170話
「そういえば、今回は修業先に先客がいらっしゃるかもしれません」
などという無気味なつぶやきを聞きつつ、テオドラは本日の修行場に向かう。
場所は王都からやや南西方向に歩いた場所だ。
このあたりは荒れ野と草原が半々、といったところか。
王都から西側に向かうほど草地が多く、南へ行くほど荒れ野が広がる。
これは南にある絶壁が大地のエネルギー……地脈なる正体不明の力を『下』に落としているからだというような説もあるが、真偽は不明だ。
そもそも、絶壁の『下』があるかなどたしかめた人類は、一人を除いて存在しない。
その『一人』だって、聖典に記されているだけで、実在は疑わしいのだ。
……道中、そこまで考えてテオドラは首を何度も横に振る。
――聖典の内容は正しい。
邪神は巨大化するし、今は守護神アレクサンダーの軍勢対邪神とその使徒の、世界の命運を懸けた聖戦が始まろうとしているところなのだ。
それを疑うなどと。
……邪神の使徒に長くかかわりすぎた。このままでは堕落の一途をたどるのみだ。
「私は負けない……負けないぞ……」
「どうされました、いきなり」
「なんでもない。それより――」
目的地はまだか?
いい加減、草地と荒れ野の狭間を進むのにも飽きた。
……そんなようなことを言おうとしたのだと思う。
しかし、あるものを目撃した瞬間、それまで頭で考えていた文言が吹き飛んだ。
テオドラの視線の先には、歪なかたちの洞窟がある。
あれこそが今から挑む修行場だろうことは、想像にかたくない。
そのダンジョンの入口と思われる、なんとも筆舌に尽くしがたい、見ているだけで不安に襲われるような歪んだ円形の穴――
横には、セーブポイントがすでに設置してあった。
……セーブポイントを見ると、色々こみ上げるものがある。
しかし今回、テオドラが言葉を止めた理由はそんなものではない。
問題なのはセーブポイントのそばに立つ人物だ。
そいつは――
白銀の体毛。
子供のような矮躯。
そして、十本の尻尾を持つ、狐獣人――
テオドラの信じる教えに出てくる、守護神アレクサンダーの敵対者、邪神だ。
「邪神! 覚悟!」
テオドラは叫び、腰の後ろから剣を抜く。
そして魔力を編んで刃を伸ばし、邪神に向けて駆けだした。
体は妙に軽い。
邪神の使徒アレクの相手をしているとあまり実感がなかったが、速度も、力も、少し前と比べると格段に上がっているのが、ようやくわかる。
これなら、邪神の命脈を絶つことができるかもしれない。
体の軽さに起因する勝利への確信を抱きながら、テオドラは剣を握って突進し――
「なんじゃいきなり。礼儀がなっとらんな」
そんな声とともに、いきなり邪神の方向から突風が吹いてきて。
テオドラは、ごろごろと真後ろに吹き飛ばされた。
おそらく魔法だと思う。
だが、詠唱も予備動作もなくて、はっきりとはわからない。
転がったテオドラは、アレクの足にぶつかって止まる。
……いくら細身の少女とはいえ、テオドラが結構な勢いで吹き飛ばされてぶつかったのに、アレクはびくともしなかった。
ぶつかったの感触は人体よりも建造物に近い。
もちろん、人にも骨や筋肉があるから、鍛えた者は触った感触が硬かったりする時もあるのだが、そういうレベルじゃない。なにか構成物質から違うような、違和感のある人体。
テオドラは触れていることに恐怖を感じて、慌てて立ち上がる。
そして左右を見た。
右にアレク。
左に邪神。
ひどい挟み撃ちだった。
「おのれ! 私をおびき寄せてついに殺そうという算段だな!? 望むところだ! 本当に!」
剣を持って左右を順番に見る。
すると、左側にいた邪神が、肩をすくめて苦笑した。
「のう、アレク。貴様、わらわになんぞ恨みでもあるのか? 今日は特にそのようなものばかりこちらに遣わされるようじゃが」
邪神はため息まじりに言う。
アレクは頬を掻いた。
「セーブポイントの見張り、ご苦労様。……で、恨みがないとでも?」
「……まあ、そうじゃったな。それで、どういう意図で、わらわは発見されるなり『邪神』などと言われねばならんのじゃ?」
「宗教上の理由かな。というか、あんたを長年追ってた宗教団体っぽいんだけど、本当に心当たりないのか?」
「追われ慣れておるでな。どの組織かわからん」
「……つまり、まだまだあんたを追ってる組織はありそうなのか」
「大部分は『はいいろ』がどうにかしてくれたと思うんじゃがのう。わらわも寄る年波には勝てぬということか。どんな組織がわらわを追っておったか、五十から先は覚えておらんわ」
「それは年齢のせいじゃないと思うけど……」
「で? そやつはどうすればよい? お仲間と同じようにすればいいのか?」
その発言にテオドラは瞠目する。
お仲間。
それはきっと、ともに邪神およびその使徒を襲撃した、同じ教団の仲間だろう。
守護神アレクサンダーを直接守護するための部隊。
敬虔なる精鋭たち。
……みな、教理のために殉ずることなど、怖れない。
だからきっと殺されたものと考えていたが――
「我らの仲間は、まだ生きているのか!?」
テオドラは邪神に問いかける。
邪神は肩をすくめた。
「わらわは、殺すより生かす方が得意でな」
「どこにいる!?」
「ああ、それは――」
そこまで言いかけて。
邪神は、意地悪い笑みを浮かべる。
「――教えてほしいか?」
「……交換条件でも持ちかけてきそうな顔になったな」
「話がわかるではないか。なに、難しいことではないぞ。そして、貴様にしかできんことでもある」
「……なんだ?」
「貴様、いい体しとるのう」
「…………」
テオドラは自分の体を抱きしめる。
いい体している――そんなふうに言われるのは、初めてだ。
しかも、見た目は幼い邪神に言われるとなると、人生どころか人類史初かもしれない。
テオドラは警戒しながら、問いかける。
「……私の体が、なんだ」
「若く健康そうな、いい体じゃ。しかも、貴様、早死にしそうな性格しとる」
「……」
「そこでじゃ、貴様が死したのち、その体、わらわがもらおぶっ!?」
唐突に邪神がうめいて言葉を切る。
なにかと思えば、いつの間にか、アレクが邪神の背後に立っていた。
アレクが邪神の後ろにいることと、邪神がぐったりして動かなくなったことの因果関係は不明だが……
たぶんアレクが目にも止まらぬ速さでなにかしたのだろうと、テオドラは解釈した。
「……今の肉体が朽ちたら終わりにするんじゃなかったのか」
「きちんと交渉しておったじゃろ!? 貴様に口出しされることではないわ!」
邪神はアレクに抱えられながらも元気だった。
さすが邪神だ。
「……母さん、あんた、まだ生きる気か」
「生きて悪いか!? ――いや、待て、落ち着け。話せばわかる。ほれ、先ほど、わらわには敵が多いという話をしておったじゃろ? そこで予備の体がある方がなにかと安全かなと」
「今のあんたを殺せる人材は、俺の知る限り…………まあ百人はいない気がするから、大丈夫だろう」
「どのへんが『大丈夫』じゃ! 多いわ! 貴様の『大丈夫』は本当にアテにならんな!」
「なににせよ、今のは交渉じゃない。脅迫だ」
「……交渉と脅迫、なにが違う? どちらも『自分の目的を果たすため相手とする話し合い』じゃろう?」
邪神は心底不思議そうな顔で首をかしげた。
さすが邪神だ。
これには邪神の使徒もついていけなくなったらしい。
肩をすくめて、視線をテオドラに戻す。
「というわけで、次の修行はここで行ないます」
「待て! 私の仲間の情報は!?」
「無事ですよ。信じてください。大丈夫」
「信じられるか!」
「では、修行を中断してお仲間の様子を見に行きますか?」
「は?」
「かまいませんよ、それでも」
アレクはいつもと変わらぬ、感情の読めない笑顔で語る。
意図がわからない。
仲間と会わせることで、なにか邪神側にメリットがあるということなのだろうか?
テオドラは混乱する。
仲間の無事を確認することは、自分にとって得があるだろうか?
確認しないことで、自分にとって損はあるだろうか?
状況が不可解すぎて、混乱してきた。
……しかし、一つだけ思い当たったこともある。
アレクは、テオドラの目の前で仲間を殺していない。
いや、もちろん、それはいっぱい殺したのだが、結果的に死んだ仲間はいなかったように思う。
……なぜ生かすのだろう?
さらなる絶望のため?
いや、そもそも、『なぜ』を挙げていけばキリがない。
この男の行動はいちいち不可解だ。
テオドラを鍛える意味だって、わからない。
「……貴様は、なんなのだ? なにが目的だ?」
困り果てたテオドラは、それだけたずねた。
相手が正直に、そして簡潔に答える保証はどこにもない。
こんなのは占いのようなもので、問いかけに対する答えから、相手の心理を少しでもうかがい知ろうという、悪あがきにすぎない。
アレクは少しだけ悩む素振りを見せる。
そして。
「色々あって、もう一度正義の味方を目指すことにしました」
わかりやすいようでちっともわからない――
そして、テオドラにとってはとうてい受け入れられない答えを述べた。