198話
『いつもの』。
アレクがそのように表現した修行を終えて、ネイはいよいよ『風鳴りの塔』に向かうことになった。
修行の内容は――ネイには表現できない。
それは己の命を羽毛のように軽くする儀式でもあり、自身の体がなにによりかたちづくられているか紐解く生物学のようでもあった。
命とはなんだろう。死とはなんなのか。そして――復活とはどういうことなのか。
復活という工程を挟む前の自分とあとの自分は、果たして同一の存在なのだろうか? 生命の完全停止から再び鼓動を開始する十数秒のあいだに、己という存在はどこで過ごしているのか。
生きるとは。
死ぬとは。
人はなにによってかたちづくられるのか――思想、信念、そして性格、なにより記憶。それから肉体的特徴にいたるまで、ネイは復活前の自分と復活後の自分でなんら差異がないものと認識している。しかし差異がなければ同じということでいいのか? そもそも、ネイが認識していないだけで死後と生前で自分にはなんらかの、無視できない変質が起きているのではないか――
セーブ&ロードという現象。
これを、幾度かの死の果てに理論的に理解しようとネイは試みた。
しかし――無理だ。
突き詰めて考えていくと、心が悲鳴をあげる。
だから、たしかなことは一つだけ。
ネイは今、生きている。
そして――この体は、豆でできているのだろう。
「というわけで、こちらが『風鳴りの塔』になりますね」
ネイはハッとする。
いつのまにか、目的地についていたらしい。
周囲を見回す。
山の稜線の向こうに沈んでいく光が見えた。
――夜が、来る。目の前にそびえ立つ塔は、逆光を受けて無気味に影を落としていた。
『風鳴りの塔』――古いダンジョンだ。
かしいだ円柱形の建物。
外壁はオレンジがかった茶色の石材でできている。
経年劣化のせいか、当初から設計にミスがあったのかはわからない。ただ、その塔はかたむき、パラパラと外壁の欠片をこぼしながらも、長く長く――その朽ちかけている様子のまま、変わらず、ネイが知るだけでも五年以上、この場所にあり続けていた。
ネイが見つめる先で――塔が、吠える。
それは甲高い女性の悲鳴のようでもあり、怨念のこもった死霊の声のようでもある。
風鳴り。
常に風が吹き抜ける場所に存在するこの塔。
その全体を、強風が通過することにより、塔はいつでも怖ろしい鳴き声をあげているのだ。
「面白くないダンジョンです」
と、アレクはこの塔を紹介する。
面白くない――その言葉の真意とは。
「普通、レベル八十のダンジョンともなると、ダンジョンを構成する素材が特殊だったり、張り巡らされている罠が極度に悪辣だったり、塔内部に巣食うモンスターが特徴的だったりするものですが――この『風鳴りの塔』は、そういう特徴がいっさいありません」
特徴のないダンジョン。
……それでレベル八十ということは、つまり。
「このダンジョンは、普通に、難しい――あらゆる技能が問われます。なにか一つにだけ特化していれば適性レベルより低くとも攻略できるような場所ではない。むしろ、一芸特化の冒険者が挑もうと思った場合、たとえその人がレベル百でも苦戦し、命を落とす場合がありうるでしょう」
「……ウチは、これといって特技のない冒険者なんですが」
「はい、そのようですね。主人公みたいなステータスしてました」
「……主人公?」
「こちらの話です。まあ、よく言えば万能型、悪く言えば器用貧乏、あえて特徴を探すならば速度と魔力がやや高い、手数で翻弄する魔法戦士、という感じでしょうか。……ちなみにあなたの武器はなんですか?」
「ウチの武器はペンです!」
「……それは剣より強そうですね」
「とか言えたら格好いいんですけどね! ……はい、修行で使う機会はなかったっていうか、使わせてもらえませんでしたけど、ナイフを結構いっぱい持ってます。基本は採集用なんですけど、モンスター相手には投げたりしてますね。たまに間違ってペンを投げたりしますけど」
「なるほど」
「アレクさん的には、もうウチはこのダンジョンに挑んで大丈夫――っていう判断なんですよね?」
「そうですね。ただ一点、心配事があります」
「なんですか?」
「あなたのお父様のことです」
お父様。
……それは、つまり。
ネイは首飾りを握りしめる。
鋭い形状の、牙の首飾り――
両親がどこかのダンジョンで手に入れ、ネイにくれた戦利品――形見の品。
「モンスター化した、ウチの、父ですか」
「はい。俺はダンジョン内を一通り捜索しましたが、これといって特別なモンスターとは遭遇できませんでした」
「……」
「すでに亡くなられている可能性もあるかもしれませんが――あるいは、ダンジョンマスターの部屋にいる可能性は、ありますね。俺はダンジョンの下見の際、ダンジョンマスターの部屋だけは見ませんので」
「もし、父がダンジョンマスターの部屋にいたら――」
「可能性その一」
「……」
「ダンジョンマスターと、あなたのお父様、両方を相手取らなければならない状況に陥る」
「……まあ、はい。そうですね」
「可能性その二。ダンジョンマスターがお父様を殺してしまっているので、ダンジョンマスターだけ倒せばいい」
「……」
「可能性その三は、可能性その二の逆ですね。ダンジョンマスターを、モンスター化したあなたのお父様が倒してしまっているから――あなたは、お父様だけを殺せばいい」
「……はい」
「可能性その四は、どちらもいないパターンですね。モンスターはいましたが、ダンジョンマスターがいなくとも、掃討作業が済んでいなければモンスターは存在しますから。その場合は気になることができますけど」
「……?」
「いえ、まあ、終わったあとに少し考えてみてください。今はダンジョン制覇に集中しましょうか」
「はい」
「とはいえ、俺から申し上げられることはもうありません。スタンダードな、上にのぼるタイプの塔型ダンジョンです。普通に罠があって、普通にモンスターが出て、普通にダンジョンマスターがいます。お手本にして基本のような――迷宮です」
「……はい」
「セーブポイントを出しましょう。特徴にとぼしいだけに、どう死ぬかが読めない。じっくり時間をかけて、ゆっくりと制覇をしてください。くれぐれも、焦ったり、動揺したりしないように」
「…………」
ネイは深く呼吸する。
何度も、何度も。
――ついに、来た。
この機会は今を逃せば一生ないだろう――直接攻略。それができれば、もちろん一番早いけれど、それができないから、遠回りを続けてきたのだ。
一人でなんでもは、できない。
だから――一人じゃなくなろうと思った。
強さはもちろん、ほしかった。でも、レベル八十というのは、ネイにとって途方もない。
だから、仲間がほしかった。……でも、誰も信じてくれなくて、『モンスター化した父を殺してあげたい』なんていう都市伝説のために、死ぬ危険性の高いダンジョンに付き合ってくれる人なんか、いなかった。
騙すようなことをしたら、もっと簡単に協力を取り付けられたのかもしれない。
でも――嘘はつきたくなかった。
自分は実利を見込んで正直で在り続けたつもりだった。たった一度でも嘘をついてしまったならば、それがバレた時に、自分がした話の全部を嘘だと思われてしまうだろう――そんなふうに考えていた。
嘘をつくリスクは高いと、そのように判断して、人を騙すようなことはしなかった。
そのつもりだった――けれど、実際のところ、客観的に見て、意地のようなものも、あったかもしれない。
誰も信じてくれなかったから。
その人たちに向かって、『自分は嘘なんかついたことがないぞ』と、そういう誇りを持っていたかったのかも、しれない。
……そうだ。信じてほしかった。
叫んでも叫んでもこの声はとどかない。
どれほど真実を述べたって、人は信じたいことしか信じない。
「……本当にウチの父はモンスターになったんでしょうか?」
ネイは問いかける。
それは――一度たりとも口に出したことがなかった、弱音だった。
「誰も信じてくれませんでした。当時、ウチは必死に叫んだのに、みんな、錯乱してるんだろうとか、かわいそうにとか、そう言うだけで、信じようともしてくれませんでした」
「まあ、そうでしょうねえ」
「それでも叫び続けたら――おかしい人と、思われました」
「まあ、それも、そうでしょうね」
「……おかしいと言われ続けるうちに、自分の見た光景は本当だったのかって、自分でも、疑うように、なってきました」
「……」
「アレクさん、ウチは正常でしょうか? ウチの言っていることは、やっぱりおかしいように聞こえるんでしょうか?」
相手がアレクだから問いかけた――わけでは、なかった。
今、『風鳴りの塔』に挑もうというこの瞬間、隣にいたのがアレクじゃなかったならば、その人に問いかけていたことだろう。
けれど、結果的に――
「あなたがおかしいかどうかは、重要ですか?」
――非常に、アレクらしい答えが返ってきた。
まさかの疑問形式である。
「……いえ、その、おかしいかどうかは、重要だと思いますけど……」
「では、あなたがおかしかった場合、どうなるので?」
「…………どう、というのは?」
「あなたは『風鳴りの塔』制覇をやめますか?」
「……まあ、やめませんけど……記事の貼りだしの件もありますし……たとえ中でモンスター化した父を倒せたとしたって、世に『人のモンスター化可能性』を知らしめるのは重要っていうか……あれ? 記事を書く理由がなくなる?」
自分がおかしいとなったら、真実は『父はモンスター化していない』ということになる。
そして『父はモンスターになっていない』というのが真実だった場合、自分が記事を書く動機がなくなる。
だから『記事を冒険者ギルドの一番大きい柱に貼っていい』というご褒美は、ご褒美でもなんでもなくなり――
あらゆる理由で、『風鳴りの塔』を制覇する理由が、なくなる。
それでも。
まったく不可解なことに、自分がおかしいということになったとしても、なお――
「……記事を書いてない自分が、想像できないです」
ネイの思い描く未来の自分は、それでも記事を書いていた。
必死に。
あるいは――楽しそうに。
都市伝説を求めて、その真相を追って――それを、記事にしていた。
「……おかしい、ですよね。だって、ウチは、人がモンスターになるっていう事実を世に知らしめるために、記事を書いてるはずなのに……」
「別にいいんじゃないですか?」
「……でも」
「最初に始めた理由は、目標があったからだとしても――続けていくうちに、最初の動機より重いものができるというのは、普通だと思いますよ」
「……そうなんですか?」
「俺は、そう思います。……まあ、でも、最初の目標を達成できないと気持ちが悪いというのもわかります」
「……そうですね」
「つまり――どのみち、あなたは『風鳴りの塔』に挑んだ方がいいということですよ。あなたがおかしかろうが、おかしくなかろうが、どちらでも変わりません」
「……」
「もう一度うかがいますが、あなたがおかしいかどうかは、重要ですか? ――あなたにとって、世間があなたをおかしいと判断するかどうかは、重要だと、本当に思いますか? 世間におかしいと思われたら、あなたは、行動を変えるのですか?」
ネイは経験したことのない、妙な感覚を覚えた。
重くのしかかっているものが、フッと消えたような。
狭く暗い場所に閉じこめられていて、ようやく解放されたような。
「……ウチは変わらないです。たぶん、ずっと叫び続けます。世の真実を。おかしいと思われても、自分が信じることのために、行動を続けます」
「では、行った方がいいでしょう。くまなくお父様を探すも、昔のことを思い起こしながら内部を散策するも、あなたの自由です。お話から推測するに、昔、ご両親とこのダンジョンに来たことがあるのでしょう?」
「父にとっては余裕のあるレベルのダンジョンだったので、社会勉強ということで……まあ、どう考えても子供を連れて挑むダンジョンじゃないので、世間からはろくでもないオヤジだとか思われてたみたいですけど……」
「そうですか。あなたにとっては、どのようなお父様だったので?」
「えっと……豪快で、乱暴だけど、優しい、父でした」
「そうですか。しっかり、覚えているみたいですね」
「……はい」
「でしたらとりあえず、自分を信じてみては? 信じる根拠も疑う根拠も乏しいなら、信じてみた方が気が楽ですよ」
「……そうですね。はい、ウチもそう思います」
「では――行ってらっしゃいませ。セーブをしてね。俺はここで、お待ちしていますから」
彼が手のひらをかざす。
すると――青く光る、人の頭部大の球体が現れた。
セーブポイント。
死者の復活を可能にする、都市伝説。
人に話せば疑われるだろう。
笑われるだろう。
正気を疑われるかもしれない。
でも――実在する。
その存在に、ネイは――
「セーブします」
そう宣言して、ダンジョンへ挑んだ。