は見れば人間だとわかる。それよりなにより、そいつが人には思えなかったから。
「その質問は困りますね。『はいいろ』の名前も、『狐』の名前も、『輝き』の名前も、あなたは使っていない。まして『輝く灰色の狐団』も『銀の狐団』もこの件には無関係だ。……まいった、俺らしくない行動だったか」
「……」
「まあ、途中でやめるのも、らしくないか。……今回の目的を申し上げますと、極めて個人的な事情で恐縮なのですが、あなたをさらいに来ました」
「いいぞ、好きにしろ」
少女はどうでもよさそうに言う。
実際、なんでもよかった――もうこの部屋に閉じこめられて長い。最初のうちは脱出しようとがんばってみたが、あらゆる抵抗を封じられて、心はとうに折れている。
この場所から連れ出してくれるなら、それが誰であれ、なんであれ、救いだった。
でも、少女はおとずれた救いに喜ぶ精神力さえ、すでに失っていた。
「私は疲れた。もう――なんでもいい」
「それは困りますね。あなたにはやっていただきたいことがあるのに」
「身代金目当ての誘拐なら他をあたった方がいい。私の顔のせいで父の用意した縁談が駄目になったらしい。この家はいずれ衰退する。……まったく、在庫処分と金策を同時に行おうとするから失敗するんだ。私以外の娘がいればよかったのかもしれないけどな」
「あなたの家が衰退して、あなたは困らないのですか?」
「……滅べばいい、こんな家」
少女はボソリと語る。
そして、傷のある――仮面で隠された傷のある顔の左側を覆った。
「傷があるから。貴族だから。……そういう理由をさも大事なものみたいに語って、そんなものに振り回される家なんか、滅べばいい。私じゃない私を押しつけて、その役割をこなせないなら蔵にしまいこむような家なんか、嫌いだ」
「一応、裏をとりましょうか」
「……裏?」
「――ラウラさん、メリンダさんとリンジィさんを覚えておいでですか?」
覚えていないはずがなかった。
だって、思い出だけが娯楽だったのだから。
……輝ける幼い日々。日が暮れるまで続いた楽園での記憶。それを思い返すことだけが、この空間で精神を壊さずにいる方法だった。
登場人物を忘れられるわけがない。
黒い髪の姉と、白い髪の妹。
夕暮れの向こうに去って行った二人を追い求めない日はなかった。
「二人が、なんだ?」
「その二人が、あなたによって借金を背負わされています」
「……馬鹿な。なんで私が、あいつらにそんなことをしなければいけない」
「まあ、そういう話になっているということです。事実ではないようですね。こちらの調査結果でも、犯人はあなたではないとなっていますし」
「当たり前だ。私は……私こそ、あいつらに迷惑をかけてしまったのに」
顔の傷をおさえる。
幼い日の約束。
まだ現実の汚さもくだらなさも知らなかったころの記憶。
……いや、本当は知っていたのかもしれない。
祖父の死。それを心配するフリをする家族。祖父の前では必死にご機嫌をとって、裏では悪態をついて、早く死ねと笑い合う父たち。
汚いものはあった。
綺麗なものは、リンジィとメリンダと遊んでいた昼下がりだけだった。
でも、当時のラウラは、自分たちの家族と、リンジィたちしか知らなかった。
……だから、自分たちの家族だけが汚くて、他の場所は綺麗なんだと、そう、思ってしまっていたのだろう。
「……私は、言わなかった。ずっと、屋敷を抜け出した本当の理由を言わなかったんだ」
友達に会いに行く。
……その途中で誘拐された。
だから、誰に会いに行くかを――誰かに会いに行くために抜け出したのだということを、絶対に言わなかった。
言ったら絶対に迷惑がかかるから。
でも。
「……耐えきれなかったんだ。ずっと、閉じこめられていた。誘拐されて、助けられてから、今までずっと、十年近く――いや、もう正確な時間さえ、わからない」
「……」
「数日とか、数週間の、おしおきだと思っていた。でも、予想よりも長く続いて、今もまだ続いている。脱出を試みたけど、全部失敗した。出たかった。なにをしても、出たかった。あいつらに会いたかった」
「……」
「会いたかったのに――いつの間にか、『外に出たい』ということだけしか、考えられなくなっていった。会って無事を知らせたかったんだ。ずっと会いにいけなくてごめんって、言いたかったんだ。だから、出たくて、出たくて、だから、出してやるって言われて、それで――」
言ってしまった。
屋敷を抜け出した目的を、言ってしまった。
会いに行こうとしていた友達の名を、白状してしまった。
……白状する前から、すでに知っているような雰囲気ではあったけれど。
顔がうずく。
傷が、燃えるようだ。
だから、かきむしる。
……かきむしるから、仮面をつけられて、鍵をかけられている。
「私のせいだ。たぶん、私のせいで、怒った父が、あいつらに報復したんだ。だから、私のせいで」
「落ち着いてください」
「もう嫌なんだ。謝らせてくれ。お願いだ、会わせてくれ。ずっと外に出てない。私の記憶は夕暮れで止まっている。あいつらが去って行く。日が沈む。ずっと、ずっと、沈み続けている。昼下がりに帰して。私を、あの明るい世界に、帰して」
カリカリと顔の片側を覆う仮面をかきむしる。
右目からは涙がこぼれた。
でも、表情は動かない。
動かし方は、もう覚えていない。
彼は笑っている。
まねのできそうもない、完成された笑顔だった。
「では、こう言ってしまってもいいのかな」
「……?」
「あなたをさらいに来たと言いましたが、どうやらそうではなかったようだ。――あなたを救いに来ました。あなたをとりまくすべてを、どうにかしましょう」
「……どうやって」
「こういう時、俺がとってきたのは、『説得』という手段です」
「……そんなもので、あの父がどうにかなるものか。あれは、あいつは――理屈なんか通じない。貴族という名前の狂人だ。権威と血統でしか人を見ることのできない濁った瞳の怪物だ」
「ご心配なく。怪物を説得する方が、人を説得するより簡単です」
「……」
「俺はあなたをここから連れだし、あなたのお父様を説得しましょう」
「……なんで、そこまでしてくれるんだ? お前は私の作り出した、私にとって都合がいい幻なのか?」
「そうかもしれません。俺は幻かもしれない。でも、あなたの身に起こることはまぎれもない現実で――」
彼の笑顔が変わる。
そして、どこか寂しそうに、
「――きっと、次に幻が必要になった時には自分でどうにかするしかない、今日限りの奇跡だと思いますよ」




