151話
食堂はひどいありさまだった。
『月光』は一瞬、虐殺跡を回想する。
カウンター席と数少ないテーブル席がある、やや手狭な空間は、そこここで人が倒れ伏していた。
机につっぷして眠る人間の少女と、猫獣人。
床にからまりあうようにして寝転がる、エルフとドライアド。
椅子に座り、壁に体を押しつけるようにしてうなされているドワーフと、それに抱きつく魔族の少女。
ただ一人、毛髪の赤い、人間の女性だけがカウンター席でのんびりとジョッキに入ったなにかを飲んでおり、入って来たアレクに反応した。
「おや、その方は新しいお客様かな?」
赤毛の女性はそんなことを述べる。
それから、『新しいお客様』、つまり『月光』へ向けて言う。
「そんなにお若いのになにを早まってこの宿に来てしまったかは知らないが、少しでも『なにかおかしいな?』と感じたらすぐに宿を変えた方がいい。ベッドやら風呂やらはたしかに心地いいし、食事も美味しいのだが、それに騙されてはいけない。先達からの忠告だ」
真剣な顔だった。
この宿でしている修業の噂は、『月光』も知っている。
簡単にまとめると『とにかくひどい』という噂だった。
詳しい内容を知っていそうな者は、一様に口を閉ざす。
また、監視しにくい場所で行なわれるので、内容は『月光』にもわからない。
まあ、『はいいろ』と『狐』の修業を基礎にしているのだから、それはひどいに決まっているだろう。
アレクに気取られると捕まる、あるいは殺されると思っていたので、『月光』が直接その修業について見聞きしたわけではなかったが……
アレクは、人々が倒れ伏す食堂を見回していた。
顔には考えの読めない笑顔が張り付いている。
「ロレッタさん、これはどういう有様なんですか?」
「いや、ソフィさんが久々に顔を見せたのでな。なんやかんやと私の知る宿泊客はみんなそろったので、旧交を温めようとしたら、朝まで騒いでしまった。ご迷惑をおかけしている。寝転がっているみなさんは少し休んだら私が部屋に放り込もうかと思っているよ」
「なるほど。そのあたりはブランがやりますからご心配なく」
「そうそう、ヨミさんが風邪を引いてしまったのもあったな……いや、すぐに治ったのだが。それでトゥーラさんも……あれ? トゥーラさんは別件だったかな……」
「だいぶお疲れのようですね。まだ朝ですが、あとでお風呂を用意しましょう」
「それは助かる。私が全員お湯に沈めておこう」
「セーブしますか?」
「溺死をさせるつもりはないので心配には及ばない」
「そうですか。では、俺はちょっと厨房にいる妻に用事があるので……」
「ああ、そうだったのか。引き留めてしまってすまない」
「いえ」
アレクが笑う。
ちょうどそのタイミングで、奥から出てくる人物が一人いた。
「アレク、帰ってきたの?」
それは黄金の毛並みの狐獣人だ。
はっきり言って、見た目は幼い。
給仕のような服とエプロンドレスを身にまとっているけれど、親の仕事を手伝っている少女という感じだ。
ヨミ。
愛した人と、親友の忘れ形見。
彼女を見て『月光』は言う。
「……貴様、本当に成長しとらんなあ」
視線は主に胸のあたりに注がれている。
実はヨミの姿を肉眼で確認するのは久々だ。
理由は前述の通り、アレクに見つかるとひどい未来が待ち受けていそうだったので、気取られないよう注意を払って接触を避けていたというものだ。
いちおう、手の者を使っての監視はしてきたし、その報告も受けている。
だからぼんやりと、ヨミの現在の体型などを知ってはいたのだけれど……
それにしたって。
成長が止まりすぎだと『月光』は思った。
なるほどこれは、アレクも疑うわけだ。
体毛の色はともかく、見た目ならヨミは自分に近い。
そのように納得して『月光』はうなずく。
突然の来訪、そして奇襲気味の『お前母親に似ず胸が成長しないな』という言葉。
にもかかわらず。
ヨミはおどろいた様子もなく、対応した。
「あ、久しぶりー。元気だった?」
「……反応薄いな貴様は」
「んー……いや、まあ、なんとなくソフィさんの話とかから予想ついてたし。あとね、ぼくにとって、あなたはもう、どうでもよかったの」
「……」
「アレクは血縁とか気にしてたみたいだけど、ぼくはどっちだってよかったし。だから、『今さら出てきてどうしたの?』っていうのが、ぼくの素直な感想かな。本当の本当に今さらだしね。色々」
「……貴様、わらわのこと嫌いじゃろ」
「いやあ、好かれてると思う方がどうかしてる気がするけど……いなくなって迷惑かけられたし、いなくなったあとも、そこらで『狐』とか『はいいろ』とかを名乗る犯罪者は出てきたし……あれってあなたの差し金でしょ?」
「全部ではないが、一部はな。アレクを鍛える必要があったのじゃ。わらわの目的のために。そのための試練のつもりじゃったが、まあ、結果だけ見れば必要なかったのう」
「うん。だからね、出てくるなら面倒くさいことしないでさっさと出てくればよかったなあって思ってるし、出てきたところで『なんの用事だろう?』って感じなんだよねえ」
「おいアレク、ヨミはいつからこんなひねくれた性格になった」
『月光』はアレクをにらみつける。
対して、彼は笑ったまま答える。
「いえ、普段はやや口うるさいところもありますが、素直で優しいですよ。ただ、あなたのことが嫌いなだけかと」
「……手放しで歓迎されるとは思っておらんかったが……はあ……意外と堪えるのう」
「時間をかけて信頼を取り戻すしかないでしょうね」
「かけさせてくれるのか、時間を」
「それはあなたの好きにしたらいい。俺にはもう、あなたから聞きたいことはありませんからね。いたいなら、いればいい。ただし、いなくなっても、もう捜しませんよ」
「冷たい連中じゃな。わらわの味方はおらんのか」
「俺はこれでも最大限あなたの味方をしているつもりですが」
「母親だからか?」
「いいえ、お客様だからです。……そういうわけでヨミ、この人はしばらくこの宿で過ごす。修業もつけるから、そのつもりで」
アレクの言葉。
ヨミは一瞬、笑顔のまま固まった。
しかしすぐにその硬直は解けて、
「……まあ、詳しい事情は聞かないよ。お客さんなら、ぼくも追い出したりはしない」
「お客さんじゃなかったら追い出すつもりなのか」
「そうだねえ。存在が子供の教育に悪いし……」
「そんなに辛辣なお前を初めて見て、俺はちょっとびっくりしてる……俺たちのクランにまつわる詳しい事情はあとでこの人から聞くといい」
「うーん……ぼくはいいよ」
「気にならないのか?」
「そりゃあ気になるけど、聞いたところで、まだ幼かったころの話だしねえ。リアクションのとりようないと思う。それより、話を聞いて、アレクはどう思ったの?」
「……一定の理解を示す努力はしてみるべきかなと思った」
「ふぅん……ま、とにかく、いらっしゃいませ。ようこそ『銀の狐亭』へ――かな?」
「そうだな。『色々あったがこれからは仲良くしよう』って言えるほど脳天気な相手でもないけど、歩み寄る努力を最初から放棄するほどどうしようもないわけでもないとは思う」
「アレクが呼び寄せるお客さんはいつもだいたい複雑だけど、今回はぼくらにとって特別複雑な相手だねえ」
「俺もまさかこういう展開になると思ってなかった。当初の予定では殺すつもりだったし」
「そうだねえ。ぼくもそうなるだろうって思ってたから、ちょっとびっくり」
「実際に会うまでわからないもんだなあ」
「そうだねえ」
和やかに会話する二人。
その会話をカウンター席で聞いていたロレッタが「殺そうとしていた当人を前に笑いながらする話では……いや、いつものことか」とかぶりを振っていた。
「ところで病気だったんだって? 今の調子は?」
「べつに、普通」
「ならいい」
夫婦はそんな短いやりとりだけで、体調にかんする話題をやめて。
アレクは『月光』へ話しかける。
「そういうわけで、あなたにつける修業について、ご説明しましょう」
修業。
『ひどい』と噂のアレだ。
アレクは修業を監視しにくい人里離れたところか『銀の狐亭』内部で行うことが多いようなので、『月光』はその内容について満足に知らない。
手の者を使って見物させたりもしたが、上がってくる報告は『よくわからない』『修業に出たのかと思ったが、修業ではなかったようだ』『修業というのは口実で、対象を見つかりにくい場所で始末する彼流の暗殺術だった』というものばかりだ。
つまり、よくわからない。
ただし『月光』は、アレク自身の修業時代を知っているので。
「貴様のつける修業なんぞ、だいたい予想がつくわ」
「ほう。ではどのようなことをやらされると?」
「当時『はいいろ』と『狐』にやらされておった、『足音を立てないようにしながらダンジョンマスターを倒す』というものじゃろ?」
「ああ、それもやりますね」
「……なんじゃ、他にもあるのか。昔貴様がやっておったものは、言うてみればモンスターと殺し合うか、ダンジョンマスターと殺し合うか、『はいいろ』に一方的に殺されるか、その程度だと思ったのじゃが」
「まあ、その中で多くの『気付き』があったのでね。今は当時の経験を活かしつつ、主に妻やクランメンバーで得た経験をもとに、最高効率を目指して、好きなステータスだけ上げるなんていうこともできるよう、進化させました」
「ほう。それではまず、わらわはなにをする?」
「これはみなさん最初にやっていただいていることなのですが……」
「ふむ、つまり手始めの準備運動じゃな」
「はい。準備運動として、まずは崖から飛び降りていただきます」
アレクは笑顔のまま言い切った。
『月光』はうんうんとうなずいてから、
「……は? なんじゃと?」
おおよそ修業とは呼べないその行為に対して、思わず聞き返した。