175話
「突然ですみませんが、本日は趣味での来訪になります」
不思議な人物――アレクはそのように語った。
意味がわからない。
そうこうしているうちに、テオドラの姿は消えていた。
男は舌打ちをして、アレクへと完全に向き直る。
「悪いが、今、私は忙しくてね。人の趣味に付き合っている余裕はないし――話を聞いていたかもしれない君を見逃すわけにもいかない」
「まあまあ、そうおっしゃらずに。せっかく新しい趣味活動を見つけたんですから、少し付き合っていただけませんか?」
「……」
男は無言のまま、袖口から小刀を出す。
そして、予備動作なしで投擲した。
その小刀はたしかにアレクと名乗る男に突き刺さった。
……ように、見えたのだが。
カツン、という音を立てて、アレクの背後にある壁にぶつかり、落ちる。
壁にぶつかった?
しかし、たしかにアレクに突き刺さったように見えたのだけれど……
いつの間にアレクは視界から消えていた。
男は不思議に思い、周囲を見回す。
「性急ですね」
左方向から声。
慌ててそちらを見れば、壁際で、アレクが聖典の燃えカスを拾っている姿を発見する。
移動した気配がないのに、移動している。
男はアレクと二人きりで隠し部屋にいる危険を、ようやく感じ始める。
「……君は、何者だ?」
「何者?」
「……突然の侵入者を誰何することが、それほど不思議なのか?」
「いえ、テオドラさんたちを俺に差し向けたのは、あなたではないのですか?」
「…………?」
「邪神の使徒と名乗りましょうか?」
「……!」
ようやく、状況を理解する。
つまりアレクが来訪した目的とは――
「復讐か!? 君を狙ったことに対する……」
「いえいえ、そんな、まさかまさか。幸い、被害も出なかったのでね。不快ではありますが復讐などとんでもない。まあ、負傷者が出ないのはよかったですよ、お互いに」
「……」
「それにしても、なぜ俺の顔を知らなかったのでしょうか?」
「……邪神も邪神の使徒も、殺せという依頼を受けてはいない。だから、あなたたちを狙ったのは……テオドラたちの活動の大義名分を果たさせるためにすぎない。ようするに、誰でもよかった。だからいちいち顔など覚えない」
「おや、とぼけたりはなさらないので?」
「私はあなたに平伏している」
言葉を告げると同時に、男はひざまずいた。
そしてアレクを見上げるようにして、語る。
「勝ち目がないのは、私の奇襲を避けた手腕でわかる。だから今私ができることは、あなたにひざまずき、許しを乞い、この命を長らえることだけだ。質問があるならば、なんでも答えよう。要求があれば、なんでも言ってくれ。ただし、命だけは助けてほしい」
「そんなことはおっしゃらないでください。俺はあなたと話をしたかっただけです」
「なんでも話そう。なにが聞きたい?」
「いえ、ですから、話がしたいのです」
「……だから、なんでも話すと……」
「質問に答えてほしいのではありません。対話がしたいのです」
「…………」
なにか、さぐられているのだろうか?
要求の意味不明さに、男はつい口ごもる。
その隙を突くように――
アレクが、いつの間にか移動し、男の正面に腰を下ろした。
視線の高さが、そろってしまう。
「まずは、賞賛を。孤児や逃亡奴隷の保護は、俺も行なっていることです。あなたと俺は、目的はどうあれ行動だけを見れば志を同じくする者だ。さらにあなたは孤児たちに『宗教』というよりどころをあたえた。その行為だけを見れば素晴らしい」
「……ど、どうも……?」
「ですが行動内容がほぼ同じだけに、どうしても差異が際立ってしまいますね。ようするに、どうしてあなたは自分のためだけに孤児たちを利用してしまったのか、疑問が出ます」
「……それは」
「答えられませんか?」
「いや、その……金がな……私も孤児出身で、暗殺者にまで身をやつしたことがある。その時に思ったのだ。やはり、金がないと、話にならない。だが、金があれば話になると……そういう……」
なんで自分はこんなことを語らせられているのだろうか?
男は不可解さを覚えつつも、とりあえず要求に従い続ける。
「まあ、その……話を聞いていただろうからわかるかと思うが、私は貴族の位をもらえることになりそうなのだ。貴族になれば今とは比べものにならないほど贅沢な暮らしができる。だから……」
「なるほど。金銭欲のためですか」
「そうだが……」
「なるほど。なるほど。……うん、どうやら、俺とは違うようだ」
「はあ?」
「いえ、俺は自分の行動の動機が知りたいのですよ。そこで、似た活動をしていたあなたに是非お話をうかがえればと思いまして。そして、うかがったお話に共感できれば、自分がなぜ行動しているか探れるのではないかとそのように」
「な、なるほど……?」
「よかった。これで俺はあなたを否定できる」
にこり、とアレクが笑う。
男は瞠目した。
「……否定?」
「そうです。あなたの行動原理が、俺と違う。だから、俺はあなたを否定する」
「そんなことではない。否定とは、その、具体的に……」
「考えをあらためていただきます。そのために説得を」
「なぜだ!? 反省はした! 平伏している! これ以上私になにを望むのだ!?」
「テオドラさんの解放」
「……」
「あなた、先ほどテオドラさんを呼び止めようとしていらっしゃいましたね? きっと、テオドラさんはあなたに呼び止められれば、またあなたに従うでしょう。しかし、俺はそれをいけないと思った。だから、あなたが二度と『俺と違うこと』をしないように説得します」
「金のために動いて悪いか!?」
話の雲行きが怪しくなったと感じて、男はつい叫んだ。
……テオドラをまた使えそうだと思ったのは事実だっただけに、つい、慌てた。
黙ろうかと思った。
しかし、ここまで逆らってしまったら、もう遅いだろう。
男は立ち上がり、勢いに任せて叫び続けることにした。
「商売は悪いことか!? 金稼ぎは悪か!? 違う! 断じて違う! そのために利用できるものを利用してなにが悪い!? 利用される側が望んでいるなら、なおさらだ!」
「反省は別にしてないようですが……まあ、今回は反省する必要がそもそもないですから、いいんですけどね」
「そうだろう!? 私は悪いことなどしていない!」
「ええ、俺もそう思います」
「それを、否定しようなどと……! ただの自己満足ではないか!?」
「はい。おっしゃる通りです」
「…………」
素直に認められると、言葉が続かない。
止まった男の代わりにアレクが口を開く。
「俺はあなたが『悪い』とは一度も申し上げておりません。ただ『違う』と申し上げているのみです。違うから否定すると」
「馬鹿な! 違うことは悪いことか!?」
「いえ、ですから悪いことではありませんよ。あなたは『金のために他者を利用することはかまわない』と考えている。俺は逆のことを考えている。そしてたまたま、今回、テオドラさんと俺はそこそこ長い付き合いとなった。だから、俺は俺が思う『彼女のための行動』をするということですね」
「偽善ではないか!?」
「いえ、独善ですよ」
「…………」
「そもそも『善』でさえないかもしれない。誰のためにもならないかもしれない。でも、俺はここであなたとテオドラさんを引き離すことが、彼女のためになると感じた。だから、する」
「あの女に惚れたのか!? あんなガキに!?」
「目の前の人が財布を落としたら、拾って、呼び止めて、返しますよね?」
「は!?」
「俺にとって、あなたを説得するというのは、その程度の労力です。俺の行為を『善』という言葉で表現するならば、その程度の善行です。この時に、『財布を落とした側がわざと落としたのかも』とは考えない」
「……」
「善き行いとは、そういうものでしょう? 相手の事情を斟酌していたら、善行はできません。善人とは他者を気にしないものだ。周囲からどう見えるかも、助けた相手がどう思っているかも考えず、ただ自分の信じる道を行き、なぜか評価されたというのが、善行と評される行為の正体だ」
「…………」
「と、俺は思いますけどね。まあ、ようするになにが言いたいかと言うと――正義の味方を始めることにしました」
「……正義?」
「はい。正義です。この時に『困っている人を助けるため』とか『国家を救うため』とか、そういう大義名分があると、より正義っぽくなりますね」
「……」
「でも、今回、テオドラさんは別に救われることを望んでいないし、あなたの思想はやや極端なものの悪ではないし、俺が正義を堂々と名乗るには少々大義名分が足りませんかねえ」
「……そもそも、私は悪ではないのだろう?」
「そうですね。あなたは俺と違う。そしてたまたま今回、かかわった。言い換えれば『目についた』。それだけだ」
「ならば、なぜ正義を名乗るあなたが、私を裁く?」
「裁く? やだなあ、わかってるでしょう?」
「……?」
「この世界に悪人なんかいないからですよ」
「…………」
「ただ、色んな正義があるだけです。正義も悪もないから相手を悪にしたてあげるために、正義の味方は大義名分をつける。そうして『なんか悪い感じ』になった方が悪の役割を担うんです」
「………………話に、ならない」
「これの面白いのは、正義が勝つとは限らないところですよねえ。勝つのはけっきょく、正義でも悪でもなく、大義名分の有無も関係なく――強い方だ」
「……話に、ならない。まったく、話に、ならない」
「話をしましょう。正しい者同士で」
「話は、できない。だって、私は、あなたのことが、わからない」
「どちらの正義がより強いのか。なにを使ってもいい。集団を使ってもいいし、権力を使ってもいい。大義名分を主張するのもいい。言葉での説得も可能だ。力でねじ伏せて認めさせるのもアリでしょう。お金の多寡で競うのもかまいません。俺はあらゆる努力をします」
「…………」
「だから、あなたも、あらゆる努力をしてください。その過程で片方が、あるいは両方が死んでしまうこともあるかもしれません。でも、大丈夫ですよ。だって――」
青い球体が出現する。
そのぼんやりとした光に照らされて、アレクは笑う。
「死んでも、生き返ります。セーブさえしていただけるならね」
「……」
「これで安心ですね。死を厭わず、己の正しさの証明にすべてを賭けられる。さあ、始めましょうか。この勝負に後退はない。互いの全存在、全生命、全能力を賭けて、天井知らずのゲームをしましょう。お互いが正しいなら、どちらの正しさが強いのか、比べましょう」
意味不明――
ただ『よくわからないこと』がこれほどまでに怖ろしいものなのか、と男は発見する。
正義?
悪はない?
そんなのはどうだっていい。
……どうだっていいもののために、自分は、アレクに目をつけられたのか?
男の喉ははりついていた。
声が出ない。
それでもなんとか、振り絞って、言う。
「む、無理だ……! 待て、待て、悪かった……だから――」
「『悪かった』?」
「そ、そうだ! 私が悪かった……! 二度としない! テオドラたちの再利用も絶対にしない! だから、だから……」
「いえ、自信をもってください。あなたは悪くない」
「……」
「あなたはそもそも、自分のことを悪いと思っていないはずだ。だって――あなたの正しさのために、数多くの孤児たちに命懸けで色々やらせていたようですからね。俺殺しを含めて」
「…………」
「こんなの自分の思想に疑いがある者にできるはずがないでしょう? さあ『正しさの強さ』を比べましょう。俺とあなたの力をぶつけて。勝つのは正義でも悪でもなく、強い方です」
――反論の余地がない。
ようするに、信仰も、組織力も、手駒もなくなった今――
ただ一人の生き物として、目の前の男よりも自分は圧倒的に弱いのだと。
……そういう事実を、迫り来る恐怖とともに噛みしめた。