177話
「あん? なんだこりゃ?」
『銀の狐亭』従業員室――
普段は整然としている、というかベッド以外の家具が存在せずに殺風景なその部屋が、今は雑然としていた。
木製板の張られた床にはところせましとあらゆる物が置かれている。
それは衣服になっていない布だったり、書類がまとめられた箱だったり、表紙からでは内容が判別できない本だったり、あるいは用途さえわからない、筆舌に尽くしがたい謎の物体だったりした。
大掃除、というか、荷物整理らしい。
それをホーは手伝っていた。
『いや、ドライアドは掃除が得意そうだから、ちょっとお願いしたいんだけど』
そんなようなお願いをされたからだ。
ホーとしてはあまり嬉しいと言えない評価だった。
まあ。
たしかに掃除や家事には向いた種族なのだろう。
なにせ『手』の数が違う。
ドライアドとは、褐色肌と長く量の多い髪が特徴の種族だ。
他種族に比べると精神や肉体の成長が非常にゆっくりで、また、歳を経てもさほど大きくなることはない――人間や魔族、獣人などで言う『子供』程度の体躯で成長が止まるのだ。
掃除が得意というのは、そういう、狭い場所にも簡単に入り込める小さな体と、低い身長をものともせず、複数のことを同時にこなせる『髪』に起因する評価だろう。
ドライアドの髪は、他種族の『手』のように自在に動く。
『従業員の部屋掃除』なんていうプライベートなことを頼まれた理由のうちには、そのへんの手の多さもあると思う。
それに『銀の狐亭』店主であるアレクとは、記憶にある範囲でもない範囲でも浅からぬ付き合いなのだ。
だからホーは、モップやらホウキやらチリトリやら、バケツやら置き場に困った箱やらを髪に、持ったまま、ベッドの上に立っていた。
そして――書類整理中に、あるものを発見したのだ。
「……おい、アレクさん、これなんだが……悪い、この本、チラッと中味が見えた。なんかあたしのママとババアの名前があった気がしたんだが、別人か?」
髪を使って、部屋の隅に座り込みつつ書類整理をしているアレクへと、ある物を示す。
それは一冊の本だった。
「……ああ、それはヨミの日記――というか『回想録』だね」
アレクは本を一瞥し、すぐに答える。
タイトルのないハードカバーで、一瞥しただけではなんの本かもわからないのだが……
というかハードカバーって。
「ヨミさんは自分で書いたのを本のかたちに編纂してるのか?」
「それは俺が勝手にやってる」
「……なんで」
「バラッと紙を重ねただけの状態だと、紛失したりするからね」
「まあそりゃそうだろうが……」
「あいつの大事な記憶だから、保管しておきたいんだよ」
「あんたらはいつもお熱いな」
「そういう話でもないんだけれど……」
アレクが本に手を伸ばす。
そして、表紙をなでて、言った。
「これはホーの家、というかクーさんのところでお世話になってたころのものだね。だからお前の母親の名前があったんだと思う」
「ああ同名の登場人物が出る物語とかじゃなかったんだな……ちょっと敏感すぎたかと思って不安だっ――っていうかなんで表紙をなでただけでわかるんだよ!? タイトルとかねーぞ!?」
「表紙にちょっと特徴的な傷があるから」
言われて、本の表紙を見てみる。
目をこらせば、たしかに台形のようなかたちの、成立経緯のよくわからない傷があるような、ないような気がするが……
まあ、アレクの感覚が常人より鋭敏なのはいつものことだ。
ホーは「そうか」と言って表紙にかんする話題を打ち切ることにした。
それより気になることもある。
「『クーさん』ってのはうちのババアだよな?」
「そうだね。冒険者ギルドマスターの、お前の祖母の、クーさんだ」
「……つまり、あたしのママと過ごしたっていうころのことか?」
「ああ。赤ん坊のころのお前と過ごしたころのことだよ。あのころのお前はなんていうか……よく、『からんで』きた」
「赤ん坊が『からむ』ってなんだよ」
「髪で物理的にからみついてきた。なぜかよく鼻を吸われた」
「……」
当たり前だが、記憶にない。
自分の記憶にない自分のことを話されるというのは、なんともむずがゆいなと思った。
「たしかホーは、当時すでに三、四歳だったんだっけ? 赤ん坊だったけど」
「悪いが『当時』とか言われても覚えてねーよ。まあでも、ドライアドが『赤ん坊』と言える期間だったら、そんぐらいなんじゃねーか? 個人差はあると思うが……人間族基準だと、かなりでかいだろう『個人差』が……」
「はあ、いいねえ、いつまでも赤ん坊のままっていうのは」
「なんでだよ」
「女の子はほら、すぐに大きくなるから。親としては戸惑いが、ね」
そういえば二児の父だったな、とホーは思い出した。
所帯を持つ男にまったく見えないのが、アレクのすごいところだ。
存在自体に生活感がない。
この黒髪の、年齢不詳の、いつも笑顔の男性は、いくら一緒に過ごしても謎がいっこうに減らないという希有な存在なのだ。
それはともかく。
ホーはこれ以上話が逸れないように、本題を切り出す。
「なあ、この日記……『回想録』か。読んでもいいのか?」
「なんで?」
「……いや、あたしのママのことが書いてあるんだろ? 手がかり欲しいじゃねーかよ。あたしはまだ捜してるんだから」
「…………ああ、なるほど」
「今思い出したのか」
「申し訳ない。失念していた。たしかに、ホーの母親のことだし、もっと早く渡しておくべきだったかもしれないね。まあ、そもそもこれが書かれたのは最近なんだけれど……」
「そうなのか?」
「ヨミは忘れそうな記憶から記していくから。あとウチのクランが『紙』を開発したのが最近だったっていうのもある。モリーンさんが来た直後ぐらいかな、あいつにお手製の『紙』を試させたのは」
「紙まで作ってんのか」
「通常のものより薄くて丈夫だろう?」
「……なんだかよくわからねーが、とにかく読んでいいのか?」
「いいと思う。あいつはたぶん、もう書いたことも忘れてる」
「……それはねーと思うが……まあいいってんなら遠慮なく読ませてもらうぜ」
「こっちの書類整理がもう少しかかりそうだから、そのあいだに見ていればいいんじゃないかな?」
ということらしいので、ホーは本を目の前に持ってくると、髪を使ってページをめくる。
最初のページには、このような文章があった。
『たぶん人生で最大の敵の話』。
「……おいおい」
「どうしたんだい?」
「ああ、いや……冒頭が予想外すぎてちょっと面食らっただけだ。ちなみにアレクさんはこの回想録を読んだこと、あんのか?」
「あるけど? ヨミは回想録を書くと、記憶に間違いがないか俺に確認してくるから」
「……なにか思わなかったのか?」
「別に? 間違ってはいないけど細部はこうだったかなあ、ぐらいだと思ったけど」
「……そ、そうか……いや、その、だったら気にしないでくれ」
「わかった」
気にしないで、という申し出を極めて真摯に受け止めて、アレクは自分の作業に戻る。
もうちょっとぐらい気にしてくれたっていいと思うのだが、そのあたり、アレクは行動に迷いとか未練がない。
そんなんだからおかしな人扱いされるんだ――と思いつつ、ホーは回想録を読み進める。
続きは、このようなものだった。