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紅月の彼方へ  作者: 大木モカ
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第1章『偶然か必然か』


「それでは、次のニュースです。最近、首筋に痣の残る若い女性が倒れている事件が多発しております。警視庁では新手の通り魔ではないかと捜査中で……」


「え〜、物騒な世の中だね」


1人テレビに呟いて食パンにかじりついた。


お昼の情報バラエティーの合間のニュースは画面が切り替わり、芸能人のグルメリポートになった。


「うわっ、美味しそう。いいなぁ、芸能人はあんな美味しそうなの食べれて」


一人暮らしも長くなると、無意識にテレビに突っ込んでしまう。


ふいに、画面の左上の時計にハッとした。


「やばっ、もうこんな時間!」


最後のひとかけの食パンを珈琲で飲み込んで、慌てて食器を流しに持っていった。


そして、午前中に確認した荷物を持って家を出た。


「あ、月が見える。あれって何て言うんだっけ」


昼間の青空に見える月。


何かで聞いたような、ああいう月に名前があった気がしたけど思い出せない。


特に今すぐ知りたい訳では無いので、家の鍵を閉めて目の前に停めてある自転車の鍵を外した。


何だか気になって、もう一度月を見上げて自転車に乗るとグイッとペダルを漕いだ。


この時、あの月の事がなんでこんなにも気になったのかは後々分かるのだった。





第1章『偶然か必然か』



「ふぅ〜、ちょっと遅くなっちゃった」


日が延びてきたとはいえ、桜はすでに散ってこの時間になると辺りは暗く少し肌寒い。


私、天川つぐみ30歳は亡き祖母が大切にしていた珈琲豆専門店を譲り受け、各国からその時期に最高の豆を輸入してブレンドしてお得意様へと配達もしている。


毎日忙しくも楽しい日々を過ごしていて、唯一の肉親だった祖母が居なくなってしまった悲しさも何とか振り払っていた。


本日最後の配達先である喫茶店『アルテミス』に到着して自転車を停めると、真っ先に視界に入ったのは真っ赤な月だった。


まるで描いたような月は、どことなく不気味な雰囲気を漂わせていた。


「あぁ、こんなのんびりしてられなかったんだっけ」


『アルテミス』と書かれた木製の看板を見て、扉を開いた。


「こんばんは」


「あら、つぐみちゃん。今日はずいぶん遅かったのね」


ここの女性オーナーである梨花さんは、いつもと変わらぬ笑顔で迎えてくれた。


「すみません。珈琲豆の輸入元からの連絡待ちしてたので、予定より遅くなっちゃって」


「ううん、謝らなくて大丈夫。忙しかったなら明日でもよかったのに、ごめんなさいね?今日配達お願いしちゃって」


「いえ!梨花さんこそ謝らないで下さい」


申し訳ないような顔をした梨花さんに、私は慌てて首を振った。


「ウチの店は親切迅速配達が目標だから、いつでも駆け付けるんで遠慮しないで言って下さいね。梨花さん」


「ありがとうつぐみちゃん。でも無理しないでね?」


「はい、ありがとうございます」


梨花さんは女手一つで息子を育てて、お得意様でもあるけどお話を聞いてもらったりもする間柄だ。


私より年上のはずなのに、すごく美人で息子と恋人に間違えられるくらい。


ここ『アルテミス』には梨花さん目当ての男性ファンも少なくない。


一番は私が厳選した豆を最高の珈琲にしてくれるのがとってもありがたい。


「あ!つぐみさん、来てたんだ」


「うん、ちょっと遅くなって。章大くんは、お手伝い?」


笑顔で大きな段ボールを抱えてきたのは、梨花さんの息子の章大くんだった。


「そう。口うるさいお袋が倉庫片付けろって言うからさ」


「口うるさいのは余計だよ。誰のおかげで大学行って遊び回れると思ってるの」


「はいはい、偉大なるお母様のおかげでございます」


わざとらしく梨花さんの肩を揉む章大くんに、クスリと笑ってしまった。


「分かればよろしい」


「感謝してるっていつも言ってんじゃん」


見慣れた親子の会話に自然と笑顔になるけど、どこか羨ましいような淋しいような気持ちになった。


ここを配達の最後にしているのには、梨花さんの美味しい珈琲を飲んで一息付いて話して帰るのが日課になっているからという理由がある。


それに、親の愛情を知らずに育った私にとって2人を見ていると何故かすごく懐かしい気持ちになるからだ。




「つぐみちゃん、よかったら珈琲飲んでって。つぐみちゃんの厳選してくれた珈琲豆が、いい仕事してくれてるか確かめて欲しいの」


梨花さんはにっこり微笑んだ。


「あ〜、ごめんなさい。今日はちょっと遅くなっちゃったんで、また今度で」


「あら、そうね〜?もう結構遅い時間だものね」


梨花さんは特徴のある柱時計を見上げて言った。


「すみません。また今度ゆっくり」


「えぇ、つぐみちゃんならいつでも大歓迎よ。ね、章大」


「ああ、もちろん」


章大くんも梨花さんに負けないくらいの笑顔で言ってくれた。


それから私は伝票を切って、梨花さんに渡した。


「じゃあ、今日はこれで。またいつでも注文お待ちしてます」


「ありがとうつぐみちゃん。またお願いします」


「はい!ありがとうございました」


肩掛け鞄に伝票をしまうと、私は頭を下げて『アルテミス』を出た。





*****





「ん〜…綺麗な月だね〜」


その男は手を伸ばせば届くぐらいの大きさの紅い月を、眼鏡越しに見つめた。


タイトなグレーのスーツに細い青のネクタイをきっちり締めた男は、古ぼけた教会のてっぺんにある十字架を背にして、眼下に広がるちっぽけな街並みへと視線を向けた。

窓も梯子も無いこんな場所で一息付けるのは、羽を休める鳥だけだ。


「まぁ、僕には近付かない方が賢明だと思うな」


男は誰に言う訳でもなく、一人呟いた。


「さてと……」


ふと眼下に視線を向けた男はちっぽけな街並みに、ちっぽけな自転車を押しながら歩く女性を見つけた。


「あれ…?」


いつもなら迷わず目の前に降りて驚かせて…がポリシーだった。


だが、いつもと違う変な感覚に違和感を覚えた。


上手く言葉に出来ずに、今までと違うと感じていた。


甘い言葉で簡単に釣られてくれて甘美な時間を過ごす代償として、ある物を少し頂くだけの人間の女。


それが今までだった。


なのに具体的に分からないが、その女性が気になった。


もっと知りたい。


よく顔を見たい。


「っ!」


紅い月に誘われるようにいつもより遠出をした夜道で見掛けた女性に気を取られたその男は、人間では登る事が不可能な教会の屋根から足を滑らせた。



「つぐみさん!」


「ん?あ、章大くんどうしたの?」




滑り落ちた瞬間に、男は体勢を整えてゆっくり地面へと降りた。


先程目を付けた女性は、追い掛けてきた男と何やら言葉を交わして歩いて行った。


「そうだね。そのままストレートに愉しい時間を過ごすより、ちょっと障害があった方が愉しめるしね」


その男は眼鏡の鼻当てを中指で上げると、2人の後を気配を消して付いていった。




「別によかったのに、送ってくれなくても」


「こんなに暗くなって、女1人じゃ危ないだろ」


『アルテミス』を出た私を章大くんが追い掛けてきてくれた。


自転車を押して歩く私と、隣を歩く章大くん。


「大丈夫だよ。自転車だし、そんなに離れてないしね」


「でも、この辺最近変な人が出るってニュースでやってたし、それに」


「……それに?」


先を言わない章大くんを見れば、急に慌て出した。


「そ、それに、だから」


「うん?」


章大くんは何かを言いたそうに口をパクパクさせるけど、首をブンブン振った。


「な、なな、なんでもない!とにかく送っていくから、ま、任せろ!」


「な〜んか変な章大くん。送る代わりに珈琲豆サービスしてね、とかじゃないの〜?」


悪戯っぽく聞けば、章大くんは再び首を振った。


「ち、違うし!えと…あ、つ、月が綺麗だな〜って思ったから!」


目の前には、進む方向に迫る大きな紅い月があった。


「……あの月、綺麗?」


「え?あぁ、うん。紅い月って珍しいな」


「うん」


………いつもの様に淡い光を放つ月とは違う、紅い月。


何故だか、綺麗とは思えなかった。




「じゃあ、ここで大丈夫。お店すぐそこだしね」つぐみは押してる自転車を停めて、章大を見つめた。


「ああ、いつでも送るから遠慮しないで言え!オレ、男だから」


「うん、本当にありがとう」


章大はにっこり笑った。


「帰り気を付けてね、章大くん」


「大丈夫。今度、オレが淹れた珈琲飲んでみて!つぐみさんに味見てもらって、太鼓判もらったらお客さんに出せるからさ」


「うん、分かった」


「よかった。じゃあまた、おやすみ」


「おやすみ、章大くん」


軽く手を上げた章大は、ゆっくり背を向けて帰っていった。


少しの間その後ろ姿を見つめたつぐみは、自転車を店の前に停めて鍵を掛けて、店の鍵を開けて扉に手を掛けた。


見上げた先には、紅い月。


ゆっくりゆっくりとその紅い月に雲が掛かり、月明かりが無くなって辺りは薄暗くなった。


何故か、あの月が隠れて少しホッとしてる自分が居た。


どうせなら、雨でも降って紅い月が雨雲に完全に隠れればいいのに……とさえ思ったけど、気にしないように扉を開いて中へと入った。


この珈琲豆専門店兼住居がつぐみの城だった。


ズラリと揃えた瓶詰めの珈琲豆が棚に並び、豆を挽くミルやら計りやらが所狭しと並んでいて、カウンターには椅子6つでいっぱいいっぱい。


珈琲豆を買いに来てくれたお客さんがミルで挽いてる間に座って待つぐらいだから構わなかった。


カフェとかじゃないから試飲ぐらいで、ゆっくり休む場所じゃないからだ。


「ただいま〜……なんて言っても誰も返事なんてしないけど」


1人呟き、肩掛け鞄をカウンターに置いた。


「お帰り」


「え……?」


全身にトゲが刺さったように、その声に驚いた。


声がした方へと振り向けば、カウンターの一番奥の椅子に誰か居た。


「だ……誰!?」


口の中がカラカラしてきた。


でも、この薫り……。


「ん〜、いい薫りだね。ジャマイカ産のブルーマウンテンは。それにこれ、ランクトップのいいのだよね?」


「え、な、何言ってんの?」

暗闇から聞こえる声と、香ばしくも豊かな薫りが辺りを包んでいた。


「このお店、珈琲豆専門店なんだね。店名の『ピーベリー』から分かるしね」


つぐみはなんて返していいか分からなかった。


泥棒?何なの?


勝手に珈琲飲んでるし、何が目的なの!?


「な、何なんですか!?」


手を握り締めて震える声で言えば、フッ…と鼻で笑う声が聞こえた。


「何なんですか、ねぇ」


月に掛かっていた雲が晴れてきて、暗闇の店内をゆっくり照らしていく。


全く見えなかったその人物をも照らしていき、足元から姿が見えてきた。


それは黒い革靴にグレーのスーツ、カウンターに足を組んで座っていた。


そして、手にはつぐみがチョイスしたお気に入りのカップを持っていた。


更に月明かりは広がり、青いネクタイに黒縁の眼鏡、そして紅い瞳が見えた。


口元が上がって、ついには全身が現れた。


「っ!」


声が出せなくなったのは、目の前に居たはずの男がいつの間にか自分の脇に居たからだ。


さりげなく腰に手を添えられて、顔を近付けられた。


「君、運命って信じる?」


「っ……」


耳元で囁かれて、熱い息が当たった。


「僕は信じるよ。君とこうやって逢えた事こそ、運命だと思わない?」


「あ…あ…」


声を出したくても、何故か真綿で緩く首を絞められてるように息しか出ない。


「君の精気、甘くて美味しいだろうね」


「せ、いき…?」


何を言っているのか、理解出来なかった。


この男が普通じゃないってのは分かった。


変質者?異常者?


逃げたいのに、声を出したいのに、首だけじゃなくて手足も真綿で緩く縛られてるように動かなくなった。


「君の精気ごと、君をもらうよ」


「っ!」


首筋を舌先で舐められた。


嫌!何なの!?……死ぬの!?


これからまだまだ楽しい事いっぱいあるのに!


運命なんて………


運命なんて………


私はまだ運命の人と逢ってないのに!


「嫌!」


「え……」


つぐみは首筋にチクンッと痛みを感じた瞬間、その男を思いっきり突き飛ばした。


不意打ちだったのか、その男は壁に頭をぶつけて倒れて動かなくなった。


「え?え、嘘……」


全然動かなくなった男にゆっくり歩み寄って、恐る恐る身体を揺すってみたが全くの無反応だった。


「え?あ、あの!ちょっと!あの!」


肩を叩きながら顔を覗き込めば、かなり整った顔の人だと気付いた。


「あ、あの」


更に身体に手を添えて揺すった。


「あの、だ、大丈夫ですか?ちょ、ちょっと、ねぇ」


少し力を入れて揺すっても一向に目を開く様子が無い。


「そんな……」

全身の力が抜けて座り込んでしまった瞬間、唇に何か当たって身体が固まってしまった。


それが目の前で倒れていたはずの男の唇だと気付いた時には、口内に体温の違うぬるりとした舌が入ってきていた。


「んんっ!……んっ…んんっ…」


今までシた事が無いような激しいキスに、腰がぞくりと浮いた気がした。


わざと唾液を送り込んできて、舌を緩く吸われた。


頭に酸素が回らなくなってきた頃、ゆっくりと唇が離れていった。


「キスだけで感じちゃったみたいだね」


「なっ!」


かぁーと、顔が赤くなるのが自分でも分かった。


「君が欲しい。僕に君の精気ごと君をくれないかな?」


「っ……」

顎をくいっと持ち上げられ、またキスされそうな距離で男は言った。


紅い瞳が光り、真っ直ぐ見つめられると目が離せなくなった。


「僕で、満たしてあげるよ」


ゆっくり近付いてくる顔に素直に目を閉じてしまいそうになったけど……


「い、嫌!」


つぐみは顔を背けた。


「ん〜、これでも釣られないか」


「え?釣る?」


恐る恐る男を見れば、自分の顎に手を添えて何か一人で考えていた。


「さっきも僕の目見てたのに釣れなかったしね。君、人間?」


「は?」


つぐみは思わず素で聞き返してしまった。


「初めて君を見つけた時から何となく普通と違うなって思ったんだ。人間がこの僕に釣られないはずが無いからね」


頬に添えられた手の冷たさに、一気に我に返ってその手を払った。


「い、意味が分かんない!人間かなんて普通聞かないよ!それに何なの!?なんで私の店に居るの?それに」


なんでキスなんて……。


その言葉は、さっきの感覚を思い出してしまい言葉に詰まった。


「それに、何?」


「な、何でもないわよ!とにかく出てって!きゃっ!」


立ち上がろうとしたつぐみは腕を掴まれ引き寄せられ、男の胸元に顔を埋めてしまった。


「僕、押し倒す方が好きだけど、たまにはこっちもいいね」


「っ!最低!」


つぐみは腕を払って急いで立ち上がり、男を睨んだ。


「早く出てって!じゃないと警察呼ぶわよ!」


「まぁまぁ、そんな怖い顔しないで?怒った顔も可愛いけどね」


「なっ!」


その男も立ち上がり、服を軽くほろうとつぐみを見つめた。


「何なの一体」


「僕?君に一目惚れしちゃった普通の男だよ」


「普通?普通じゃない!」


普通の人は突然人の家に居て勝手に珈琲飲まないし、急にキスなんてしない!


「あ〜なるほど。でも普通はここまで美味しく珈琲淹れられないんじゃない?」


「え!?」


こちらの怒りに反してゆっくりと優雅が似合う男は、椅子に座り直してカップを傾け珈琲を一口飲んだ。


い、今、私が考えてた事分かった!?


「キミ、すごく分かりやすいね」


真紅の瞳に見つめられ、どこかバカにされてる気がしたがやっぱり普通じゃないと確信した。


カチャとカップをソーサーに置いて男は立ち上がり、つぐみの目の前に立った。


「っ……」


つぐみは数歩後退ったが、背中は壁のみ。


壁に片手を付かれて、逃げ場が無くなった。


「ちょ、ちょっと」


眼鏡の奥の綺麗な真紅の瞳に見つめられて、つぐみの胸に懐かしくも苦しみを感じた。


この痛みはなんだろう。


なんでこんな気持ちに……


男は目を細めて、ゆっくり顔を近付けてきた。


反射的に、何故か瞼を閉じてしまった。


「ふふっ」


「え?」


瞼を開けば、鼻先に温かい感触があって男は離れた。


「瞼閉じて、唇にされるの期待しちゃったかな?」


「んなっ!」


顔が熱くなった。


期待なんてするはずない!


「そ、そんなはず無いでしょ!?訳分かんない事ばかり言って、初めて逢った男になんで期待なんて!」


「そう?残念」


わざとらしく肩をすくめて男は残念がった。


「そうだ!それにどうやって店に入ったの!?まさかガラス割った?信じらんない!」


男はクスリと小さく笑った。


「僕の名前はミネルバ。君は?」


「みねるば?ってそんな事聞いてない!」


ミネルバは、愉しそうに眼鏡の鼻当てを中指で上げた。

「ねぇ…?」


ミネルバは、つぐみに近付いて腰をぐっと引き寄せた。


「な、何よ」


つぐみは悪態を吐きながらも間近の真紅の瞳に、心まで見透かされてるみたいに綺麗だと思ってしまった。


「僕は運命って信じるよ。君を見つけたこの瞬間こそ、僕がこの世に生を受けた意味があると思える」


「え……」


優しく微笑むその顔に、胸の奥の奥のずっと奥がチリリと焦げた気がした。


「名前、教えて欲しいな」


「つぐみ……天野つぐみ」


つぐみは何故か素直に自分の名前を口にしていた。


「つぐみ、ね?」


つぐみが頷くと、ミネルバは顔を近付けて唇に触れるだけのキスをした。


「……また、逢えるから」


ミネルバは囁くように言うと、つぐみからそっと離れて店を出て行った。


「まっ……」


後を追って、つぐみは閉まる直前だった扉から外に飛び出した。


だが、右を見ても左を見ても、あのグレーのスーツは居なかった。


扉に付けているベルが緩く鳴って、背後でゆっくり扉が閉まった。


つぐみは唇に触れ、さっきの優しい真紅の瞳を思い出して胸がトクン…と鳴った気がした。


不思議な人だと思った。


いや、人だったのかも分からないが。


『…運命って信じる…?』


「っ……」


つぐみは胸が苦しくなり、無意識に胸元を握り締めた。


あんな事を言われたのは初めてだったせいだ。


もちろん、突然で強引なキスをされた事も……。


夜空を見上げれば、紅い月。


さっきまで不気味だとさえ思っていた紅い月が、今では綺麗に見えたから不思議だった。




*****




「ハァ……」


つぐみは自転車を押しながら歩き、大きなため息を吐き出した。


それもそのはず、昨夜はなかなか寝れなかったせいだった。


紅い月はもう跡形も無く、春の陽気らしい暖かな日射しに立ち止まり片目を閉じた。


今日の配達は1件しかなく、お昼には店に戻れる予定だった。


立ち止まったままだったその場から自転車を押しながら歩き出した。


ふいに浮かぶのは、ミネルバの優しい真紅の瞳だった。


でも、もしかしたらあれは夢だったのかもしれない。


「あ、つぐみさん」


「え……」


つぐみは胸がギュッと締め付けられ、慌てて振り返った。


「配達?」


「あ、章大くんか〜!」


バイクを押している章大だった。


章大には失礼かもしれないが、つぐみは明らかにちょっとガッカリしてしまった。


「え?俺じゃないと思った?」


「ううん、そんな事ないよ」


「そっか」


笑みを浮かべた章大に、つぐみは苦笑い気味で一緒に歩き出した。


探してはいないと思うが、ただ、あの瞳が忘れられないのは何故なんだろうか。


「……って、お袋が言っててさ」


「えっ!?」


かなり大きく聞き返してしまったせいか、章大は数回瞬きしてつぐみを見つめた。


「あ、ご、ごめん。ちょっと考え事してて」


「そっか、すげぇびっくりした」


「ごめんね。それで梨花さんがどうしたの?」


「ああ、お袋が今度一緒に飯食べようって。みんなで一緒に食べた方が美味しいからってさ」


「うん、ありがとう。梨花さんにもよろしく伝えといてね」


つぐみは精一杯章大に微笑んだ。



「君達、みんなすごく可愛いね」


「え……」


つぐみは聞き覚えのある声に立ち止まり視線を向けた。


「つぐみさん?どうしたの?」


少し先に進んだ章大は、振り返ってつぐみに言った。


だが、つぐみはその声が右から左に抜けるように視線の先に釘付けになった。


「全員で今晩、僕といい夢一緒に見ない?」


女性に囲まれているその中心に、その男は居た。


グレーのスーツ、青いネクタイ、そして特徴的な真紅の瞳で、どう見ても見間違えるはずが無かった。


たくさんの黄色い声に混じっても、その甘い囁きは聞き逃せなかった。


つぐみが見てるのを知ってか、目が合った時に口元が微かに上がった。


「!!……」


その余裕綽々顔につぐみの胸がズキン…と苦しくなった。


「どうした、何かあったのか?」


「……なんでもない」


つぐみはそれだけ言うのが精一杯で、自転車を押しながら戻ってきた章大を抜かして歩き出した。


「あ、つぐみさん!どうしかした?」


自転車を押しながら早足で歩を進めた。


早く……とにかく早くこの場から去りたかった。


胸が苦しくて痛くてたまらなかったせいだ。


この知ってる痛みの名前を掻き消すように、つぐみはひたすら歩いた。


それから章大に適当に理由を付けて別れ、一人店まで戻ってきたつぐみは自転車を停めた。


自転車に鍵を掛けて、その鍵を握り締めた。


女だったら誰でもいい人だった。


自分じゃなくて、誰でもよかったんだと悟った。


勘違いしてただけだった、あの真紅の瞳に。


そう言い聞かせてるのに、何故か胸のモヤモヤは増すばかりだった。


「………バッカみたい」


小さく呟いて、店の鍵を開けた。




「おかえり」


「は?………はぁああ!?」


聞き覚えのある声の主は、昨日と同じ椅子に足を組んで座っていた。


「ちょ、ちょっと、ミネルバ!」


「あ、名前覚えてくれたんだ。嬉しいな」


優しく微笑むその顔に、つぐみは胸がキュッと音を立てた気がした。


「………じゃなくて!名前なんてどうだっていいの!」


「そう?名前って大事じゃない?僕の……つぐみ」


「っ……」


甘い声で呼ばれ、胸がまた鳴った。


どこから入ったとか、その前にあそこから店までの一本道を抜かさないで先に着くとかありえないとか、聞きたい事がたくさんあった。


だが、脳裏に浮かぶのは先程のナンパの様子だった。


「つぐみ」


ミネルバは歩み寄ってきて、甘い声で呼ぶと同時に肩を抱いた。


「やめてよ…」


「ん?どうしたの?」


眼鏡の鼻当てを上げたミネルバは、肩を抱いたまま笑みを浮かべた。


「私、軽くないから」


キッと睨みながらつぐみは肩の手を払った。


「どうしたのかな、ご機嫌ナナメみたいだね」


「私、ナンパとか間に合ってるから。それより、出てって?営業妨害なんだけど」


キッパリ言ったつぐみは、カウンターの奥へと行った。


「え……」


ふいに腕を掴まれて、いつの間にか身体が浮いていた。


間近にミネルバの顔があって、姫抱っこされていた。


「お、降ろしてよ!それよりもなんでこんな事するの!」


急にこんな事をして、本当に何を考えてるか分からなかった。

「暴れないで欲しいな。つぐみの身体のライン確かめたいだけ」


「意味分かんない!とにかく降ろして!」


つぐみは恥ずかしいやらでじたばたもがくが、しっかり抱き抱えられてびくともしなかった。


「そんなに暴れるなら、ベッドに降ろしてもいいんだけど」


「なっ!」


絶対的な笑みで言ったミネルバに、つぐみは言葉を失った。


「大人しくなった。これなら、ベッドまで早く連れて行けるね」


「ちょ、ちょっと!どっちにしろベッドに降ろすつもりしてんの!?」


「ダメかな?」


「ダメ!絶対ダメ!何考えてんのよ!」


「つぐみの乱れた裸体かな」


「えっ!?」


かぁーと頬が熱くなるつぐみとは裏腹に、ミネルバは気にする素振りも無く笑顔を崩さなかった。


「僕の見たいでしょ?」


「っ!バカ!」


つぐみは緩んだ腕から抜け、下に降りた。


「あ〜あ、ベッド行きたかったのに」


つぐみはミネルバを睨んだ。


「私なんかより、もっと可愛い子がいるんじゃない?さっきキャーキャー言われてたし、どうして私に構うの?もうほっといて」


「嫉妬したんだ?」


「は?」


間抜けな声で聞き返せば、ミネルバは小さく笑った。


「それ、嫉妬でしょ?僕がたくさんの女の子に囲まれてるからって、つぐみは嫉妬したんだね」


「ち、違うよ!…っ」


ぐっと顔を近付けられ、真紅の瞳がつぐみを捕えて離さなかった。


「僕はしたよ、嫉妬」


「え?」


少し悲しげにミネルバは目を伏せた。


嫉妬させたつもりなど皆無だったつぐみは首を捻った。


「さっき一緒に居た男、つぐみの何なのかな?」


「え?一緒に?」


鋭い視線から逃れられずに、つぐみはミネルバを見つめながら必死に記憶を辿った。


「あ、もしかして……」


「彼氏、とか言わないよね?まぁ、だとしても奪うだけだけどね」


さっき一緒に歩いていたとしたら、章大しか思い当たらなかった。


「違う違う。章大くんは彼氏なんかじゃなくて、お得意先のお店の子だよ」


「ふ〜ん……」


ミネルバは口元を上げて妖しい笑みを浮かべた。


「ちょっと、何よその笑い方は。信用してないの?」


睨めば、更に小さく笑われた。


「信用してるよ。つぐみの彼氏は僕って堂々と言えると思ってね」


「は!?」


つぐみは訳が分からず、盛大に顔を歪めてしまった。

逢ったばかりで彼氏などと言われるなんて、勘違いも甚だしい。


「そんなの無理!」


「なんで?」


ミネルバは妖艶な笑みでつぐみの顔を覗き込んだ。


「な…なんでも」


「理由があるんでしょ?僕を彼氏だと思えない理由」


背後の壁に手を付かれ、逃げ道を塞がれた。


「っ…、まだ、逢ったばかりで」


「逢ったばかりで?」


「ミネルバの事、何も知らない」


「これから知ってけばいいよ」


吐息が掛かる距離で、ミネルバはつぐみの唇を舐めた。


どぎまぎするつぐみに対して、ミネルバは慣れた手つきで翻弄していく。


「僕はつぐみに一目惚れしたんだ。つぐみが欲しい」


「……欲しいなんて…んっ…」


ミネルバは唇を重ね、深く口付けていった。


抵抗しようと胸を押したつぐみの手は、あっけなく腕を頭の上で固定された。


つぐみは今までこんなに腰が疼くキスを交わした事が無かった。


口内を緩く犯していた舌がゆっくり離れ、膝から崩れそうになったのを足の間に膝をいれて支えられた。


息を整えようとミネルバを見つめれば、優しく微笑んだ。


「その顔、反則。止まらなくなっちゃうよ」


「普通に、見てるだけだし……」


「可愛いんだから」


首筋に顔を埋められて、唇と舌先にじっとり丹念に首筋を愛撫され、声が震えてしまった。


「ダメ…や、やめて。」


「ダメなの?気持ち良すぎて、ダメなのかな?」


ミネルバはつぐみの耳たぶに唇を触れさせながら囁き、優しく甘噛みした。


「っあ!」


「ふ〜ん、耳弱いんだね」


「ち、ちがっ、もう冗談は!」


その先は別の声が溢れそうになったつぐみは、ミネルバの肩に顔を埋めた。


拒否しなきゃいけないのに、思いっきりひっぱたいてやりたいのにただただ翻弄されるばかりだった。


ミネルバだから?


そんなはずない、何変な事考えてるんだろうと思った思考は、ミネルバの手が服の裾に入ってきて消し飛んだ。


「ちょ…、だ、ダメ!」


「見せてよ、僕につぐみの全てを」


ミネルバは耳元で囁きながら、手を服の中へと忍ばせてきた。



「ゴラッ!エロ眼鏡!」


バタンッ!と、カウンター側の扉から突然髪がツンツンの男が入ってきて、つぐみはびっくりして声も出なかった。


「ちょっと邪魔しないでくれる」


ため息を付きながら、ミネルバはつぐみの服を直した。


「邪魔するに決まってんだろうが!だいたいテメェは戻ってこねぇで何やってんだ!」


髪を立たせてる男はミネルバとは違い、革ジャンにジーンズ姿だった。


言葉遣いも悪く、ミネルバと正反対だと感じた。


「あ〜あ、これだからデリカシーの欠片も無いのは困るんだよね〜」


ミネルバは眼鏡の鼻当てを中指で上げた。


「デリだかデカだかどうでもいいんだよ!いいかエロ眼鏡!テメェが勝手ばっかやるとな、俺達までとばっちり食うんだよ!」


その男はミネルバにずかずか歩み寄ると、すごい剣幕で怒鳴り散らした。


「あ、あの……」


どうやって店の奥から出てきたのか、どこから入ったのか等つぐみは聞きたい事がたくさんあった。


「いっつもテメェはどっか行きやがって勝手に精気吸ってくるしよ!分かってんのか!?」


「アレス、デリカシーの事だよ。細かい心遣いの事」


「だぁぁあ!そんな事どうだっていいんだよ!とにかく、アポロがキレそうだ!」


「ちょっと、あの……」


話し掛けようとしたつぐみだったが、完全に蚊帳の外だった。


「あぁ、アポロがキレたら困るね。僕でも止められないし」


「ったく、戻るぜ?」


「ちょっと!人の話を聞いてよ!」


つぐみは溜まりかねて、大声で叫んだ。



「……え?」


つぐみは一瞬訳が分からなくなった。


自分の店に居たはずなのに、周りは木、木、木。


暗闇に包まれたそこは、森に迷い込んでしまったようだった。


「な、何ここ!」


「うわっ!なんでおめぇ来てんだよ!人間くせぇ!」


その男はつぐみを見て、あからさまに嫌な顔をした。


「べ、別に来たくて来た訳じゃないんですけど!それに、私臭くないし!」


「人間くせぇんだよ!訳分かんねぇ女だな」


「ハァ!?訳分かんないのはそっちでしょ!?」


「まぁまぁ、まぁまぁ」


ミネルバがつぐみとその男間に入った。


「僕が連れてきたんだよ。つぐみっていう名前でね、可愛いでしょ?アレス」


ミネルバはつぐみの腰を抱いて、髪にそっとキスをした。


その男はつぐみをチラッと見て、ケッ…と言った。


「人間のどこが可愛いんだよ。さっさと捨ててこい」


「照れちゃって。つぐみ、あの人はアレス。照れ屋で口悪いし頭も悪いし性格も悪いし、う〜ん」


「誰が照れるか!つーか、悪いトコしかねぇのかよっ!」


「声…おっきい…」


あまりの剣幕につぐみは耳を塞ぐと、アレスはちょっとバツが悪いような顔になった。


「わ、悪かったな。でけぇ声でビビらせて」


「え……?」


そっぽを向いてボソボソとだったが、確かにつぐみに対して謝ってくれた。


「あ、う、ううん、大丈夫です」


「悪いトコばっかりだけど、根は結構イイ奴だったりするんだよ」


ミネルバがコッソリ耳打ちした。


「おいエロ眼鏡!俺の悪口言っただろ!?」


「アレス、人の事そんな風に疑うの良くないよ?」


「うっ……、る、るせぇよ」


つぐみは変な人達だと思っていた。


どこか面白いから、まだ何だか許せた。


「……じゃなくて!ミネルバ、ここ何なの?さっきまで店に居たんだよね?何がどうなってんだかさっぱり」


「ああ、ここは人間界の裏だよ」


「人間界の裏!?」


全くもって非現実的な話だった。


「あれ、言ったよね?僕、ヴァンパイアなんだ」


「は……?ヴァンパイア?」


口をポカンと開いたまま、つぐみはミネルバを見た。


ヴァンパイアといえば、ドラマや映画で確か若い女性の生き血を吸う吸血鬼のはずだ。


「聞いてない!何ふざけた事言ってるの?ヴァンパイアなんて居るはず無いでしょ?」


「ここにいるだろうが」


アレスが自分の胸を親指で差した。


「アレスには聞いてない」


「何だと?人間の女ごときが」


ミネルバと同じ真紅の瞳のアレスに顔を近付けて睨まれるも、あまり迫力が無かった。


「そう言えば……」



『君の精気が欲しい……』



つぐみはハッとした。


ミネルバは確かにそう言っていた。


「私が欲しいって……私の精気が欲しいって事だったの?」


ミネルバは小さく笑った。


「最初はそのつもりだったんだけどね」


ミネルバはつぐみの顎をクイッと上げて、妖しく微笑んだ。


「つぐみの全部が欲しくなったんだよ。身も心も全部、僕で満たしたいなってね」


「ミネルバ……」


真紅の瞳に金縛りにあったように、ゆっくり近付いてくる唇につぐみは自然と瞼を閉じてしまった。


「こぉのスケベ眼鏡がっ!」


触れる直前の唇はピタリと止まり、ため息がつぐみへと掛かりゆっくり離れていった。


「アレス、ちょっと遠慮してくれる?」


「ふざけんな!なんで俺が遠慮なんかしなきゃなんねぇんだよ!」


「あ〜バカなアレスに何言っても無駄だったね」


「誰がバカだ!コノヤロー!」


「………ハァ」


また言い合いを始めた2人に半ば呆れたつぐみは辺りを見回した。


………ここは人間界の裏、らしい。


ただの夜の森のみたいだが、普通とは異なりすごく不気味だった。


森と言っても、生えてる木は見た事が無かった。


強いて言うなら、昔絵本で見たような両手を伸ばして顔がある木みたいだと思った。


「あ……」


夜空を見上げれば、青白い月。


昨日見た紅い月と正反対の色だった。


人間界は昼だったはずなのに、こちらでは夜になるらしい。


時差みたいな感じだろうか。


まだ半信半疑だが、こうやって現実的じゃない森の中に居るのは事実だった。


「あれ?ねぇ!ちょっと?」


「なんだい?」

「なんだよ?」


つぐみの問い掛けに、肩を押し合っていた2人は視線を向けた。


「2人共ヴァンパイア…なんだよね?」


「そうだつってんだろ?」


アレスは面倒そうに言った。


「後でじっくり味わってあげるからね?あ…もちろん精気じゃないからね」


ミネルバはウインクした。


「だから、なんでテメェはそうエロいんだよ」


「男の本能だよ、アレス」


「下らねぇな」


「ちょっとちょっと!喧嘩しないで。ねぇ?ヴァンパイアなのに、何で太陽の光浴びて大丈夫なの?」


つぐみの質問に、2人はキョトンとした。


「あ、あれ?ヴァンパイアって確か、太陽の光浴びるとダメじゃなかったっけ…?」


つぐみは2人に見つめられて、おずおずと聞いた。


「ブッ!アハハハ!」


突然笑い出したアレスに、今度はつぐみがキョトンとなった。


変な事を言ったつもりは無かった。


「つぐみは本当に可愛いんだから」


ミネルバも笑顔で、つぐみの髪に優しくキスした。


「え?え?私、何か変な事聞いた?」


「まぁ、それは置いておいて。行こうか」


「どこへ?」


「着いてからのお楽しみ」


ミネルバはウィンクして、つぐみの腰を抱いて歩き出した。


「お、おい、エロ眼鏡!ソイツ連れてくのか!?」


アレスは駆け寄ってきて言った。


「もちろん」


「はぁぁあ!?あの伯爵が素直に入れてくれる訳ねぇだろ!?」


「大丈夫だよ、アレス。つぐみ可愛いからね」


どこに連れていかれるのかも分からないまま、少し森を歩くと開けた場所に出た。


「うわ……」


目の前に現れたのは、大きなお城だった。


某遊園地の城みたいに真っ白でお姫様がいる憧れのお城……とは言いづらい、少し、いやかなり不気味なお城がそびえていた。


「こ、これ…お城?」


「僕達の家だよ」


「家!?」


ミネルバはにっこり微笑んだ。




*****




それからつぐみはミネルバに腰を抱かれたまま不気味な城に入った。


等間隔に置いてあるロウソクの中、赤い絨毯の上を歩いていた。


ロウソクの炎だけで薄暗い廊下で、まるで何かのアトラクションをやってるようなおっかなビックリのつぐみに対して、ミネルバは鼻唄混じりで歩いていた。


そんなミネルバは、たまに不安に見上げるつぐみに優しく微笑んでくれた。



『人間だ……』


『人間臭いと思ったら』


『キキキッ……旨そうな人間の女だな〜』



「きゃあ!か、壁の絵が!」


壁に掛けられている絵画が動いて喋っていた。


「あぁ、気にしないで?ちょっと煩いけど、別に何もしないから」


「き、気にしないでって、ムリ!」


どこかで体験した事があるような、本当に何かのアトラクションのようだった。


あれだって、絶対誰かが動かしてるに違いないとしか思えなかった。


「いちいちうるせぇ女だな」


「なっ!煩いって何よ!」


つぐみは両手を革ジャンに突っ込んで歩くアレスを睨んだ。


「あれぐらいで、きゃあきゃあ騒ぎやがってよ」


「アレス、女の子を苛めちゃダメだよ」


ミネルバは、つぐみの髪に優しくキスすると柔らかく微笑んだ。


ミネルバはいつでもどんな時でも味方になってくれて、すごく優しかった。


「アレスは女の子の扱いに馴れるないからね、許してあげて?」


「うるせぇエロ眼鏡!テメェは馴れ過ぎなんだよ!」


アレスの放った言葉に、つぐみはドキッとした。


やはりミネルバは女の子の扱いに馴れてるんだと改めて気付かされ、胸の奥がちょっと痛くなった。



*****



「着いたよ」


「え……」


ミネルバに言われ立ち止まった先には、つぐみの身長の横も縦も3倍はありそうな大きな扉があった。


「あ〜あ、俺は知らねぇからな」

そう言ったアレスは、扉をゆっくりと開けた。


「つぐみ、どうぞ」


「う、うん……」


先にアレスが入り、つぐみはミネルバに腰を抱かれたまま部屋の中へと入った。


「うわ〜」


その室内を見渡したつぐみは、豪華な調度品やアンティーク調の家具に感嘆の声が出てしまった。


キラキラ光る大きなシャンデリアが天井中央にあって、長細くて大きなテーブルの上にも灯っているロウソクが置いてあった。


暖炉に炎が灯り、ソファーや柱時計もすごく立派だった。


ただし、やはり若干の不気味感は拭えなかった。


「ずいぶん遅かったじゃん。ていうか人間連れ込むとかあり得ないんだけど」


どこから現れたのか、テーブルに足を組んで座っている男の子が居た。


フワフワのキャラメル色の髪で、今時の若者のような服装のその子は女の子と見間違う程可愛い顔をしていた。


「ごめんごめん、アポロ。ちょっと色々あってさ」


ミネルバは困ったように笑ったが、その子は真顔で目を細めた。


「ミネルバの色々ってどの色々な訳?つーかさ、いい加減手当たり次第手出しするの止めたら?どーせ人間なんて所詮裏切るし、すぐに死ぬ」


その子は可愛い顔なのにかなり毒舌だと思った。


「ちょっとアポロ、その発言レッドカード。なかなか帰れなかったのは謝るから」


「ミネルバは口ばっかりだもんね〜。口が上手いから、バカな人間はすぐ騙される」


「ちょっとアポロ」


足をブラブラさせて聞く耳持たずのアポロに、ミネルバはため息を吐き出した。


「一応自己紹介しておくね。こっちは僕の彼女でつぐみ」


「あ、は、初めまして。天野つぐみです」


つぐみが慌てて頭を下げれば、アポロはチラリと視線を向けた。


やはり2人と同じ真紅の瞳に上から下までジロジロ見られ、かなり居心地が悪くなった。


「いくらミネルバと仲良くても、僕は人間と仲良くする気は無いから」


「え…」


「悪いけど、人間臭くて我慢出来ないから」


「あ、アポロ!」


ミネルバの呼び掛け虚しく、アポロはテーブルから飛ぶと扉から出て行った。


「ごめんね、つぐみ。リュウタはね、人間にあまりいい印象を持ってないんだ。色々あってね」


「そう、なんだ」


詳しく聞いていいものか分からず、それ以上深くは聞けなかった。


確かに人間でも人間が恐ろしい存在になる場合もあるが、ああも露骨に嫌われてるとなるとどこか悲しく感じてしまった。


「久しぶりに帰ってきたと思ったら、まさかの人間の土産付き。アポロに喧嘩売ってるとしか思えねぇな」


ソファーにドサッと座ったアレスは言った。


「妬かない妬かない」


「誰が妬くか!」



噛み付く勢いのアレスを、ミネルバは慣れた手つきでかわした。


「まぁ、とりあえずこんな感じで仲良く暮らしてるから、つぐみも気兼ねしないで暮らしてね」


「うん………えぇ!?暮らす!?」


思わず大声で聞き返したつぐみに、ミネルバは頷いた。


「ちょっと待て!ミネルバ!暮らすってなんだよ、暮らすって!」


「そうだよ!急にこんな訳分かんない所に連れてきて、暮らすって何?無理に決まってるでしょ!?」



「まぁまぁ、アレスもつぐみも落ち着いて。ね?」


つぐみとアレスは顔を見合わせ、ゆっくり引き下がった。


「つぐみは僕の彼女なんだよ?ずっと一緒に朝昼晩…ベッドもお風呂も傍に居たいって思うから暮らすの」


「ちょっと待って?さっきからずっとツっこもうと思ってたんだけど、私がいつミネルバの彼女になったの?」


「ん〜…、生まれる前からかな?」


「ハァ〜?」


呆れ顔で言うつぐみに、ミネルバは動じなかった。


「言ったでしょ?僕達が出逢ったのは偶然じゃなくて必然。結ばれる運命だったんだよ」


「くぁ〜!くせぇ台詞!おい、鳥肌立たないのかオメェ」


アレスはつぐみに言いながら、服の上から身体を掻きまくった。


「そこまで痒くはないけど私は住まないよ。お店あるし、それにミネルバの彼女になった覚えもないし」


女の子馴れしているミネルバが、こうやって毎回女の子を連れ込んでる事は容易に想像できた。


「俺は反対だ」


「どうして?」


低く呟いたアレスに、ミネルバは首を傾げた。


「アポロの気持ち考えてやれ。つーか、ソイツが住まねぇつってんだぜ?人間と仲良しこよしなんて俺もごめんだな」


「アレス、ちょっと聞いて。あのね」


「テメェに何か考えがあって連れてきたんだろ?そうじゃなかったら、ココに人間連れてくるなんて考えられねぇし」


被るように言われた言葉に、ミネルバは驚いていた。


「分かるんだ、アレスに」


「へっ、何年一緒に居ると思ってやがんだよテメェは」


得意気なアレスにミネルバは困ったように笑って、ゆっくり息を吐いた。


「深いトコまでは知らねぇからよ、そんな焦んなくてもいいんじゃねぇの?」


「うん、そうだね」



喧嘩ばかりだと思っていたミネルバとアレスだったが、本当はすごくお互いの事を分かっているんだとつぐみは思った。


兄弟のような友達のような関係は、つぐみには眩しくて見ていられなかった。


「どれ、部屋行くな」


アレスはアポロが出た同じ扉から部屋を出た。


大きな部屋に2人だけになり、更に部屋の大きさが際立った。


「とりあえず、今日は自己紹介したからそれだけで十分て考えようかな」


「う、ん」


「一旦帰る?送っていくよ」

「ありがとう」


無理矢理連れてこられたのに素直にお礼を言ってしまうのな、日本人のいいところだと思いたかった。



このミネルバ達との出逢いがすべての始まりと終わりになるとは、全く知らずにいた。



『偶然か必然か』完了



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