120話
事態はたぶん、急展開を迎えたのだろう。
少なくとも、オッタにはそのように感じられた。
「ちょっと急ぐ必要が出て来ました」
どこかへ行っていたアレクは、戻ってきて早々、そんなことを言った。
時刻はもう、夕方だった。
日が沈むまではそう時間がない。
オッタはつい今し方、修行を終えた。
これから本番前に少しだけ休憩をしようと思っていたところだった。
アレクはダンジョンで出会った時の服装だった。
銀の毛皮のマント。
それから、無気味な意匠の仮面。
説明をする間も惜しむアレクへ連れられ、オッタはある場所に向かうことになる。
それは――一番街だ。
富民街、と言った方が多くの人に理解してもらえるだろうか。
街で一番王城に近い住宅街。
ようするに、貴族とまではいかないが、それなりの血統や地位、そして貴族をしのぐ財力を持つ者たちが好んで住む一級住宅地で――
バルトロメオの根城があった場所。
すなわち剣闘場のある街だ。
普段は閑静な住宅街。
身なりのいい人々が行き交う、上品な印象の場所。
けれど。
今、一番街は、怒号と悲鳴にあふれていた。
並んで立つオッタとアレクの周囲を、前から来た人々が駆け抜けていく。
オッタは何人にもぶつかられ、にらまれ、『邪魔だ』と怒鳴られた。
人の激流。
その中で、アレクは岩のようにゆらがず、ぶつかられることもなく、立っている。
「『急ぐ必要』はご覧の通りです」
オッタたちの目の前には、『一番街市民ホール』と呼ばれる建物があった。
石造りの、四角い建物だ。
面積はかなりのものなのだが、屋根が平べったく、また、二階建てで周囲の建物より低いため、どこか『つぶれたような』印象がある。
色とりどりのレンガで作られた、綺麗な建物。
……アレクが言うには。
この建物は、このあたりに住む市民が、なにか催事を行う際に用いられる施設らしい。
一番街に住んでおり、申請さえすれば、誰でも自由に使うことができる。
勝手な侵入をしようとする者がいないよう、普段から警備兵が目を光らせており、安全性もたもたれている。
市民の憩いの場。
大人も子供も老人も使う、平和の象徴みたいな施設。
……ただし、オッタは、この建物の平和ではない用途を知っていた。
それも、身に染みて。
「闘技場」
オッタは、その建物をそのように呼んだ。
……そうだ。
バルトロメオに連れられて、何度通ったかわからない。
ここの地下には、剣闘士同士を戦わせる場所があった。
ある意味で、思い出深い場所。
悪い思い出は多い。
オッタは弱かったから、負けることばかりだった。
それでも死ななかったのは、逃げるのが得意だったからだ。
それに、ここで戦うエンは、格好よかった。
……思い出が、たくさんある場所だ。
その場所が。
今。
「燃えてる」
赤々とした光景は目を焼く。
火柱は天高くまであがり、空の橙と混ざっていた。
雲が、流れる。
風で巻き上げられた火の粉が、細かな粒となって、弾けては消えていた。
ガコン、という大きな音。
屋根の一部が、いびつにへこんでいた。
きっと焼け落ちたのだろう。
「俺は、あの火事を消せません」
アレクはそのように語った。
首をかしげるオッタへ、言葉を続ける。
「俺には、エンさんとの約束があるから」
「エンと?」
「はい。あなたの修行をしていないあいだ、エンさんと会っていました」
「そうなのか」
「彼女は剣闘闘技をつぶしたがっていた」
「……」
「だから、火を放ったというわけですよ。それを俺は見て見ぬふりをしました。……こんなことをしたって意味がないことは、彼女もわかっていますけれどね」
「意味、ないのか?」
「場所がなくなっても組織は残りますから。そして、組織の方をつぶしきるには、エンさんはあまりに弱い」
「エンは強い」
「そうですねえ。でも、なんらかの集団をつぶすというのは、戦乱ではないこの世界において、腕力でできることではありません」
「……よくわからない」
「覚えましょう。……いずれ、あなたに必要になる知識だ」
「がんばる。……なあ、アレク」
「はい」
「エンは、体調悪いのか?」
「……まあ、隠す方が無理ですよね。はい。体調は、よくないでしょう。というか、考えればたぶん、どんな状態かわかると思いますよ」
「……バルトロメオを殺したからか。奴隷が、主を傷つけようとすると、すごい痛い。息もできないぐらい」
オッタは左手首を見る。
もう、そこにはなにもない。
けれど、かつて、そこには、奴隷の紋様が刻まれていた。
魔法の刻印。
主への反抗を防ぐため、害意に反応して全身に痛みを走らせる、懲罰用具。
「だからアレクは、エンに味方したのか? エンがいっぱい、痛い思いしてるから」
「そうですねえ……うまく説明するのは、難しいのですが」
「聞く」
「この世界には、生まれた時から奴隷となる者もいれば、刑罰として奴隷に落とされる者もいる」
「……」
「俺からすると、おかしな感じがしますね。……まあ、奴隷制度自体は一長一短、やる気のまったくないニートでも『働くしかない状況』に追い込まれ社会復帰が可能となる一方で、こうしてこっそり隠れて奴隷に酷い扱いをするやつもいる。善悪とか、是非は、俺には難しすぎてわからない」
「アレクにも難しいのか」
「そうですねえ。そもそも、世の中に簡単なことはありません。……俺は師匠に、『生まれで人生が決まるようなヤツをなくしてくれ』と頼まれました。でも、その言葉を突き詰めれば、王族や貴族さえなくして、すべてを平等にしなければならない」
「……よくわからないけど、それは、なんか、ものすごい」
「俺の師匠もそこまでのことを言ったつもりはないでしょう。けれど、受け取り方によっては、そのようにも解釈できる。師匠の弟子が俺でなかったならば、そのように、極端に走った可能性はないでもなかった」
「難しい」
「そう、難しいんです。言葉の受け取り方一つにせよ、制度の見方一つにせよ、とても難しい。誰かに答えを教えてほしい。でも、教えてくれる人はいない。というか、『誰かの答え』はあっても『正解』はない」
「…………頭がおかしくなりそう」
「はい。色々考えすぎると、どうしても、止まりますね。頭も、行動も。だからこういう時、俺は明確な一つの判断基準を定めています」
「どんな?」
「『共感できるかどうか』です」
「……」
「さて、エンさんの行ったことは、放火だ。もちろん、違法で、多くの人にとって、されたら迷惑な、悪いことです。しかも、意味があるかと言えば、そこまででもない。闘技場一つ焼け落ちた程度で、剣闘というものを行う連中自体が消えたりはしないでしょう」
「……」
「どう考えたって間違っている。……でも、彼女の熱意を、俺は支持した。彼女の行動は多くの人にとって止めるべきことだけれど、俺に共感できる正しさがたしかにあったから、俺は、彼女の味方をすることにしたんです」
「一緒に火をつけたのか?」
「まさか。……まあ、味方すると言っても、残念ながら、保身はしていますよ。俺にも俺の目的があるから。やったことといえば、彼女がこれ以上人を殺さないように、近隣住民にある程度の避難を呼びかけたり、憲兵や消防団の到着を遅らせたり、その程度ですね。なるべく先のない行為はさせないようにしているのですが、今回は、他にやりようもなかった」
「……」
「さて、これからあなたがエンさんと勝負しようとしたら、あの燃えさかる闘技場に入るしかないでしょう。内部はきっと、大変熱いと思います。地下ですからね。普通の人ならば、もう焼け死ぬほどの温度でしょう」
「…………」
「そのうえで、俺は、エンさんから、あなたへ言伝をあずかってきました」
「……どんな?」
「『お前が約束の時間、約束の場所に来なかったら、私の勝ちだ。だって、私はもう、しゃべることができなくなるから』」
「……」
「さて、考えてみてください。――真実に、知る価値はあるでしょうか?」
「…………」
「こうまでして、エンさんが隠し通そうとしている真実を、あなたはそれでも、暴きますか?」
オッタは、燃える闘技場を見た。
――空は暗い。
赤々と立ち上る火柱は、落ち損ねた夕方の光の残滓めいていた。
大きな火柱。
でも、なんて悲しい灯りなのだろう。
いずれ消えることが定まっていて。
それでも夜を照らし続ける。
……この光は。
中で待つ彼女の、声なき悲鳴のようにも、思えた。
「……オッタは、行く」
「それがあなたの意思ですか」
「真実を暴くべきかどうかなんて、難しいことはオッタにはわからない」
「……」
「でも、放っておいたらエンが死ぬ。だったら、オッタが行って、助ける」
「しかし、彼女の望みはまさに『死』かもしれませんよ?」
「そんなの知るか。エンが死にたいなら、オッタは邪魔する。それでエンが困るなら、ずっとオッタがエンを困らせ続けてやる。その代わり――エンだって、オッタを困らせたらいい。オッタはエンになら困らせられても、いいから」
「……結構。あなたの決意、しかとうかがいました。それでは、セーブポイントを――」
「いらない」
「……」
「エンは命を懸ける。だったら、オッタも、命を懸ける」
「なるほど。……内部はすでに、相当高温だ。あなたやエンさんでも、そこまで、もたない」
「……」
「勝負が終わったら、すぐ助けに行きますが、それまでは、邪魔はしませんし、させません。だから安心して、決着をつけてきてください」
「わかった」
「お気をつけて」
アレクに見送られ、オッタは燃えさかる闘技場へと向かう。
揺れる炎の明るさが、視界の端に焼き付いた。