1話
銀の狐亭。
その宿屋は大通りから一本裏道へ入ったところにある、うらぶれた建物だった。
石造り。
二階建て。
そこまではいい。
でも、宿屋の看板がかかっているにしては狭いように、彼女には思えた。
彼女は先ほどから落ち着かない様子だった。
そもそも、気品ある容姿をしているから、汚い裏通りは慣れていないのだろう。
燃えるような赤い頭髪。
薄手の鎧はオーダーメイド品で、彼女の体つきにぴったりとフィットしている。
腰には、身幅の広いロングソード。
柄に宝石のはまった、華美ではないが高級さのうかがえる品物だ。
裏通りにいる人種には見えない。
彼女は、一縷の望みにすがって、この宿屋をたずねた。
とある不思議な噂を聞いたのだ。
『その宿屋に宿泊すると死なない』。
ダンジョンにもぐってモンスターと戦う職業である冒険者にとって、夢のような話だ。
冒険者は実力が大事だが、それ以上に験担ぎを重要視する。
だから、そんな心強い噂のある宿屋は、さぞかし流行しているだろうと彼女は思っていた。
でも、どう見たって、つぶれかけの建物だった。
また噂の一人歩きだろうか。
警戒しながら、彼女は宿屋の入口をくぐる。
「おや、いらっしゃい」
内装は普通。
カウンターがあり、そこに、エプロンと、丈夫そうなシャツを着た受付の男性が、椅子に腰かけていた。
二階へのぼる階段と、奥の方に広いスペースが見える。
これまで彼女が泊まってきた宿屋と同じように考えるならば、食堂になっているだろう。
受付が男性というのは、珍しい。
たいていは下働きの、しかし奴隷ではない女性がやるものだ。
種族は人間。
年齢は……よくわからなかった。
容姿は若い。
でも、雰囲気は老成している。
十代ではなさそうだが、二十代と言われても、四十代と言われても納得しそうだった。
青年のようで、しかし壮年のような男性は、首をかしげる。
「宿泊ですか?」
彼女はハッとする。
宿屋に入って黙りこんでいたら、それは不審だろう。
咳払いをして、切り出す。
「そ、そうだ。ああ、いや、その前に……妙なことを聞くかもしれないが、よろしいか?」
「はい、なんなりと」
受付の男性は微笑む。
彼女は少しだけドキリとした。
冒険者にはあまりいないタイプの、柔らかい雰囲気だったのだ。
「じ、実はだな……『泊まると死なない』と噂されている宿屋を探して、ここに着いたのだが」
「ああ、それならウチで間違いありませんね。ただ、その噂は少し違います」
「そうなのか……違うとは?」
「死なないわけじゃ、ありません」
それはそうだ、というようなことを男性は言う。
死なないわけはない。
もちろん、わかっている。宿泊した程度で本当に絶対死なないような宿屋など、存在するわけがないからだ。
魔法も、神の奇跡も、様々な種族も、あるけれど。
蘇生や不死性を付与する魔法はないし。
神の奇跡を信じていても死ぬ時は死ぬし。
不老の種族はいても、不死の種族はいない。
正直に告白する男性に、彼女は好印象を覚えた。
宿屋というのは商売だ。
普通、『死なないだろう?』とたずねたら、『それはもちろん!』と言って、高い部屋をすすめてくる店がほとんどだ。
彼女は幾分か緊張を解く。
そして、改めて問いかけた。
「では、噂の真相はどのようなものなのだ?」
「『死ぬけど、なかったことになる』ですかね」
「……それは、死なないのとは違うのか?」
「うーんと、この世界の人にわかってもらえるように説明するのは、少し難しいんですが」
この世界の人?
男性は妙な言い回しをした。
まるで自分が、よその世界から来たかのような、不自然な口ぶり。
彼女はやや緊張を取り戻す。
「では? ……たしか、その『死なない宿』の主人は、冒険者を上がった者だと聞いたが、その方の指導があるから、強くなれるということなのか?」
「まあ、指導はしますけど……新人育成も、ウチの仕事の一つだと思ってますからね」
「……話がよくわからないな。悪いが、宿の主人と話をさせていただけるか?」
「俺です」
「はあ?」
「宿の主人は、俺です」
柔らかな雰囲気の男性は、ハッキリ言った。
苦笑交じりだ。
それは、この手の反応になれている様子にも見えた。
けれど、彼女は不審に思う。
冒険者は、荒くれ者ばかりだ。
基本的に体力勝負で危険な職業なので、冒険者になるしかなかった者が多い。
自然、雰囲気は粗雑で乱暴、屈強で迫力至上主義みたいなものになっていく。
目の前の男性の穏やかさは、そういった『冒険者らしさ』とは対極的にあるように見えた。
貴族的とでも言うのか。
きちんと教育を受けた、社交界にいそうな。
裏を返せば、剣など握ったこともなさそうな雰囲気だった。
「申し訳ないのだが、あなたが元冒険者には見えない……客を試すように言われているのか?」
「本当なんだけどなあ。いっつも言われるな、それ。俺はそんなに冒険者に見えないのか……」
「全然見えないな。……私も冒険者としては駆け出しに入るのだろうが、それでも、簡単に勝てそうだ」
「いや、あなたのステータスだと難しいと思いますけど……」
「すてーたす?」
「……こっちの言葉です。まあ、とにかく、証明しろと言うなら証明しますけど……その前に一つだけしてほしいことがあるんですけど」
「なんだ?」
「ええっとですね」
男性は立ち上がり、右手を横にかざす。
すると、男性が手を向けた先に、不思議な物体が出現した。
宙に浮く、人間の顔ほどの大きさの球体だ。
ぼんやりと発光しており、ふわふわと上下している。
でも、漂いはせず、ある程度の場所に固定されているようだった。
魔法の一種だろう。
でも、彼女は見たことがなかった。
「それは?」
「これがウチの宿屋の目玉ですね。他の宿屋では提供できないサービスっていうか……まあ、その、この世界の人にうまく伝わるアピール方法がないんで、いまいち宣伝効果はないんですが」
「つまりなんなのだ?」
「セーブポイントです」
……説明になっていない。
彼女は戸惑った。
「あなたはさっきから、不思議なことばかりを言うな……新手の詐欺かなにかか?」
「そういうつもりはありません。うーん、やっぱりこの世界の人にうまく俺の世界の常識を伝えるのは難しい……こればっかりは十年以上やってきても全然慣れないや」
男性はボリボリと頭を掻く。
十年以上やってきて――というのは、宿屋を十年ということだろうか。それとも、冒険者を十年ということだろうか。
……どちらにも見えなかったが。
男性はため息をついて、営業スマイルを浮かべる。
「とにかく、どうぞ」
「なにがだ」
「ですから、俺が冒険者上がりに見えないから、実力を試したいんですよね?」
「いや、まあ、それが最も手っ取り早いとは思うが……まさか本当にやるのか?」
宿屋に入って、店主の実力を試すというのは、常識外れだった。
彼女も『簡単に勝てそう』とは言ったが、『ならば勝負してみろ』とまでは言っていない。
普通しない。
道場破りじゃあるまいし。
でも、男性にとっては、それが自然な流れのようだ。
「そうですね。ウチに来たお客さんは、どうにも『冒険者上がりの店主』が『俺』だってなかなか信じられないみたいなんで、いつからか、実力を示す流れが当たり前になってまして」
「……不思議な宿屋だな」
「こういう不思議さは目指してなかったんですけどね」
男性は苦笑する。
彼女はやや戸惑いもしたが、それでいいか、と思い直した。
たしかに、手っ取り早い。
雰囲気はいくらでも誤魔化しが利くが――
剣を交えれば、誤魔化しは利かない。
『冒険者上がりの店主が経営する、泊まると死なない宿屋』は本当にここなのか。
少なくとも、店主の実力が確かならば、『冒険者上がりの店主』の部分だけは証明される。
「わかった。では、申し訳ないが、実力を試させてもらおう」
「あー、でも、その前に、大事な話です」
「今度はなんだ」
「セーブしてください」
「はあ?」
彼女は首をかしげる。
男性は、穏やかな雰囲気のまま。
当たり前の事実を告げるように。
「手加減はしますけど、間違って殺しちゃうと困るから、セーブだけは、お願いします」
自身が敗北する未来などどのような間違いがあろうとも存在しないのだと。
そう確信しているようなことを、言った。