211話
「私はお前の髪が好きだ。白くて細くて、優しい感じがするから」
ラウラは、メリンダの髪をいじるのが好きだった。
細くて触り心地がいい、真っ白で綺麗だ、妹の髪をいじってみたかった――色々と理由を言われたようにメリンダは覚えている。
どれも真実で、全部嘘だったのだろう。
ラウラはコロコロと考えが変わるのだ。
飽きっぽくて集中力がないんだから――リンジィはラウラのことをそのようにあきれて、でもちょっとだけ愛しそうに述べていた。
一方でラウラは、このように反論する。
「違うな。私は一瞬一瞬を燃え上がるように生きている。だからお前が少し前に話した私と、今の私は違う生き物なんだ」
たぶん本人もなにを言っているかわかっていなかっただろう。
まだ幼かった。本かなにか、それも自分が読んだ本ではなく、誰かに読み聞かされた本の受け売りのようにメリンダには思えた。
ただ、『燃え上がるように』という言葉はラウラらしいなと、当時の幼いメリンダにさえ思えた。
彼女の赤い髪と赤い瞳は、真実燃えるような輝きを放っていたから。
通ってどのぐらいだっただろうか、ラウラと仲良くなったのは。
二回目に会った時にはもうこんな感じだった気もするし、仲良くなるまでそこそこの時間がかかったような気もする。
ともかく、ラウラは幼いメリンダをたいそうかわいがった。
光のどけき中庭、緑と花に彩られた金色の昼下がり。真っ白いテラス。
真っ赤な髪のラウラの膝に、真っ白いメリンダはいつもいて、それを横で見ている、真っ黒い髪のリンジィ。
お茶の香りと、お菓子の甘い香り。
ラウラからはそれとはまた違ったいいにおいがして、メリンダの髪をいじる手つきも丁寧で優しかった。
なにをしていたと問われると困る。だってなにもしていなかった。
座って、お話をしていた。
他愛ない雑談。でもそれだけでとても幸福だった。
ラウラとメリンダとリンジィ、三人でいる時、時間の流れはやけにゆったりとしていた。
日が暮れて祖母が用事を終えるまで、ずっと寄り添うように三人一緒だった。
楽園。
壊れるまで、まぎれもなくそこは、優しいだけの綺麗な世界だった。
「ちょっと冒険しよう!」
ラウラの提案はいきなりだった。
でも、いつものことだ。話の始まりも、話の終わりも、全部いつでも、ラウラは突然だ。
三人の楽園に、決まりは一つだけ。
日が暮れたら終わり――それだけが、暗黙の了解で、それ以外のルールは、ラウラの気分次第だった。
だから、いつもテラスでお茶をしてしゃべるだけだったけれど、別に『テラス以外の場所を歩いてはならない』というルールなんか存在しなかった。
ただ――リンジィは、反対した。
「大丈夫なの? ラウラはともかく、私たちは、このお屋敷の子じゃないのに」
「私がついてるから心配するな!」
「ラウラがついてるから心配なんだけど……メリンダはまだ小さいし、もし怪物に襲われでもしたら……」
「……怪物?」
「貴族様はお屋敷で怪物を飼ってるんでしょう?」
「…………? そうなのか? うちにはいないぞ?」
「そうなの?」
リンジィが述べているのは、『貴族は生意気な平民を集めて飼っている怪物に喰い殺させて楽しんでいる』というおとぎ話の内容だった。
そして、そのおとぎ話はこう結ばれる――『だからわがままばっかり言うと、貴族様のお屋敷に置き去りにしちゃうぞ』と。
ようするに子供を教育するための創作物語なわけだが、幼いころのリンジィには、真実と物語の区別がつかなかったのだ。
「怪物がいないなら問題ないな! 行こう!」
ラウラがあらためて提案する。
リンジィも、もう反論しなかった。
貴族の屋敷の中庭を歩く。
それはメリンダたちにとっては大冒険だった。
花のアーチをくぐっていく。
緑の壁で区切られた花園は、まるで迷路のようだ。
リンジィが言う。
「貴族様のお屋敷の花は、夜な夜なこっそり人の養分を吸っている」――それもまたおとぎ話だったけれど、花園で迷っていたメリンダには泣くほど怖ろしい怪談だった。
迷路を抜けて、湖を船で渡る。
そこは本当は『大きな水たまり』であり、夏場は泳ぐために使われている場所らしいのだけれど、怖ろしい化け物が潜んでいるような気がして、船の中でメリンダはドキドキが止まらなかった。
屋敷の人に見つからないよう進んで行く。
大冒険に次ぐ大冒険。
輝ける昼下がり――終わりを告げて、夕刻へ。
景色が赤く染まっていく。
ラウラの髪や目と同じように、世界が炎のようになっていく。
「ああ――今日も、もう終わりか」
いつもの白いテラスに戻った時、ラウラがふとつぶやいた。
今までにはなかったつぶやきだ。
……たぶん、長い別れを予感していたのだろう。
リンジィとメリンダがこの屋敷に来ていたのは、あくまでもラウラの祖父に薬をとどけるためなのだ。
症状を見てからそばで調合をしているから、毎日時間がかかっている。
メリンダの家はもとより薬を作り置きせず、診察してから適切な調合をするというこだわりを持つ薬屋だった。だから、今までは薬を調合し、昼と夕方の二回飲ませるまで、遊んでいられた。
すべては、ラウラの祖父のための滞在だった。
だから――
「もう、おじいさまは長くないらしい」
その言葉ににじむ寂しさは、祖父が亡くなることに対するものではなかった。
貴族の家族関係はメリンダにはよくわからないが、ラウラは祖父の死をあまり重要視していなかったようなのだ。
家族全員がそうだと言っていた。
家族全員が、心配もしていないのに心配しているフリをしていて気持ちが悪いと、ラウラは漏らしていたのだった。
でも、ラウラは『フリ』をしたくないらしかった。
本気で心配していないのに、ご機嫌うかがいをするのはなんか卑怯で嫌だと、そういうことを、唇をとがらせて言っていた。
だから、悲しくはないのだろう。
彼女が悲しんでいるのは、
「お前らとも、もうすぐお別れなんだな」
楽園は暮れかけていた。
幼い三人は、二人と一人に戻る。
あとは立場という壁が立ちふさがるだろう――貴族と平民。昔に比べればその隔たりはずいぶん埋まったようだけれど、未だにそこには、大きな溝があった。
少なくとも、呼び出されてもいないのに、平民が貴族の屋敷に来ることは許されない。
また、貴族の子が平民にまじって遊ぶのも、許されなかった。
それでも。
「でも、また会おうな」
彼女はニカッと笑った。
リンジィがあきれたように肩をすくめる。
「どうやって?」
「私、会いに行くよ」
「……どうやって」
「今日みたいに、大冒険をして、会いに行く」
「……」
「だから、待っててくれよな。そしてまた、お茶をしよう」
「…………」
リンジィは黙っていた。
……ラウラ、メリンダ、リンジィ。この中でもっとも現実的な提案ができたのは、リンジィである。
ラウラは向こう見ずだったし、メリンダは一番幼く、自主性がなかった。
だからここでラウラを止められたのは、リンジィだけで――
「待ってるわ」
――今から思えば、それもまた、最強に見えたリンジィの弱さだったのだろう。
姉は断らなかった。ラウラとの別れを、彼女もまた惜しみ、耐えきれなかったのだ。
こうして幼い約束は交わされる。
それは身分や立場を超えた美しい友情だったのかもしれない。
でも、現実を見ていなかった。
身も蓋もない話だ。
なぜ平民がみだりに貴族の屋敷をおとずれてはならないのか。なぜ貴族が平民とまじって市街で遊んではならないのか。
立場の差、血統の差。……それもあるだろうが、もっと実際的な理由があったのだ。
金銭目的の誘拐や傷害。
王都の治安は悪くなかったけれど、南西部にはスラム街があって、貴族などと平民とでは資産に差があった。
街を貴族の子女が護衛も連れずフラフラしていたならば、それは一部の者にとって金銭が転がっているも同様である。
……悲しいかな、金持ちと貧乏人との棲み分けはこのような犯罪を減らすという効果も持ち合わせていた。
ラウラは資産や人種で人を見なかった。
でも、ラウラを資産や人種――人間、魔族ではない、平民、貴族という人種で見る者は数多くいる。
世界が綺麗なものだけでできていないことを、誰も知らなかった。
だからラウラは誘拐に遭って――
顔の半分に、大きな傷を負ったらしい。
そのせいでラウラは外を歩けなくなったようだ――それほどひどい傷なのか、それとも傷を負った娘をラウラの父が閉じこめたのか、肉体以外に精神に傷を負ったのか、真相はわからない。
……リンジィもメリンダも、実際にラウラを見たり、話したりしていない。
ただ、そういうことだから、もうウチには来ないでくれと、祖母がラウラの家の使いから言われているのだけは、聞いた。
ほどなくして祖母が亡くなる。
そして、久しぶりにラウラの家から薬の依頼が来て、リンジィもメリンダも奮起して――
今。
副作用の補償で様々なものを奪われようとしている。
……本当は副作用なんかないのかもしれない。
薬を使う相手――ラウラの様子をかたくなに見せず、本人を見ずに伝聞だけで薬を用意しろというあたりから、とうにおかしかった。
騙されているのだろうと、そういう気持ちも、ないわけじゃない。
でも、補償の必要性だけは認めていた。
ラウラを変えてしまった責任。
リンジィは、ラウラの傷を自分のせいだと思っていた。
その姉を支えたいと、メリンダは思った。
幼い楽園の残滓が、まだ二人の中には残っている。
それは失った方が楽かもしれない、身を焦がすばかりのまばゆさだった。




