100話
修業を終えたころ、とっくに朝になっていた。
ちなみにコリーが『思わぬ力』を発揮することはなかった。
堅実に死に続けた。
そのたびに、魔力総量と、回復効率を上げていった。
ともあれつらい修業は終わり、愛しの宿だ。
『銀の狐亭』。
このおんぼろな建物にも、もうずいぶん長いこと居着いている。
修業はつらいが居心地がいい。
ベッドに風呂、その他環境にも充分に気を配られている。
人の心がわからない主人が経営しているとは思えないぐらい、人の心を知り尽くしたようなサービスが満載だ。
その中でもコリーが気に入っているのが、風呂だった。
しかし今日の修業が終わったのは、朝だ。
風呂は夕方から夜にかけて設営される。
なので、帰って風呂という贅沢を今日は味わうことができないと思っていたのだが……
「モリーンさんが、お風呂を用意してくれるらしいですよ。彼女たちも朝帰りでしたからね」
アレクによれば、そういうことらしい。
嬉しい誤算だった。
コリーはもともと風呂好きだったわけではない。
というか職人の工房で生まれ育ったコリーにとって、『風呂』とは『桶に汲んだお湯で体を軽く洗うこと』を指す。
好きになりようもない。
ただ、体の汚れを落とすだけの作業みたいなものだった。
しかし、『銀の狐亭』で大きな風呂を知って、変わった。
というよりも、修業で疲れた心を癒やしてくれるものは全部好きだ。
風呂も、食事も、睡眠も、この宿には全部ある。
修業がなければ最高の環境だった。
と、思う一方で、修業があるからこそ、この贅沢がよりいっそう身に染みるのだとも思う。
こうして人はどんどん『銀の狐亭』なしでは生きられなくなっていくのだ。
少なくとも、コリーよりあとに来たロレッタなんかは、もはや用事もないはずなのに、家に帰らずずっと宿に泊まっている。
ともあれ、風呂だ。
『銀の狐亭』裏庭には、朝だというのに本当にお風呂が用意されていた。
先客は二人いる。
モリーンとロレッタだ。
モリーンは風呂の角で、目を閉じ意識を集中している。
風呂の用意は最近、もっぱら彼女の仕事だった。
なので、風呂に入るとほぼ必ずモリーンがいて、角の方でなにかを念じている。
純白の髪に、純白の肌。
まぶたを開けば、左右で色の違う瞳が見えるはずだ。
顔かたちのみならず、体のラインも美しい。
やや細くはあるものの、芸術品のような少女だとコリーは思う。
だから、風呂の角でじっとしている彼女は、そういう彫像にも見えた。
一方で、広い風呂の奧に陣取っているのは、ロレッタだ。
赤毛の人間。
貴族ということもあって、育ちがよさそうというか、りんとしている。
彼女も細く、そして背が高い。
つい先日、コリーより年下であることが発覚した時は、その容姿があまりに大人びていることにおどろいたものだった。
……というか。
コリーも、ドワーフとしては細い方だという自負がある。
でも、やっぱり、人間や魔族と比べると、『ぽちゃり』としている感じがしてならない。
種族特徴だとは、わかっている。
だが、世間的に格好いいとか美人だとか言われるのは、エルフみたいに背が高くて細い女性だった。
先日まで宿にいたエルフのソフィは、『細い』のあたりが微妙に、というか一部分、該当しなかったので仲良くできた。
でもやっぱり、こうして実際に細い人たちを見てしまうと、並んで裸で風呂に入るのにためらいが出ないでもない。
今さら、という感じもするけれど。
「コリーさん、どうした? 裸でぼうっとしていると病気になるぞ」
ロレッタが首をかしげて言った。
なかなか湯船まで行かないコリーを不審がったのだろう。
コリーはロレッタの裸身をじっとながめる。
そして。
「……アタシも人間に生まれてたら、もうちょっと……」
「……どうしたのだ、突然」
「…………いや、なんでもないッス」
肩をすくめて、口の端をゆがめる。
それから、ロレッタのそばまで、泳ぐようにして近寄った。
……このへんは、ドライアドのホーなんかも困っている部分だが。
ドワーフやドライアドなどの背が低い種族にとって、この風呂は若干深い。
だから――そうだ、よく考えてみれば、風呂番のモリーンはともかく、ロレッタと一緒に湯船につかることは、あんまりなかった気がする。
コリーはいつも、同じような身長の、宿屋夫妻の娘たちと同じ時間帯に風呂に入っていた。
泳ぐようにして来たコリーを見て。
ロレッタが、言う。
「すまない。モリーンさんに言って、もう少し風呂を浅くしてもらおうか」
「……いや、気にしないでほしいッス。っていうか、善意の気遣いが胸に刺さって痛いッス」
「胸か」
「……あの、じっくり見ないでほしいッス」
「いや、すまない。ソフィさんがいない今、あなたがナンバーワンだと思っただけだ」
「その思考がすでに『すまない』じゃすまないって感じッスけど……」
「そうだ、お詫びというわけではないが、私の膝を提供しよう。私の膝に乗れば、多少は高さがかせげるだろう」
「いやいや……成人女性が成人女性の膝に座るってどんな状況ッスか。しかも全裸で」
「しかしホーさんは普通に私の膝を使ったぞ」
「……まあ、あの人は、年齢は成人ッスけど、ドライアド的にはまだ子供ッスから」
「ふむ、そういえばそうか。まあ、いつもソフィさんの膝に乗って湯船につかっている姿などは、はたから見て失礼ながら『親子のようだ』と思ったぐらいだった」
「あの二人はヤバイぐらい仲良かったッスよね……」
「王都において種族の歴史を持ち出すのも愚かかとは思うが、歴史的に見ても、エルフとドライアドは仲のいい種族だとされているものな」
「その論でいくと、アタシらドワーフとエルフは仲悪くなるんスけど」
「そうだったか?」
「そもそも種族同士の仲っていうのは、五百年前の『勇者』の伝説に端を発してるんスよ。勇者パーティー内で誰と誰が仲良しだったかが、今、種族同士の関係になってるっていうか」
「ふむ……そのあたりの歴史は学校で習ったような気もするのだが、あまり関心がなかったのか記憶に残っていない」
「学校?」
「うむ。これでも貴族の子女なのでな。……我が家は王都内で兵役をしているタイプの貴族なのもあって、一時期は女王陛下の近衛兵を目指していた」
「……トゥーラさんみたいッスね」
「まあ、貴族の家に生まれた女性は、近衛兵になるか、他の土地持ち貴族に嫁入りするかというのがだいたいだからな。私もご多分にもれず、というわけだ」
「結果として近衛兵にはならなかったんスね」
「教官に逆らって学校をやめさせられた」
「……意外と問題児なんスね」
「少し家柄の悪い、というか、低い、というか、そういう表現は好きではないのだが……そういう子が同級生にいたのだ。その子がなにをしても教官から『悪い見本』扱いされて、時には成績を不正に悪くされていたりしているのを知ってしまった。……我慢ができなくてな」
「はあ、なるほど……それはロレッタさんらしいッスね」
「正面から教官にくってかかったのだが、今思えば、もっといいやり方はいくらでもあったのだろうと思えるよ。まあ、学校をやめさせられる代わりに、一生ものの友人はできたが」
「その子は今、どうしてるんスか?」
「近衛兵になったものの、親が病気になったのでやめて、今は領地経営をしているらしい。たまに手紙で近況のやりとりなんかをしている。月に一度は王都で会ってもいるな」
「仲良しッスね……しかし近衛兵ってことはアレクさんの修業を受けたんスね」
「そうだな。思えば私の知った『死なない宿屋』の噂も、出所の一つはその子だったように思える……今となってはあいまいな記憶だが」
「……噂の出所、ッスか」
聖剣を探していた。
……『勇者が使った剣』の伝説は数多い。
調べるまでもなく、寝物語や歴史書など、どこにでも記されている。
だからこそ興味を持った。
そして――いつか自分も、聖剣を打ってやろうと、思えた。
そのぼんやりした憧れを、具体的な目標にしてからは、歴史をくまなく調べた。
その過程で……
過程で。
いつ、どこで、『聖剣の持ち主が銀の狐亭にいる』という情報を入手したのか。
資料を読んで知ったわけでは、なかった気がする。
風の噂、程度の記憶だ。
誰かが冗談交じりに話していたのを聞いたのかもしれない。
あるいは、もっと別の、誰かが……誰かが、教えてくれた、とか。
……どうにも、意識がぼやける。
夢でお告げを受けた、とかだったりはさすがにしないだろうが。
それでも、夢のようにふわふわした記憶であることに変わりはない。
コリーが悩んでいると。
ロレッタが、心配そうに顔をのぞきこんでくる。
「コリーさん? 大丈夫か?」
「え? あ、はい、大丈夫ッスよ」
「のぼせたか?」
「いや、たぶん修業がきつかったからぼんやりしただけじゃないッスかね?」
「なるほど。私も眠る前などは、よくアレクさんから受けた修業を思い出すよ。そうすると意識が遠のいてすぐに眠りにつけるものな」
「アタシはそんな用法をしたことはないッスけど」
「不安で眠れない夜などは、やってみるといい」
「ちなみに、不安で眠れない夜っていうのは、なにが不安で眠れないんスか?」
「それはもちろん、翌日のアレクさんの修業だな」
「アレクさんの修業が不安で眠れない夜に、アレクさんの修業を思い出して眠るんスか?」
「……なにかおかしいかな?」
「い、いえ……なんも、ええ、なんも、おかしくないッスよ……ははは」
コリーは『おかしい』と言えなかった。
おかしさをうまく言語化できなかったというのもある。
でも、ここで『おかしい』と断じてしまうと、同じ修業を受けた仲間であるロレッタが、次第にアレク化しているのを認めるような気がしたのだ。
人として順調に壊れていっている。
大切な仲間に、その事実を突きつける勇気は、コリーにはなかった。
だから。
ただ一つだけ、進言する。
「……あの、ロレッタさん、そろそろご実家に帰られた方がいいんじゃないッスかね?」
「うむ……まあ、おっしゃる通りなのだが……ここはなにせ、風呂がな」
「気持ちはわかるんスけど、でも、なんていうかこう、取り返しがつかない事態になる前に、一度宿屋を離れて冷静に自分を見つめ直すべきだと思うんスよ」
「取り返しのつかない事態? それはつまり……ここの風呂に入らないと一日が終わった気がしなくなるという、そういう事態か?」
「いえ、そんな底の浅いものじゃないッス。もっと根深くて深刻っていうか……」
「……すまないが、あなたの言わんとしていることがよくわからない。まあしかし、ご忠告痛み入る。たしかにそろそろ自宅に帰るべきだろう。叔父も無事に……無事に? 逮捕拘留され刑罰が決まったことだしな」
「ああ、その、なんていうか……」
「気にしないでほしい。まあ、私自身は、周囲から主に同情的な視線を向けられているよ。よくも悪くも、世間的には『叔父による被害を一番被った者』という扱いだ」
「……おじさんが、家をめちゃくちゃにしたんスよね」
「そうだな」
「そんな家捨てて、自分だけの人生を始めようとかは、思わないんスか?」
「『自分だけの人生』など存在しない」
「……」
「私の人生は、民と、母と、家につらなるすべての先祖を背負っている。まあ、望んだ重責というわけではないし、貴族の中にはそういうものが嫌で家を飛び出す者だっているようだが。私は背負っていこうと思っているよ」
「……ご立派ッスね」
「生き方に立派も立派でないもない。ただ『私はそうする』というだけだ。……ようするに。母に習った『貴族ならではの生き方』を、私は『格好いい』と思って憧れただけなのだ」
「憧れ、ッスか」
「うむ。冒険者に憧れる者が冒険者になるように、貴族に憧れた私は、貴族として生きようと思った。たまたま、貴族になれる立場だったのは幸運というわけだな」
「だったらなおさら早く家に帰った方がいいような」
「それもそうだが、風呂がな。もう最近の私は、モリーンさんを嫁に迎えたいぐらいだ。毎日でも、モリーンさんの風呂に入りたい。私のために毎日風呂を沸かしてもらえないだろうか」
ブクブクッ、と風呂が泡立った。
ロレッタの一言でモリーンが動揺したらしい。
コリーはロレッタの顔を見る。
ロレッタは苦笑していた。
「……まあ、半分冗談だ。モリーンさんのお風呂は、女王陛下も週に一度利用されているらしいからな。私が彼女を独占しては、女王陛下に申し訳がない」
「半分本気なんスね……」
「うむ。嫁入りは置いておくにしても、目的を達成した私がまだ修業を続けているのは、このお風呂造りを習得するためだったりもするのだ。私は魔法の才能がそれほどでもないので、だいぶ道のりは長そうだが……」
「……アタシは、風呂に命は懸けられないッス」
「しかしアレクさんの修業だからな。死んでも生き返るだろう?」
「ロレッタさんは一度冷静に自分を見つめ返すべきだと思うッスよ」
「…………なにかおかしなことを言ったか?」
「いえ……あ、アタシはもう出るッス。お二人はごゆっくり」
コリーは逃げるように湯船を出る。
ロレッタが首をかしげたまま、見送ってくれた。