191話
ネイがなにかに憑かれたようにその宿屋を追い求めたのは、その宿屋がいわゆる『都市伝説』だったからかもしれない。
都市伝説。あるような、ないような、でもきっとないだろうもの。
誰かが本気で追い求めれば、鼻で笑われるようなものだから、ネイにとっては求める価値があったのかもしれない。
その建物の外観はまさに都市伝説的だった。
なんといっても、ボロい。
外観とかいうものに気を遣うつもりが一切ないのだろう。
その愚直さ――というか、人目を気にしない、実際にここにたどり着く者などいないだろうという泰然自若とした態度、ネイ的にはとても好感がもてる。
そうだ、誰にも信じられないものだからこそ、こうでなければなるまい。
お前らなんかに来てほしいとは思わない。来る者がいたとしても、最後まで信じ抜いてこの扉を開かなければ、本当の姿は見せないぞ――そういう、気高さを醸し出していなければならないと、ネイは思うのだ。
興奮で頭上の耳がピクピクする。
目が充血し、尻尾が大きく揺れる。
ニヤニヤを抑えることはできても、耳や尻尾は制御できない。
獣人族――特に耳と尻尾の大きめな狐獣人のつらいところであった。
ともあれネイは扉の前で一人うなずく。
都市伝説。誰もその実在を信じないもの。与太話。本気で挑めば笑われるもの。
だけど――大丈夫、ウチは信じる。
首から下げた、牙を模した首飾りをギュッと握りしめる。
そして気高い――世間一般的な価値観で言うならば『ボロい』外観の宿の、扉を開ける。
「いらっしゃいませ、『銀の狐亭』へようこそ」
内装は拍子抜けするほど普通だった。
カウンターがある。受付がいる。
ただし受付が男性というのは珍しい。宿屋の受付なんて、普通は下働きの女性がやるものなのだ。
なるほど、さすが都市伝説の宿。
型にははまらないと、そういうことなのだろう。
ネイは宿へますます好感をもった。
そして、受付の男性へと話しかける。
「すいません、この宿は都市伝説の宿でしょうか?」
「都市伝説?」
男性は首をかしげた。
ネイはコホンと咳払いをする。
「あ、失礼。ウチはネイっていう者でして――都市伝説とかの取材をしてます。冒険者ギルドとかに作った取材記事を貼り出したりもしてるんですけど……」
「取材記事……都市伝説を扱ったものは、ちょっと覚えていませんねえ」
「『冒険者ネイの異界通信』っていうものなんですけど」
「……ああ、はいはい。あの、勝手に一番大きい柱に貼り付けてる……ギルドマスターが『ギルドに広告出したいなら金払え』ってぼやいてましたよ」
「むしろウチは世界の真実を世に広く知らしめようという活動をしているので、反対にお金もらいたいぐらいだと常々思っています!」
「まあ、あなたの記事が本当に真実で世の役に立っているのなら、料金に値する仕事ぶりですねえ……毎日毎日、日にきちんと二回ずつ。剥がすのにたいそう苦労しているようですよ」
「でしょう! というわけで、取材に来ました!」
「ウチをですか? こんな、なんの変哲もない普通の宿屋をですか?」
「ご謙遜を……知ってるんですよ、この宿のこと」
「へえ」
「なんでも――『死なない宿屋』だそうじゃないですか」
それははなはだ不思議な噂話だった。
泊まると死なない――そうあだ名される宿屋が存在する。
しかし、『泊まると死なない宿屋』という都市伝説自体が不思議なのではない。
そんなものは腐るほどある。
追い求めてわかるのは、宿のオーナーと話しているうちに冒険者をやめたい気分になるから結果として誰も死なないだとか、大店が宣伝として流している噂だったとか、取るに足らない真実ばかりだった。
だが、今回は本物だと、ネイのカンが告げていた。
なにせ――今まで、まったくつかめなかったのだ。
ネイは自分の情報収集能力をちょっとしたものだと思っていた。いや、ひょっとしたら王都で一番かもしれないという自負さえ、あった。
実際、この『死なない宿屋』の噂を知ってから、実際に噂の出所と思われるこの宿にたどりつくまで、半日もかかっていない。
だというのに――今までまったく、気に留めることもできなかった。
必要とする者の耳だけにその噂がとどく『死なない宿屋』――これはもう、本物だろう。
死なないとはなんなのか?
その噂の真相は?
ネイの未知を求める好奇心は止まらない。
受付に身を乗り出す。
この受付カウンター、小柄なネイにはちょっと高い。
「それでちょっと、お話をうかがいたいんですよ」
「俺にですか?」
「あなた、店主でしょう?」
「……おや、よくわかりましたね。俺を一目で店主だと見抜く人は、なかなかいらっしゃいませんよ」
「ウチの観察眼、すごいでしょう!」
「ええ」
「だって掃除するでもなく料理するでもなくボーッとこんな流行ってない宿の受付にいて怒られない人なんて、店主以外ありえませんからね!」
「……ああ、なるほど。たしかにそうですね」
「そういうわけでお話を!」
「しかし困りましたね、取材対応というのを、したことがないのですが。それに――こう見えて多忙な身でして。あまり時間はとって差し上げられないと思いますよ」
「そんな暇そうにしてるのにですか!?」
「まあ暇そうにしていたと言われればその通りなのですが、誰か来そうな気配があったので受付でスタンバイしていたというのが、正確なところですね」
「おー、都市伝説的ぃー!」
「……そうでしょうか?」
「はい! もう、いいですね、そういうの! むしろそういうのでいいんです! なにかこうミステリアスなことをおっしゃっていただけたら、勝手に脚色します! でも捏造は絶対にしないから安心してください!」
「当たり前です。しかし記事にされるというのは……」
「そう、捏造なしは当たり前なのです! さすが話がわかる! というわけで、泊まります! 泊まった感想を日記にして、それを貼り出しますから! それならいいでしょ?」
「たしかに、己の日記を公開したいとかいう話であれば、俺には止めようがありませんね。でもギルドに勝手に貼り出すのは迷惑なのでやめた方がいいですね」
「でしょう!? というわけで、宿泊します! 日記書いてギルドに貼るぞー!」
「……はい、ご利用ありがとうございます。では、宿帳に名前を書いてください」
「はいはーい。ネイ、と」
「……なんでサイン風なんですか」
「ウチの記事はそのうち本のかたちに編纂されて出版される予定なので! このサインにも価値が出ますよ!」
「はあ、そうなんですか。……それにしても、男性のお客様は久しぶりですね」
「……あの、ウチは女性です」
「……おや、失礼」
店主はどうにも本気でおどろいている様子だった。
まあ、間違われることはそう少なくもない。
髪が短く、服装が動きやすさ最優先で、少年っぽいのだ。
あと、なんといっても小柄で胸がないので、よく男の子と間違われたりする。
それから狐獣人はエルフに次いで男女の容姿差がとぼしいと言われているし――まあ、これはネイの調べた都市伝説なのだけれど。
ともあれ――
自分の性別はどうでもいい。
取材だ。
「それでは早速一つ質問をしますね!」
「いえ、もう用事があるので」
「お時間とらせませんから! あのですね、ずばり店主として、この宿屋が『死なない』と噂される一番の要因はなんだと思いますか?」
「それはたぶん修行ですね」
「修行って?」
「質問は一つでは?」
「一つ目の質問に紐ついている限り、それは一つの質問なのです! それで、修行とは!?」
「そうですねえ、俺はものごとを簡潔に述べるのが苦手なのですが……」
「時間はいくらかかっても結構ですよ!」
「いえ、俺の方が時間をかけたくないのです。予定がありますからね。なので――」
と、店主が宿の奧を見る。
少し経ってから、店の奥――たぶん食堂と思われる場所から、小走りでこちらに来る人が見えた。
それは黒い猫獣人だ。
まだ幼い、少女――いや、どうだろう、自分みたいに発育が悪い成人という可能性も、いちおう考慮した方がいいだろうか?
その人は足音を立てずに小走りで来ると、カウンター内部に入り、ピタッと受付の男性に寄り添うように立ち止まった。
そして――
「パパ、皿洗い終わったの」
と、言う。
パパ――ということは、幼い少女で間違いがないのだろう。
なにせ受付の男性、そこまでの年齢には見えないし、子供がいるとしたら、その子は成人前だと思うのが妥当だ。
「――俺の娘と一緒に、『修行』を体験してみますか?」
なるほど、とネイは思う。
体験取材――それは自分の性に合っていた。もとより書物などの情報だけでは我慢できずに自分の足で情報を調べることを旨として活動している。
たしかに修行について知るならば、それを体験するのが一番いいだろう。
まあ、『死なない』という噂の源だ、と店主が豪語する修行なので、怖くもあるが……
まだ幼い娘につけるようなものなのだ。
あくまで『体験』の域を出ないだろう。
「わかりました! ご一緒します!」
「では――ああ、そうだ、忘れていました」
「なんでしょうか? 情報?」
「記事……ではなく、日記に実名を出されるのも困るのですが、いちおう、名乗っておいた方がよろしいかなと思いまして」
「ああ、はい、それはもう! 大丈夫です! 日記にはイニシャルで書きますから!」
「匿名性に配慮した日記ですね……まあそれはともかく、俺はアレクサンダーです。アレックスとかアレクとか呼んでください。こっちは、娘のノワ」
ノワがぺこりと礼をする。
ネイはにっこり笑って「これからよろしく」と言った。