195話
殴っていく。
それは照明設備の設置された薄暗い洞窟の中だ。今がいつかはわからない。人工の明かりはいつだって同じような光を放っていて、時間の経過をひどくあいまいに、そしてゆっくりにしていく。
ネイはモンスターを一カ所に集め終えて――首をかしげた。
あれ?
この修行、もう終わらなかったっけ?
目の前の光景に不思議な既視感があるのだ。
思考実験を念入りにしたからだろうか?
そう、思考だ――考える必要があった。だってこの修行、ただ走りながら狩っていてもキリがないのだ。
『一秒に六度以上の攻撃をする』という速度面だけが試されるものではなく、そもそも一秒以内に倒せる位置に六匹以上のモンスターを確保しなければならないという側面もあるのだ。
ただ殴っていても終わらない。
そうわかったので、色々――そうだ、もう、色々試して、ようやく『追い込み漁』という方法にたどり着いたのだ。
それはモンスターを大広間に追い込んでいき、そこで一気に倒してしまおうという作戦だ。
その成果は――成果は、良好だった、気がするのだけれど……
……どうにも、目の前の景色と、自分の記憶とに齟齬がある。
記憶の中ではこの追い込み漁形式のモンスター討伐はとっくに成功に終わっていて、すでにアレクに出迎えられ、宿屋に戻っているのだが――
しかし、目の前には広間にギッシリ詰まった六百匹のモンスター――青く、ぷるぷるしていて、手のひらサイズの跳ねて移動するスライムたちがいるということは、これからモンスター退治をするということで……?
よくわからない。
きっと、すさまじい試行錯誤のせいで疲れているのだろうとネイは判断する。
ひしめくスライムたちを目の前に、ネイは大きく息をつく。
『モンスターの大群を目の前にして息をつく余裕がある』というのも、『入門者の洞窟』ならではだろう――ここに出るスライムたちは、凶暴性が低く、強さもそこまでではないのだ。
それゆえにこのダンジョンは、『モンスター』というものをまだよく知らない冒険者が『モンスター』なる未知なる存在に慣れるのに適しているとされている。
……とかいうことを、前にも思ったような気がする。
なにかが、おかしい。
ともあれ――悩むよりは、早いところ修行終了に向けて行動した方がいいだろう。
ネイはモンスター殴りを開始した。
自分で集めたモンスターの群れに飛びこんでいく。
まるで上等なクッションにダイブするかのような不思議な感覚だ――ひんやりしていて、柔らかいものを、プチプチとつぶしていく。
素手で挑む修行だし、『殴って倒す』などという表現もした気がするのだが、それは必ずしも両方の拳しか使わない、というような意味ではない。
足も使う。体も使う。肘だって膝だって、あんまりやりたくないけれど、頭突きだってするし、尻尾だってもちろん用いる。
一秒に六匹というのはなかなか尋常なペースではないのだ――なにもない宙を殴るのだって一秒に六度も殴るのは訓練がいる。使う部位を拳に限定してはいられない。
だから、殴り、蹴り、つぶしていく。
いちいち何匹倒したかは数えていられないが、ペースはたぶん良好なのだろう。モンスターがみるみる減っていくのが、見てわかる。
気持ちがいい。おびただしいものを思い切り暴れながら減らしていくという行為には、特殊な快感がともなうものだと、ネイは知った――あるいは、知っていた。
いいペースだ。
成功は約束されているような気がする――というか、すでに成功していたような気が、やっぱりする。
跳ねるスライムの動き、拳に感じる感触。踏み込みと同時にうっかりモンスターを踏みつぶして足を滑らせかけることさえ、すでに一度経験したかのようだ。
念入りなイメージトレーニングのお陰――なのだろうか?
ネイは自分の想像力を低く評価してはいなかった。
少ない情報から細部を正確に想像する力、言葉のみから絵を思い描く能力は、記者にとって必須とも言えるからだ。
それにしたって。
続けていくうちに、やっぱりこれ、一回経験したような、という疑いが濃くなって――
――ぷるん。
もう何匹狩ったかわからないが、だいぶモンスターも減り始めたころ、ネイはそのような感触を拳に感じる。
つぶれるような感触ではない。
狩り損ねたか――そう思い、ネイは妙な感触を抱いた自分の右拳を見る。
右拳が青い半透明の物体に変化していた。
「……は?」
思わず、動きが止まる。
なんだこれは。既視感にまみれた展開の中で――こんなことは、既視感になかった。
右拳が、青くて、半透明で、ぷるぷるで。
まるで――スライムになった、みたいで。
あっけにとられていると、スライムがネイめがけて突撃してくる。
ネイは左拳をふるってスライムを払いのける――
――その左拳が、スライムのように、なった。
「……えっ、ちょっ……」
知らない。
こんなのはイメージトレーニングにもない。既視感だってもちろんない。初めての体験。ありえない経験。人に言ったところで理解はきっとされないだろう――都市伝説。
体がモンスターと化している。
ネイは動けない。両拳を見たまま固まる。影が差す。ようやく見上げる。目の前には減らしたはずのモンスターたち。
そいつらが目のない体をネイに向けている。
「……ひっ」
呼吸がひくつく。駄目だ、逃げなければ、逃げないと、モンスターにされる。振り返る。背後にもスライム。横にもいる。天井もよく見ればスライム。
そして――自分が立っている地面も、いつの間にかスライムになっていた。
「い、いや……!」
足が地面に――モンスターに沈み込んでいく。沈んだ部分からどんどん自分の体が青い透き通ったナニカに変貌していく。怖い、イヤだ、助けて。叫ぼうとしているのにもう下半身は完全にスライムで腹部までスライムで体がもう全部ぷるぷる青くて声が出なくて呼吸さえどうにもならなくて――
――そこで。
ようやく、その悪夢から目覚めた。
○
「…………………………………………悪夢に殺されるところだった」
目覚める。
ネイは己の手を見た。
そこにあるのはスライム状の手――な、わけはなく、普通に、自分の、年齢にしてはちょっとちっちゃい手だった。
耳も尻尾も、当然ながら、スライムではない。
カリカリに焼いたパンみたいな色の毛が生えた、ふさふさでふわふわの耳と尻尾だ。
最後に、首飾りをたしかめる。
あった。牙の首飾り。鋭い形状で、思い切り握ればちょっと痛い、肌身離さず身につけている両親の形見。
ネイは周囲に目をやる。
ここは――宿屋『銀の狐亭』の客室だ。
ベッドと化粧台があるだけの、簡素な部屋。
ただしベッドはありえないほど弾力があり――まるでスライムの床で寝ているようで。
化粧台には大きな姿見があった。
服は、壁と一体化したクローゼットに入れる形式となっている。
都市伝説の宿は客室に使われている家具さえも異様だ。
もっともこれは、いい意味での異様さである――そこまでいい宿に泊まったことはないが、少なくとも世間で中堅扱いされている宿よりはよほどいい家具を置いている。
ネイはたしかめるように呼吸をする。
息は――できる。当たり前だ。
自分の体がスライムになるとかいうありえない夢を見たせいで、まだ胸がバクバクと強く鼓動を刻んでいた。
しかし――
ネイは自嘲するように笑う。
「……よりにもよって、ウチが、モンスターになる夢、だなんて」
あんまりにも――あんまりすぎる。
ネイは顔を両手で覆って、笑った。
そんなふうに悩んでいると――
コンコン、と扉がノックされる音が、響いた。
「もしもし、ネイさん、起きていらっしゃいますか?」
アレクの声だ。
なんだろう、起こされるような用事があっただろうか――そう考えていると、彼が用件を告げる。
「あなたの記事を冒険者ギルドに貼り出す許可が正式におりましたので、早めにご報告した方がいいかと思いまして。詳しいお話をさせていただきますので、そちらのタイミングで食堂までいらしてください」
ネイはまだなんにも応答していないのだが、こちらが起きている前提でアレクは語る。
そして、去って行った――かどうかはわからない。足音がないのだ。
でもきっと去って行ったのだろうとネイは考える。
そんなふうに、しばらくぼんやりして――
「……うっそ!? 本当に許可おりたの!?」
ようやくアレクの言葉を理解し――
慌てて、着替え始めた。