114話
「っ、ぐ、う」
エンが苦しげにうめく。
オッタは、反射的に駆け寄ろうとした。
「エン!」
「来るな!」
彼女の手にした大剣が、振るわれる。
風圧だけで吹き飛ばされそうな威力。
オッタの足は、思わず止まった。
エンは荒く浅く、呼吸を繰り返す。
顔にはよく見れば脂汗がにじんでいた。
血と汗でつやめく、エンの肌。
オッタは、妙に美しいと思ってしまう。
彼女は片手で顔をおさえる。
そして、鬼気迫る表情で言った。
「……なにをしに来た。もう、お前は奴隷じゃないでしょう」
「エンたちみんなを買いに来た」
「……馬鹿をおっしゃい。奴隷七人を解放する資金だなんて、そんな簡単に用意できるわけがないでしょう。誰かに騙されてるんじゃなくて?」
「……オッタにはよくわからない。でも、アレクは信用できる気がする」
「またそれ? ……お前はいつも『気がする』ばっかりねえ。ま、だいたい間違ってないのがすごいところだけれど。直観力かしら? お前の危機察知能力は本当にすごいわね」
「だから、エンだって、もう自由。……もう、剣闘をやらなくてもいい」
「お前が馬鹿なのは相変わらずね。目の前、ご覧なさい? バルトロメオは私が殺したわ。所有者が死んでいるのに、誰と私を買うための売買契約を結ぶっていうの?」
「……オッタにはわからない」
「そうね。ともかく、お前の求めるものは、ここにはないわ。……帰りなさい」
「エンは?」
「……」
「エンは、どこに帰る?」
「…………」
「バルトロメオはいない。エンの帰る場所は、どこだ?」
「……本当に」
「……」
「本当に、なんで、今、お前と会ってしまったのかしら」
エンが笑う。
ずっと険しい顔をしていた彼女の笑顔に、オッタは安堵を覚えた。
でも、それも一瞬だ。
エンはすぐに、苦しげに顔をしかめ、
「とにかく、もう、お前には関係ない。……消えなさい。さもないと、怒るわよ」
「怒られるのは、いやだ」
「だったら」
「……でも、どうしても、聞かなきゃいけないことがある。そのぐらい、オッタにもわかる」
「…………」
「みんなは、どこだ」
「……」
「エッタは? トレは? フェム、ティオ、シューゲ、オッティ……みんな、どこだ」
「もういないわ」
「…………いない?」
「ええ、いないのよ。だから、お前が奴隷を買おうとしたって、もう、なにもない」
「いないって、なんだ。オッタにもわかるように、言ってほしい」
「……」
「エン、答えろ」
「私が、殺したから」
「…………うそだ」
「もう、いない。この世のどこにも」
「なんで、そんなこと、するんだ。エンは、みんなと、仲良しだったのに」
「お前には理解できないわ」
「それでも、教えろ」
「……言う気はない――っ、う」
エンの形相が歪む。
痛がるような。
あるいは、怒るような。
歯を食いしばり、拳を握りしめる。
目に力を入れ、オッタではないなにかをにらみつける。
オッタは心配になって駆け寄ろうとする。
でも、エンは、オッタを近付けようとは、してくれなかった。
「来るなって、言ってるでしょう」
「……でも、エン、苦しそうだ。オッタはエンを放っておけない」
「もう関係ないんだから、放っておきなさい。……お前には、お前の人生があるでしょう」
「……でもオッタは、エンを放っておくつもりはない」
「聞き分けのない子」
「頑固者」
「……いいわ。わかった。こういう時、私たちはいつも、ケンカで決めたわね」
「…………決めた」
「そして、いつも私の勝ちだった」
「……」
「今回だって、いつもと同じ。お前は納得できないかもしれないけど、覚えなさい。世の中はね、納得できないことばっかりなのよ。……大人になりなさい。お前はもう、奴隷ではないのだから」
エンが大剣を、片手でかまえる。
オッタは、腰の短剣を抜いた。
緊張で胸が苦しくなるのを、オッタは感じた。
ここで負けてはいけない気がする。
もし、エンに負けて、なにも聞かないままエンと別れたら、もう全部終わってしまう気がする。
そして、勝てないだろう。
ぞくぞくと逆立つ毛が。ぶわりとふくらむ尻尾が。敗北の未来を予知させる。
「行くわよ」
エンの声。
そして、輪郭をかすませる速度で、斬りかかってくる。
オッタも慌てて、短剣をかまえて、前へ進んだ。
一秒後の敗北を予感しながら。
でも。
敗北は、おとずれなかった。
「ちょっとよろしいでしょうか」
あいだに割りこむ人影があった。
いつからいたのか。
いつの間に来たのか。
オッタの主観で言えば、『急になにもないところから浮き出た』ように。
アレクが、エンの大剣と、オッタの短剣を、素手で止めていた。
エンが素早い動作で飛び退いた。
それから、大剣を両手でかまえなおし、言う。
「お前、何者? 邪魔するなら斬り捨てるわよ」
「可能ですか、それは?」
「……チッ」
「お二人のあいだに割って入ったのは申し訳ありませんでした。しかし、こちらとしては、オッタさんに協力する腹づもりでいますので、今、勝負をされては困るのですよ。確実に負けてしまいますからねえ、オッタさん」
「……だったら、なに? お前がオッタの代わりに、私の相手をするの?」
「あなたがしたいのは、勝負ではないんですか? 俺とあなたでは、勝負になりません」
「……」
「ああ、挑発のつもりではないですよ。ただ、『確実に負ける勝負』では納得できないでしょうということを、申し上げたかっただけです。……オッタさんだって、このまま戦って負けても、納得はできないかと思いますよ」
「……だったら、どうしろっていうのよ」
「そこでお二人に提案なのですが、どうでしょう、オッタさんに、これから俺が修行をつけます。あなたは修行後、オッタさんと勝負して、お互いに納得いくようにしていただきたい」
「…………」
「どうでしょう?」
アレクが、オッタを見た。
オッタはうなずく。
「……それでいい。エンが、いいなら」
アレクの視線が、エンの方を向く。
彼女はため息をついた。
「……いいわ。いつまでもしつこくされても、困るもの」
「ありがとうございます。それで、どのぐらいお時間いただけるでしょうか?」
「……なんで、私に聞くわけ?」
「この場で一番時間に余裕がないのが、あなただからですよ」
「……」
「最低三日はほしいのですが、さすがに、それは無茶だと思うので――」
「今日から数えて、七日あげる」
「……大丈夫なのですか?」
「…………お前、なにが見えているの?」
「あなたのHPですね」
「……意味のわからないことを。とにかく、七日あげるわ。今日が一日目、明日が二日目。そして、七日目の夜、剣闘場で勝負をしてあげる。それでいいわね」
「…………あなたがいいとおっしゃるのであれば、その意思は尊重しますが」
「だったら、余計なことを聞かないで。……だいたい何者よ、お前。突然出て来て……ひょっとして、オッタに出資したの、お前かしら」
「そうですねえ。順当に事が運べば、しばらくあなたの主人をやるつもりでしたよ」
「……目的はなにかしら? 『自分はいいことをしている』っていう満足感? それとも使い道に困ったお金を使った道楽? あるいは――オッタの体と人生?」
「ご安心を。俺はオッタさんに危害を加える気はありません。だいたい、妻帯者ですからね。体が目当てだなんて、妻に怒られます。ウチの妻は、怒ると怖い」
「じゃあ、なんでそんな、得のないことを? お前がその子をどう思ったかは知らないけど、奴隷七人分の金額なんて、その子は何十年かけても稼げないわよ」
「稼げますよ。まあそれは置いておいて……俺の目的自体は『ほんの少し世界をよくしたい』ですかね」
「……」
「あとはバルトロメオさんの情報操作技術に興味がありました。俺もがんばってはいますが、まだまだこの世界に暗い場所は多い。目的のために、少しでも情報の操作方法を知っておきたいと、そういうことですよ」
「……お前もバルトロメオ側の人間なのね」
「表か裏か、で言えばそうでしょうねえ。正義か悪か、で言っても、同じく悪の側と見られることはあるかもしれませんねえ。まあ、裏にいるけれど裏ではなく、表の顔はあっても表でなし。白でもなく黒でもない。……そんな感じかと」
「…………うさんくさい男。どうしてオッタは、お前なんかを信じたのかしら」
「うさんくさいでしょうか? これでも正直に生きているつもりなのですが」
「……ふん」
「まあ、ともかく。七日、いただきます。あなたのご厚意に甘えましょう」
「かまわないわ。その程度で埋まるほど、私とオッタの実力は近くないもの。……せいぜい、オッタが納得できるようにしてあげてちょうだい。お前にそれができるなら」
「できますよ。一週間あれば、あなたに勝てる確率は半々ぐらいにできるでしょう」
「……強気ね。いいわ。じゃあ――今は、帰してくれるんでしょう?」
「帰る場所は? よろしければウチの宿に来ます?」
「結構よ。私はこれ以上、オッタの人生にかかわるつもりはない。……七日目の夜、戦って、勝って、それでお別れ。そこから先はもう、私とオッタは無関係よ」
「……はあ、すごいですね」
「なにが」
「……いえ。その状態でそこまで元気に振る舞えるというのは、すさまじいと思いまして。なるほど、これが命懸けの修行を乗り越えた猛者か」
「…………お前と会話しようとすると疲れるわ。そういう意味では、オッタとよく似てる。それじゃあ――また会いましょう。さよならをする日にね」
言い残し。
後を追われないことを確信しているように、ゆっくりと、歩き去って行った。
オッタはエンを見送る。
それから、アレクへ向き直った。
「アレク、修行をつけてほしい」
「おや、あなたはせっかちな方ですね」
「強くなりたい。強くなって、エンから、色々、聞かないといけない」
「……」
「エンは、なんか、すごく痛そうだった。……強いけど、弱々しかった。だから、オッタが助けなきゃ」
「なるほど。……いい意気です。それでは早速、修行を始めましょうか。まずは街の南にある絶壁へ向かいましょう」
「わかった。オッタはそこでなにをする?」
「崖から飛び降りてから、豆を食べましょう」
「……?」
「やればわかりますよ」
「わかった。オッタはやる」
オッタは拳を握りしめた。
そして。
修行の日々が、始まる。