嵐の前の肩慣らし。
『神話』
人々の偏見と願望が「神」として語られ、編成と曲解を経て『神話』が伝え継がれていく。
ギリシャ神話、ゼウスは全知全能の主神。
北欧神話、世界の終わりを示す、ラグナロク。
日本神話、イザナギとイザナミは初めて生殖行為を行った。
では、新しく語られ始めようとしている神話は、このような不確定な物語と肩を並べるものなのだろうか。
答えは、〈否〉だ。
全知全能になろうと単体での性能には絶対的な壁がある。この世界を終わらせようとすれば語り継ぐ者がいない。どのようなプレイを実行しようとも、全てはこの言葉で片がつく。
「君に常識はないのか?」と。
神話を語った者が、自らの基準に適さない者をこう罵るのだ。
現在、神話として語り継がれる物語は存在しないのだろうか。
それも、〈否〉だ。
常識、良識、一般論、俗識、common sense、そんなものは一歩違えば良い子の言葉ではなくなる。
簡潔に言おう、神話とは創り出せる。
どのように?
僕が言えるのはコレだけだよ。
『テメェのルールに従って、神話を実話に再編してみせろ。』
今、ここに語ろう。やりい放題の甲斐性なし、勝つために負け、自らを陥れても、己のルールがある。
そんなバカの話を。