173話
その教会は王都北西部の外れに存在した。
このあたりには宗教関連の建物が多い。
また、テオドラの信奉する教えとは違うが、最大宗教は、かなり権力にも顔がきくようだ。
だから公権力の手が入りにくく――
それゆえ、テオドラの信じる『守護神アレクサンダー』を崇める教団も、最大宗教にまじってポツンと存在することができた。
夕暮れ。
石でできた地面、石造りの高い建物が整然と並んでいる。
あたりを通る人は年配が中心だ。
誰も彼も物静かで、どことなく幸福そうな顔をしている。
今ごろ、他の宗教は礼拝の時間なのだろうか?
テオドラはわからない。
彼女の信じる教団で、礼拝は深夜に行なわれた。
守護神アレクサンダーが好んだとされる、夜を照らす天上の光に祈りを捧げるのだ。
彼の英雄はその光を『月光』と称したという。
広めの道を歩いて行く。
駆け出したかったが、教会に着くまでに時間がほしかった。
頭の中には色々な考えが渦巻いている。
『最上の父』に対する信頼。
ともに育った仲間たちへの想い。
アレクの修行を途中で放り出して飛び出してしまったけれど、大丈夫だっただろうか、などという、どこかのんびりとした考え。
……目的地に近寄るにつれ、人通りが多くなってくる。
不思議だ。
テオドラの信じる教えは、あまり賛同者が多くない。
宿屋でホーに言われたように、世間では『そんな宗教が存在するのか』という程度の認識だろう。
だから、テオドラの教会は、教会街のさらに北、ほぼ街を多う壁の直下という、日当たりも悪く王都の中心から遠い、不便な位置にこっそりと建っていた。
お世辞にも礼拝におとずれる人物は多くなかった。
そのはずなのに――
教会のあたりには、人が集まっていた。
見たことがない人たちだ。
少なくとも、長年教会に出入りしているテオドラの知る人物は見当たらない。
ただの野次馬だろう。
テオドラは野次馬の老人たちをかき分けるように、騒ぎの中心部へと体をねじこみ――
そして、目を逸らしていたものと、対面することになる。
「……ああ、本当に、燃えてたんだ」
教会そばには、大きな倉庫があった。
その倉庫が、焼けていた。
……言ってしまえば、ただそれだけのことだ。
火はとっくに消し止められていて、今はただ灰色の煙が立ち上るだけだった。
教会そのものにはまったく火の手が及んでいないし、被害規模はそこまででもない。
だから、取り囲む野次馬の声も、「大変だねえ」「怖いねえ」などという、どこかのんびりしたものしかなかった。
でも。
テオドラはあの倉庫の地下になにがあるか知っていた。
『守護神アレクサンダー』の生存を知る者たちが集められる、儀式場があったのだ。
……部屋に通された、と妹分は語った。
その『部屋』とはおそらく、あの倉庫を入り、隠し扉を開けた先の地下室だろう。
……そして、その『部屋』が燃えていた。
妹分たちが焼き殺されかけた――いや、焼き殺されたのは、つい先ほどだという。
つながる。
情報が、つながって、信じたくないものができあがってしまう。
テオドラは必死に頭を止める。
しかし一人で燃えた倉庫を見ていると、つい、組み上げてしまいたくないものが、組み上がりそうになる。
だから、その声は。
救いのように、彼女の耳にとどいた。
「テオドラ!」
張りのある男性の声だ。
テオドラは声の発せられた方向――倉庫の方を、見る。
そこから来るのは、若々しい容姿の男性だった。
魔族だ。
真っ白い髪に、真っ白い肌。
左右で色の違う、美しい瞳。
髪は長く、後ろで一つに結んでいる。
服装はたっぷり布を使った法衣姿だ。
この宗教の、他では見られない特徴として、教団の最高責任者である『最上の父』は、常に折れた剣を腰に帯びていた。
これは、かつて守護神アレクサンダーが『剣を折るほどの怪力の持ち主で、彼の帯びる剣は常に折れたものだった』という逸話に由来する。
また、テオドラたちも正式に教団の一員と認められる際には、『硬い石に剣を叩きつけてわざと折る』という儀式を行なったものだ。
……すべて、思い出せる。
冒険者だった父母がダンジョンで亡くなり、ある日突然両親を失ったこと。
まだ幼かったテオドラは働くこともできず、このままだと奴隷になるぐらいしか先がなかったこと。
奴隷は嫌だった。世の大人たちは『子供の保護制度』みたいに言うが、絶対嘘だと今でもテオドラは思っている。
だって見も知らぬ、信用もできぬ大人がある日主人となって、その人に危害でも加えようものなら痛い思いをさせられるというじゃないか。
少なくとも、元奴隷だった両親はそんなふうに言っていた。
そんなのになりたくはなかったから、自分に手をさしのべようとする大人からも逃げた。
行き場がなく、飢えて死ぬしかなかったテオドラ。
そこに手を差し伸べてくれたのが――『最上の父』だった。
……まあ、最初から全幅の信頼を置いたわけではない。
生意気なこともやった。
思い返すだに恥ずかしいような反抗もした。
でもけっきょく、信じた。
行き場のない自分なんかを――悪態をつき、反抗し、大人なんか信じないと言いつつ施しだけちゃっかり受けるような自分なんかを、飽きずに面倒を見てくれた『最上の父』の熱意に心を打たれ、敬服したのだ。
だから、テオドラは彼を疑いたくなかった。
ともに育った仲間の言うことだって、疑いたくなかった。
全部、邪神が悪いんだと。
……そう無邪気に信じることができたらどんなに楽かと、そう思った。
「養父さま」
テオドラは笑顔のような、泣き顔のような表情で、彼に応じる。
養父――『最上の父』は心底こちらを心配するような顔をする。
「……不審火だろうね。詳しいことは、憲兵が調べないとわからないと思うけれど……」
「養父さま、その……」
「どうした?」
「先に帰ったみんなは、どうしました? まさか、あの『部屋』にいたなんてことは」
悲痛な顔をしてほしかった。
『最上の父』が帰ってきたみなを部屋に通し、そのあと、なんらかの事情で偶発的に、あるいは外部犯の仕業で部屋に火が放たれ、それに巻きこまれてみんなが死んだのだと、そのような筋書きであってほしかった。
その筋書きなら、みんなが部屋に入ったあと火が放たれたことに説明がつくし――
養父が悪者じゃないということにも、なる。
だから、養父には悲痛な顔をしてほしかった。
ちょっと注意を逸らした隙に、部屋に通した仲間たちが焼き殺されたのだと、その『事故』に対し哀しみと怒りをあらわにしてほしかった。
なのに。
「みんなは無事だよ。今は宿舎に帰してある。疲れていたからね」
彼は穏やかに笑って、語った。
……だからようやくこの瞬間、テオドラは理解する。
神はいない。
いや、最初から、いなかった。
膝から崩れ落ちそうになるのをこらえる。
それでもまだテオドラは養父のことをあきらめきれなかった。
なにか、やむにやまれぬ事情があるのだ。
そう、たとえば――
たとえば、理由はわからないけれど、邪神のせいだ、とか。
守護神が正義で。
邪神が悪で。
そういう単純明快な答えを、テオドラは望んだ。
……世の中には正義と悪があって、自分は――自分の好きな人たちは正義の側であってほしいと、そういうことを、テオドラはこいねがった。
「ところでテオドラ、帰ってきたばかりで悪いんだけれど、『部屋』に来てくれないか? 少し話したいことがある。今後のことで。あとは……そうだ、焼け跡の検分もしなければ。燃えてからまだ入ってないんだよ」
彼は笑っていた。
……テオドラは、笑う男性とよく接するな、と思った。
邪神の使徒の笑顔は、無表情も同然だった。
感情が読めない笑顔だった。
情報量の少ない、笑顔だった。
それに比べて、養父の笑顔は――
嘘くさかった。
きっと、養父は自分を殺すつもりなのだろう。
それでもいいとテオドラは思う。
でも、死ぬ前に、なぜ養父がこんなことをしたのか、知りたかった。
だからテオドラは言う。
「はい、仰せのままに」
無表情な笑顔をかたちづくる。
きっと、アレクが相手ならば見破られただろう、完成度の低い顔。
でも、養父は笑う。
なんにも気付かないまま、嘘くさく、笑った。