111話
オッタが彼と出会ったのは、もうだいぶ前のことになる。
とあるダンジョンの最上階で、金銭目的で戦いを挑むことになったのだ。
一攫千金なんていうのは誰でも夢見るおとぎ話で、ようするにオッタもそういうものに憧れた少年少女の一人だった。
ダンジョンに挑む。
草原地帯に突き立った金属製の塔。
数々の悪辣なトラップが冒険者の行く手を遮る、その名も『拒絶の塔』。
レベルは八十。
自殺志願者御用達とも言われるそのダンジョンに、オッタは満を持して突入した。
ダンジョンマスターの部屋にあると言われる『カグヤの予言書』を得るためだ。
五百年前の英雄、アレクサンダーとともに旅をしたと言われる獣人、カグヤの書。
そこには、今後起こること、かつて起こったことのすべてが記されているという。
もちろん、予言なんてあるわけがない。
しかし、伝説の勇者パーティーにいたメンバーのしたためた書物だ。
好事家には大金で売れるだろう。
オッタには金が必要だった。
それも、途方もない額が。
普通に生きたって望みようもないほどの大金。
それを求めて、彼女はダンジョン内部を進んで行く。
トラップを避けつつ進む。
階段はもう何段のぼったか知れない。
外観もそうだったが、内装も、全面、銀色の金属でできていた。
ピカピカと光る内壁は、整備や清掃をしている人がいるはずもないのに、濡れたように輝く。
あたりには自分の姿があちこちに映っていた。
青い毛並みの猫獣人。
とがった耳と、細長い尻尾には、自信があった。
無論、見た目の美しさに、ではない。
その危機察知機能、第六感とも言える鋭敏な感覚に、オッタは大きな信頼を置いている。
装備は探索用の、肌にぴったりとはりついた、衣擦れ音の出にくいもの。
腰には太いベルトを巻いている。
そこに道具を入れるポーチや、回収したお宝を詰める袋、それから短剣を装備していた。
武器があるとはいえ、オッタは冒険者を始めてから今まで、戦闘を可能な限り避けてきた。
戦闘をするには、それなりの装備がいる。
そして、怪我もしやすい。
お金稼ぎには探索がいいと、数々の失敗で学んでいた。
学ぶことは大事だと、オッタは思う。
ここ、『拒絶の塔』のことも、少ない情報しかなかったが、事前に学んでいた。
モンスターはほとんど出ない。
ダンジョンレベル八十とは、トラップの多さ、殺意の高さからついたものだ。
けれど、引っかからなければいい話だ。
腕力はないけれど、身のこなしには自信がある。
頭を使うのは苦手だけれど、尻尾や耳が、危険に反応してくれる。
だからこそ、誰も挑まない自殺者御用達のダンジョンに挑むことができて。
この『拒絶の塔』の最上階に、この世の誰より早くたどり着くことができる。
――そんな風に思っていたのに。
「おや、王都の冒険者でここまでたどり着かれるとは、珍しいですね」
先客が、いた。
予想外の事態に、オッタは戸惑う。
相手は、年齢不詳の男性だ。
まずは無気味な意匠の仮面が目を惹く。
次いで目を奪われるのは、銀色の毛皮のマントだろうか。
腰の後ろに、柄が見える。
剣を装備しているのかもしれない。
男性はなにかを持っていた。
それはかなり分厚い、古い本だ。
きちんと編纂され、街で見る書物のようにかたちが整っている。
古そうだが、ページが朽ちている様子もない。
保存状態はかなり良好。
分厚く硬そうな表紙。
オッタは、そこにある本のタイトルに気付いてしまった。
『カグヤの書』。
それこそ。
オッタが目指していた、唯一無二の宝だった。
呆然とする。
男性は、微笑んで、言った。
「おや、あなたも『コレ』が目的で?」
「……そうだ。オッタは、その本が必要だ」
「しかし、ひと足先に俺が獲得してしまいましたからねえ。冒険者をしていると、狙った財宝を誰かに先取りされるというのは、よくあることです。冒険者のならいに従い、あきらめてください」
「……」
「と、いうのも少々酷な話か。少なくとも、納得はできないでしょう」
男性はなにかに納得したようにうなずく。
そして、おもむろに、大事そうに、『カグヤの書』を足元においた。
捨てた、わけではないだろう。
男性の意図がまったく読めずに、オッタは首をかしげる。
「オマエ、なにがしたい?」
「納得というものは大事だと、俺は考えています。まあ、冒険者のならいで言えば、先に『カグヤの書』を獲得した俺に、所有権はあるのでしょう。けれど、そもそも、今の俺の職業は冒険者ではありません」
「……」
「そこで、あなたにチャンスを差し上げましょう」
「……つまり?」
オッタがたずねる。
すると、男性が一歩前に出た。
それは、床に置いた『カグヤの書』を背にかばうような位置変更だ。
「『カグヤの書』は俺の後ろにありますね。どのような手段でもいいので、俺の横か、上か、あるいは下か、とにかく、俺をすり抜けて、背後に回ってみてください。そうしたら、あなたに『カグヤの書』を差し上げましょう」
「……」
「まあ、俺も『カグヤの書』が必要なので、手加減はあまりできません。しかし、どのような結果に終わったとしても、挑戦さえできずに目の前で目的の宝を奪い去られるより、納得できるかと思いますよ」
「……オッタは、速い」
「そのようですね。俺から見て、なるべくあなたに勝ち目のある勝負を選んだつもりです。何度挑戦していただいてもかまいません。ただし、挑戦前にお願いが――」
男性がなにかを言おうとした。
しかし、オッタは言葉を待たずに動き出す。
先手必勝。
男性の意図はさっぱりわからない。
でも、またとないチャンスなのはたしかだ。
この好機を逃してはならないと、オッタの直観は言っていた。
だからこその全速力。
戦闘能力は高くないオッタだが、足の速さと身のこなしには自信があった。
本気で走り出すオッタの体は、停止状態からすぐさま最高速に移行する。
隙を突いたこともあり、常人では反応さえ不可能な加速。
けれど。
「――お願いがあるのですが」
男性は。
脇を通り抜けようとするオッタを、片手で止めた。
ただ肩を押さえられただけなのに、全身が動かない。
すさまじい力なのもそうだが、耳のてっぺんから足の先にいたるまで、見えない針で縫い付けられたように、動いてくれない。
男性は、オッタをおさえていない方の手をかざす。
すると、手のひらの向いている方向に、謎の物体が現れた。
人間の頭と同じぐらいの大きさをもつ、球体だ。
ほのかに発光し、ふよふよと宙に浮いている。
不可思議な物体。
それを、男性はこのように紹介する。
「これは、『セーブポイント』です。ここに向かって『セーブする』と発言してください」
「……」
「していただけないのならまあ、それはそれで、やりようがあるのですが……俺としては強く推奨しますよ。だって、セーブしないと、死ぬかもしれませんからね」
みしり。
オッタは、つかまれている肩が軋む音を聞いた。
握りつぶされるという予想ができる。
この男は、強い。
そしてこれから始まるのは、相手を倒さなくても勝てるとはいえ、戦いに違いないのだ。
オッタは、敵対した男性を見る。
それから自分の尻尾を見た。
危機を感知し、ふくらむ、優れた感覚器官。
何度も命を救った、信頼できる自分の肉体。
なのに。
確実にこちらを殺せる男性を目の前にして、尻尾はなんの反応も見せていなかった。
男性は、敵意のない表情で微笑む。
それから。
「このまま、俺の提案したゲームを続けるのでしたら、セーブを」
労るように。
優しい声音で言った。
その宣言に、なんの意味があるのか、オッタにはわからない。
ただ、した方がいい、と。直観が告げていた。
「……わかった。『セーブする』」
「結構。それでは始めますか」
オッタは直観する。
この人は、危険人物ではない。
オッタを殺そうとしてはいない。
むしろ、敵対しているつもりでさえ、ない。
ただ。
誤って殺してしまうのを怖れているだけだ、と。
思想を直観し。
実力差を理解して。
それでもなお。
「『カグヤの書』はもらう」
「いい意気です。では、始めましょうか」
オッタは、勝ち目のないとわかる戦いへ、挑んだ。