122話
もう、昔のことだ。
オッタと同い年の少女がいた。
今はもういない少女。
オッタは、その子が死んだ時に、泣きたかった。
つらかった。
悲しかった。
街には自分たちと同い年なのに、命のやりとりなんか知らないような子供がいる。なにが違うのだろう。どうしてあの子たちは奴隷ではないのに、自分たちは奴隷なのだろう。
なにが悪いということもなかった。ただ、きっと、運が悪かった。誰を恨めということもなかった。ただ、運命を恨むべきだったのだろう。
運の悪い子が死んでいく。
その当たり前すぎる無念に、オッタは泣きたかった。
でも。
自分より先に泣いている、エンを見た。
隠れるように、こっそりと、誰にすがることもなく、一人きりで泣く彼女を、見てしまった。
ずるい、と思った。
だってエンみたいに強い人に先に泣かれたら、おどろいて、自分はもう泣けない。
でも、そのお陰で気付いた。
――エンだって、泣きたいんだ。
強すぎる彼女には、人並みの弱さがあって。
大人みたいな彼女にだって、子供の部分はあった。
だから。
奴隷から解放された日、オッタは、思った。
強さで弱さを覆い隠し、大人の仮面をかぶらなければならなかったエン。
その彼女を。
「今度は、オッタが、エンを助けたい」
――抱いた決意を思い出す。
弱すぎて、口にできなかった、大それた願い。
その願いを振り払うように。
エンは、大剣を強く、オッタへ叩きつける。
「私は、お前に助けられるほど弱くない!」
オッタは、二本の短剣で、その攻撃を受け止める。
あまりにも重い。
剣も、言葉も。
受けきれるわけがないと思っていた重圧だ。
体が押しつぶされそうになる。
それでも、オッタは受け止めた。
「エンは強い」
「……そうよ。私は強いの。だから、全部任せなさい。お前は、お前の人生を生きるの。痛いのも苦しいのも、全部、私が持っていくから。……お前まで、苦しい思いをすることはないんだから」
「でも、今のオッタは、もう強い」
「……」
「エンが見失うぐらい速くなった。エンを傷つけられるぐらい鋭くなった。……エンを受け止められるぐらい、強くなった」
「……馬鹿を、おっしゃい」
「オッタは馬鹿だ。でも、この気持ちは馬鹿にさせない」
エンの大剣を、はじき返す。
重い剣。
大きな剣。
まさかはじかれるなどと思っていなかったのだろう、エンは驚愕に目を見開く。
体勢が崩れる。
心に、隙が生まれる。
そこに、オッタはすべりこんだ。
それから。
「もう、エンだって、オッタを頼っていい」
大剣に、一撃を叩きつける。
――大剣がはじけ飛ぶ。
武装をはがされ、隙だらけになったエン。
ようやく作ることができた、致命的な一瞬の隙。
オッタはエンとのわずかな間合いを詰める。
そして。
「オッタは強くなったんだから」
オッタは、エンを抱きしめる。
短剣は地面に捨てていた。
ただ、ぎゅっと、力強く、抱きしめる。
殺せるタイミングで、殺さない。
傷つけられるタイミングで、傷つけない。
それがオッタの選択だった。
エンはしばし、硬直していた。
視線の先にはオッタが落とした短剣がある。
抱きつくオッタをふりほどき、体勢を崩し、短剣を拾って反撃――
そのような図を頭に描いてから。
ため息をついて、両腕を、おろした。
「……馬鹿な子。なんで、私なんかのために、強くなるのよ。お前にはもっと、普通の人生だってあるはずなのに」
「全部、話してもらう。それで、生き残ってもらう」
オッタは、抱きついたまま、真っ直ぐにエンを見据える。
彼女はしばらく沈黙した。
けれど。
観念したように、口を開く。
「……ティオが死ぬ時にやらされた興行は、結構な人気だったみたいよ。バルトロメオはね、今の業種がもう長くないと思ってたみたい。奴隷を整理する機会をうかがっていた」
「……」
「奴隷の整理もできて、儲けも出る興行を、バルトロメオは繰り返したわ。奴隷がいなくなるまでね。ようするに――時期が悪かった」
「……」
「そして、剣闘奴隷商を畳むまでの稼ぎは、全部、私の興行だけでまかなえてしまうらしかったのよ」
「……それは」
「私が、たくさん興行に出たせい。みんなが少しでも戦わずすむように、自分を鍛えて、無理をしてたくさんの興行に出て……そのせいで得た人気と実力が、他の奴隷をいらないものにしてしまった」
「…………」
「私が、みんなを殺した。みんなのためを思ったのに、全部、裏返った。……どうして私たちはこうなの。生まれた時から不幸が決まってて、死ぬまで不幸が予約されてる。自分を救うのは自分しかいなくって、でも、自分じゃ自分を救えない」
「……」
「なんで、なのかなあ。私はもう、がんばれない。がんばったって、どうせ、無駄になるの。なんで、こんな……」
弱々しい姿を見た。
オッタは、嬉しく思う。
エンが、弱さを隠さず見せてくれる。
ということはきっと、オッタの強さを認めてくれたのだろう。
それだけで。
今までやってきたことが、全部、報われた気分だった。
「我慢しないで、泣いていい」
「……」
「エンの弱さは、オッタが受け止める」
「…………」
「だから――」
ぐらり。
言葉の途中で、オッタの体が、かたむく。
限界だ。
終わってみれば、オッタは無傷。
勝負は終始優勢だった――
――わけがない。
たった一撃もらうだけで、状況はひっくり返ったのだ。
一瞬一瞬に、寿命を燃やし尽くすほどの集中を必要としていた。
さらに、運動量。
腕力で劣るオッタは、そのぶん、エンより動きを多くしなければならなかった。
加えて、環境。
吸いこむ息はもうかなり熱い。
煙だって、視界を埋め尽くそうとしている。
呼吸なんてまともにできるはずがない。
それでも、どうにか緊張で意識をつなげていたのだろう。
でも、勝負は終わった。
オッタは悲願を達成した。
大事な大一番を終えて、誰もが当然感じる気の緩み。
責められるものではない。
けれど、そのせいで、とうに限界だったオッタは、当たり前のように、気を失った。
「オッタ!?」
エンは慌てて、彼女の重量を支えようとした。
でも、無理だった。
オッタの軽い重量さえ、エンはもう支えきれない。
主を傷つけた痛み。
強くなりすぎていたオッタとの戦い。
炎に巻かれた闘技場の空気は、ただ吸うだけでも痛いほどに高熱だ。
煙は視界のみならず体内さえ侵している。
「……馬鹿な子」
エンはオッタを抱きしめる。
……きっと、お互いに限界だったのだろう。
「だから、私のことなんか放っておけばよかったのに。……お前まで死んでしまったら、私の人生はもう、なんのためにあったのか、わからないじゃない」
炎は勢いを増していく。
煙はあたりを満たしていく。
エンは静かに目を閉じた。
そして、オッタを強く抱きしめる。
――建物が焼け崩れる音がした。
どこか遠い世界のことに思える。
ようやく気付く。
この人生は、報われていたのだ。
すべて裏目に出たと思ったけれど。
自分のせいで、多くの子供たちを死なせてしまったけれど。
……それでも、オッタ一人だけでも、救うことができた。
今際の際、そのことを思い出すだけで、笑って死ぬことができる、はずだったのに。
「最期まで、こうなのね」
腕の中の熱を想う。
こうして、彼女の人生は、報われることなく幕を――
「終わったようですね」
ドウン! と耳朶を叩く音。
地下であるはずの空間に、暴風が吹き荒れる。
風は炎と煙をなめつくし、渦をまき、焼け落ちかけた天井を吹き飛ばした。
エンは混乱する。
なにが起きたのか。
その答えを求めて、いつのまにかそこにいた、銀の毛皮のマントの男性を見た。
「お迎えにあがりましたよ。いや、戦っていたあなたたちほどではないでしょうけれど、こちらもこちらで、かなり、ハラハラしました」
「……アレク、さん」
「お二人とも瀕死のようですね。よかった、無事で」
「…………あいかわらず、意味不明ね」
「まあ、死んでいなければどうにかなります。特に、原因のはっきりしている傷はね」
「……でも、私の痛みは消えない。主を傷つけた奴隷の末路は、わかっているつもりよ」
「驚嘆に値する精神力ですねえ。その痛み、俺は半日もたず半狂乱しましたよ」
「……元奴隷なの?」
「事情があって一瞬だけ、奴隷みたいなこともやっていました。……まあ、それより、あなたの痛みは俺が消せますよ」
「……その方法は聞いたけど、意味がわからないって言ったじゃない」
「ですから、あなたは今、主が死んで、国が仮の主だ。ということは、女王陛下と直接交渉して俺が国からあなたを買い取り、仮ではなく正式な主になれば、『主を傷つけた痛み』は消える。だって俺は、あなたに傷つけられていませんからね」
「……だから、女王陛下と直接交渉なんてできるわけないでしょう」
「できますよ。知り合いですから」
「…………何者よ、あなた」
「それはあなたが決めてください」
「?」
「どうでしょう。オッタさんに負けて。それでもまだ、死を選ぼうとしていますか? 死を選ばないのであれば――俺は、あなたの主人です」
「…………」
エンは腕の中のオッタを見る。
苦しげだった顔は、安らかになっている。
……呼吸は、している。
あの環境で戦った痛手が、こんなに短期間で治るとは思えない。
彼がなにかしているのだろうかと、エンは思った。
思わず、笑う。
「……私はね、なんでも一人でやらなきゃいけないと、思ってたの。だって私は、強いから」
「……」
「でも、できないことが、たくさんあった。こうして倒れたオッタを癒やすことも――オッタを自由にしてあげることも、私にはできなかった」
「…………」
「頼ってもいいかしら? 私のできなかったこと、できそうもないこと、あなたにお願いしても、いいの?」
「それがあなたの願いであれば」
「……ありがとう。肩の荷が降りたわ。こんな気分は、初めてよ。すごく――幸福なのね。人に頼るのって」
「あなたはどうされます? あなたの願いは、変わりませんか? 今もまだ、自分は死ぬ以外にないと、そうお考えですか?」
「もう、この子は私の手を離れたわ」
「……」
「……本当はね、もう嫌なだけだったの。やることなすこと全部裏目で、私がこの子を思えば思うほど、この子を不幸にしてしまう。……とかね。この子のためを思うようなつもりで、私はもう、人のためにがんばるのに、疲れていただけだった」
「……」
「でも、もう、私は、私の人生を歩んでもいい。……オッタに、頼ってもいい。力尽くで教えられたわ」
「そうですか」
「……うん。だから、ね。もう少しだけ、生きてみようかしら。報われないと思っていた私の人生は、この子がいるだけで報われてるんだって、わかったから」
「結構。すぐにでも、あなたを俺の奴隷としましょう。まあ、殺人と放火の裁きは受けていただきますけれどね」
「ありがとう。……それから、罪人の主にしてしまって、ごめんなさい」
「かまいませんよ。……罪を償い終わって行くあてがなかったら、『銀の狐団』というクランを紹介します。そこにはあなたと似たような境遇の人が、たくさんいますからね」
「……あはは」
「どうしました?」
「馬鹿みたい。……この世の不幸を全部背負ってるような気でいたのに。そっか。私だけじゃないんだ。――広いな、世界は」
アレクが空けた天井から、空を見る。
……燃えさかっていた炎は、とうにない。
一人、夜に抗った灯りは、とうとう夜空に溶けて消えた。