19話
そして。
翌朝、本当に、ロレッタは『花園』前に来ていた。
王都西。
広大な草原が広がるその場所に、ひときわ大きな一つの花がある。
もはや樹木と言いたくなるような太い茎。
天を突くほど高い場所にある、花弁。
葉の一枚には人が百人も乗れそうな大きさがあった。
その花の周囲には、女王にかしづく侍従のように、美しい花々が群生していた。
目を奪われる景色。
だが――見惚れていると、命を奪われることとなるのを、冒険者たちは知っている。
周囲にはあまり人がいない。
発見直後のダンジョンは、中に入らなくても様子見の者で賑わうのが通例だ。
しかし、このダンジョンは、発見からたったひと月であまりに多くの死者を出した。
そのため、『一度でもなんらかのダンジョンを制覇した者の挑戦』が推奨されている。
そして、ダンジョン制覇者は数少ない。
結果として――誰もいない。
それが、『花園』と呼ばれる美しいダンジョンの、現状だった。
この場には、ロレッタの他に、アレクと、それから奴隷の双子の片割れがいた。
ロレッタは感慨深げに『花園』の花弁を見上げている。
「……ひと月前だ。叔父がここで、家長の証である指輪を落としたのは。そのころが、私の人生で一番の激動だった。母が死に、家督をかすめとられ……思えば、叔父がここで指輪を落としたというのは、神のお導きかもしれん。いつか私に家督を取り戻せという、何者かの意思が介在しているようにさえ、思えるよ」
様々なことがあったように思える。
今、その終着点に立っている。
ロレッタは感慨をこめて、師匠たるアレクに視線を向けた。
アレクは笑顔でうなずいて、言う。
「セーブポイント出しておきますね」
いつものアレクだった。
彼には特に感慨はないらしい。
「ありがたいが! もっと、なにかないのか!」
「やだなあ、ここまで来たら俺はもう、セーブポイントを出すことぐらいしかやれませんよ」
「……たしかにそうかもしれないが……仮にもあなたが育てた弟子が、目標に挑むのだぞ。もう少し激励してくれてもいいのではないか?」
「別に、これで終わりじゃありませんし」
「……私としては、終わりのつもりだが」
「違うでしょう? ロレッタさんの目的は、家督を取り戻すことのはずだ。『花園』制覇は、そのための準備でしかない」
「……」
「駆け出し冒険者が初めての目標を達成するまで、俺はしっかりとサポートしますよ。冒険者育成も、俺の宿の仕事の一つだと、思っていますからね」
「……そう、だったな」
「まあ、育成が仕事なので、一緒にダンジョンに挑んで差し上げたりはしませんけど」
「それはわかっている。あなたに頼んだのは冒険の手伝いではない。目的は自分の手で達成してこそ意味があると、私は思う」
「ご理解いただけているようで、なによりです。……強い人に連れ回されてダンジョンを制覇したところで、なんの経験にもなりませんからね」
「今回のことは、修行も含めて、いい経験だったと思う。貴族として生きていくことになっても、きっと私は、この七日間を忘れない」
「まあ、今日は八日目なので、七日間だけ覚えていられると、早い方の記憶から消えていきそうなのですが」
「揚げ足をとらないでいただけないか。あと、本音を言ってしまえば、私は修行の記憶は一刻も早く消したいと思っている」
「では、ダンジョンから帰られたら、豆料理をお出ししますよ」
「やめてくれ。生きて帰ろうという希望がなくなる」
「死ねないから大丈夫です」
ははは、と笑う。
なにが面白いのかロレッタにはさっぱりわからなかった。
だから話題を変える。
「ところで、双子の片割れを連れてきているようだが、ひょっとして私の手伝いか?」
アレクの横には、まだ幼い少女がいた。
白い毛並みの、猫のような耳を生やした獣人だ。
名前はたしか――
「ブランですか?」
「そうだ。私が宿に来た日、彼女は他の冒険者の手伝いをしていたとか聞いた気がするのでな。あるいは今日の私を手伝うために連れてきてくれたのかと」
「先ほども申し上げた通り、強い人に連れ回されてダンジョンを制覇したところで、なんの経験にもなりませんので」
「……その子は私より強いとおっしゃるのか」
「そうですね。純粋な戦闘能力だけで言えば、うちの宿で二番目です」
「一番はあなただろう? ということは、ヨミさんよりも強いのか」
「あいつは細かい魔法が得意ですから。肉弾戦だとそこまででもないですよ」
「ということは、ブランちゃんは肉弾戦が強いのか」
「腕力だけで言えば、大人百人との押し合いで勝てますよ」
「……あなたの話はいちいち大きすぎて、すべてホラに聞こえるのが難点だな」
「本当なのになあ」
困ったように頭を掻く。
とにかく冒険に同行させてくれるのではないらしい。
ロレッタはたずねる。
「では、ブランちゃんはなんのために?」
「セーブポイントの見張りです。な?」
アレクはブランに呼びかける。
すると、彼女は、サッとアレクの背中に隠れてしまった。
内気な子のようだ。
仕事中は普通に客の注文をとっているようだが、表だと、また変わるらしい。
「……この通り内気ですが、言いつけはきちんと守る子なので、ご安心ください。ロレッタさんの復帰地点はこの子が守りますよ」
「それはいいのだが、セーブポイントを守るというのは?」
「今までもやっていたんですが……これはこの通り、壊れたりはしないんですけど、悪用される可能性はあるので。俺が認めた人以外は使えないようにいつも見張ってるんです」
「そうだったのか……その割には、私は初めて会った日に簡単に使えた気がするが」
「ロレッタさんは一目で正直者だとわかりましたから」
「慧眼恐れ入るが、それはもうただの勘でしかないと思うぞ」
「根拠らしきものを語るなら、あなたが悪人でも、俺がその場にいれば、あなたを殺さない程度に足止めして、セーブポイントを消せばいい話でしたから。セーブポイントが消えればロードできませんからね」
「当時、悪いことはまったく考えていなかったが、魔が差さなくてよかったと心から思う」
なんだろう『殺さない程度の足止め』とは。
想像するだに恐ろしい。
死が一番辛いことではなく、生きているがゆえに苦しいこともあるのだと、ロレッタはいくつかの修行で骨身に染みて実感していたので、恐ろしさもひとしおだ。
しかし――
気になることは、やっぱり残った。
「アレクさんが見張りをするのでは足りないのか?」
「ああ、申し訳ない。俺はちょっと、席を外さないといけないので……」
「そうなのか……まあ、そうだな。あなたの本業は宿屋主人だ。やらなければならないこともあるだろう。むしろ、今までよく私の修行に付き合ってくれたと感心し、感謝するばかりだ」
「宿屋とは別件なんですが……まあ、その、聞かないでください。答えそうなので」
「そう言うならばたずねまい。なんのお仕事かは知らないが、がんばってくれ」
「仕事っていうか雑務処理っていうか……がんばります」
「うむ。こちらも、誠心誠意努力しよう」
「俺の見立てでは五回ほど死ぬと思いますので、そのつもりで」
「たった五回か。ならば大した問題ではないな」
「そうですね」
アレクは笑う。
ロレッタは今のやりとりをしたあとで、アレ? と首をかしげた。
五回死ぬのは大したことだと思っていた時期も、たしかにあったような気がするのだ。
でもそれは、もう思い出せない遠い日のことのようだった。
過去はもういい。
それより今は――未来を見よう。
目の前のダンジョンを制覇し、指輪を見つけ出す。
そのことだけを考えようと、ロレッタは頭を切り換えた。
「それでは行ってくる」
「はい、お気を付けて」
アレクが手を振る。
彼の背後から、おどおどとブランがこちらを見ている。
ロレッタは軽く手を振り返し、『花園』へと向かった。
ダンジョンに挑むというのに、足取りにこわばったところは少しもない。
これも修行の成果だろうとロレッタは誇らしく思った。